佐倉さん、御無沙汰しております。

佐倉さんとWejloveさんの「神がいなければすべてはむなし いのでは?」と題するやりとりの感想です。

すべてのものに存在目的がなければ人生はむなしいのでしょうか。わたしには、むしろ、もしすべてのものの存在目的がすでに決定しているなら、それこそ、人生はむなしいのではないかと思います。何を描くのかすでに決められた「ぬり絵」は価値創造者を失望させます。「無意味な」白紙のキャンバスこそ価値創造者にとってふさわしいものです。すでに敷かれたレールの上を歩む人生は冒険者を失望させます。「無意味な」道のないところに道を切り開くのが冒険者にとってふさわしいものです。価値を誰かから与えられることを期待するよりは自ら価値を創り出そうしているとき、すなわち、やりたいことで満ちあふれているとき、「むなしさ」はわたしたちにもっとも縁遠いものとなると思います。
私も佐倉さんに同感です。(存在目的ではなく存在理由という言葉の方が私にはしっくり来るのでこちらを使います。)

かつての私もそうでしたが存在理由がないという言葉を聞くと自由を感じる反面、「むなしい」と感じたり、生きていけないと感じたりしていました。今思うと、当時私は「存在理由はない」という言葉のなかに絶対的な存在理由がなく、私の存在を絶対的に否定されている、つまり私の生きることには全く意味がないし意味がないだけでなく否定されていると感じてむなしくなったり生きていけない感じがしていたように思います。

実際は、「存在理由がない」という言葉は、私という存在を否定する意味は含まず(勿論、正確に言えば積極的に私という存在を肯定も否定もしないのですが)、だからこそ、人間(少なくとも私)は自由であり、主体的に自分の頭で考えて結果は自分で引き受ける覚悟で決断し絶対的な真理なんかに拘束されることなく思う存分生きていけるのだ、と思い始めています。

「存在理由」という問いにぶつかったのは中学・高校の頃です。20代半ばにしてようやく「存在理由はない」という応えを自分なりにつかんだのですが、その応えを得た瞬間、ホッとしたことを覚えています。これは、存在理由を求めつつも、自分の自由を拘束しているものが存在理由としてあるのではないか、という心配を私は無意識のうちにしている部分があったせいだろうと考えています。当時の私は存在理由と同時に自由に生きることも求めていました。

存在理由がない。このことを自覚することはかつての私にとってもそうでしたが、ある人たちにとっては絶望的なことかもしれません。しかし、このことを自覚したうえで主体的に生き始めた時、人は絶望を超えており、そこには「むなしさ」はなく、幻想ではない、本当の「充実」がそこにあると思います。


人間というものは、無価値な土くれから美しい土器を作り上げることができるように、自分自身や仲間のために、労働や芸術・芸能を通じて、あたらしい価値を創造することができる存在です。価値を創りだす存在であることによって、人間はおのれの人生を価値あるものとしているのだと思います。ひとは価値創造者であるとき、「むなしさ」はもっとも縁遠いと思います。

もし、創造主としての神がなければものには存在理由がなく、そのため「むなしい」のなら、おのれの創造主をもたない神自身の人生はむなしいということにもなるでしょう。

このようなことを考えていますと、むなしさの問題は、存在創造の問題ではなく、価値創造の問題と深くかかわっているように思われます。人間がむなしさを克服できるのは、人間自身が価値創造者でありうるからでしょう。そして、人間が価値創造者であるということが、おっしゃられるような、人間の基本的な自由への希求に通じているのだと思います。