こんにちは。プータンです。
ものはそこに本当に存在していると思いますか?ひょっとして存在していないのかも知れません。全てが夢なのかも知れません。証明できません。自然科学は、ものがそこに存在していることを前提としています。
同じようにファンダメンタリスト達も「聖書が…誤りなき神のことばである」ことを前提にしています。矛盾が出てこようが、「神のことばである」という前提に立つなら、それなりに説明出来ます。信仰って便利ですね…と言われても、前提としている以上、文句言えません。
プータンは前提の吟味なしに展開される自然科学を馬鹿馬鹿しいとは思いません。だからファンダメンタリスト達の聖書学を馬鹿馬鹿しいとも思いません。
また、ものは存在していないと考える人を「お前、何言ってんだよ。あるじゃないか。そこに、それ。」 と責めるつもりもありません。論理的に対等だと思うからです。だから、「不信仰って便利ですね…。」なんて言いません。
だって、「神のことば」なんだもの。「神の」ですよ。
信じる人、信じない人。その違いだけです。そしてあなたとプータン含むファンダメンタリスト達は前提が違うだけです。
通じたでしょうか。言いたいこと。
(1)存在のフレームワーク
ものはそこに本当に存在していると思いますか?ひょっとして存在していないのかも知れません。全てが夢なのかも知れません・・・Kさんはビールを3本飲みました。それからKさんは夢を見ましたが、夢の中でKさんはビールを5本飲みました。そして目が覚めました。Kさんが実際に飲んだビールは何本だったのでしょうか(つまりどれだけの量のビールがKさんの体の中に投入されたのでしょうか)。夢と現実を分けることのできる普通の人なら、「3本」と正しく応えるでしょう。夢と現実を分けることのできない精神障害者なら、「8本」と応えるかもしれません。しかし、「8本」という回答が間違っていることは、Kさんの体重をはかることによって調べることができます。
しかし、この現実そのものが、プータンさんが言われるように、もしかしたら、夢なのかもしれません。この夢から覚めたら、Kさんがビールを3本飲み、それと同量の体重増加が見られるようになった、というのは実は夢で、ビールを5本飲んだのは夢の中の夢の出来事だった、ということになります。本当の現実では、Kさんは一本もビールを飲んでいなかったのかもしれません。しかしながら、このあたらしい「本当の現実」と思っていたのも、実は夢であって、本当の本当の現実では、Kさんはビールを2本飲んでいた、などということになるかもしれません。このように見てくると、あるものが存在するかどうかなどという問いは、それぞれのフレームワーク(次元)のなかでのみ意味をもつことがわかります。
小学校の算数の教科書に、3個のみかんを載せた皿と5個のみかんを載せた皿が描いてあり、「両方あわせてみかんは何個あるか?」という問題があったとします。その問いに対して、「絵に描いたみかんは実際存在しない」などと文句を言うのは、このフレームワーク(次元)の違いを心得ぬ者のナンセンスな言葉です。存在するかどうかという問いは、それぞれのフレームワーク(次元)のなかでのみ意味をもつことを理解していないのです。
したがって、夢から覚めて、わたしたちの今日の現実が夢だとわかっても、存在が非存在になるわけではありません。存在はそれぞれのフレームワーク(次元)の中でのみ意味があるからです。
(2)存在の意味
自然科学は、ものがそこに存在していることを前提としています・・・ものが存在しているとか存在していないとかを前提にするためには、ものが「存在する」とか「存在しない」という言葉の意味が先ず与えられていなければなりません。ところが、ものが「存在している」とか「存在していない」という言葉の意味は、日常生活の知覚経験によって与えられているのです。冷蔵庫にビールがあるかどうかは、冷蔵庫を開けてみればわかります。そこにビールが見え、触ったり、飲んだりすることができる、そんな知覚経験が、「存在する」「存在しない」などという言葉に意味を与えているのです。自然科学の実験や観察は、この日常生活の知覚経験の延長にすぎません。肉眼には見えない極微な世界や遠隔距離の世界を、顕微鏡や望遠鏡や火星探査機などのような技術を介して見ているに過ぎないからです。
したがって、「自然科学は、ものがそこに存在していることを前提としています」というご主張は根本的に間違っています。わたしたちの(日常的、科学的)知覚体験が先ずあって、それが存在の意味を与えているからです。そして、存在に意味があたえられてはじめて、わたしたちは、「ものがそこに存在していることを前提」することができのです。
つまり、わたしたちの(日常的、科学的)知覚体験こそが、ものがそこに存在しているとか存在しないというようなことを前提にできるための大前提となっているのですから、わたしたちの(日常的、科学的)知覚体験が、「ものがそこに存在していることを前提」にすることなど不可能なのです。
(3)知識と信仰の違い
信じる人、信じない人。その違いだけです。そしてあなたとプータン含むファンダメンタリスト達は前提が違うだけです・・・冷蔵庫にビールがあるかどうかは、冷蔵庫を開けてみればわかります。火星に生命があるかどうか、火星を調べてみれば分かります。それは知識となります。しかし、神が存在するとか、死後人間の魂は生残って天国や地獄にいくとか、そのようなことがらは、調べて分かることではありません。わたしたちの知覚が届かない領域の事柄だからです。信仰とは、そのような、わたしたちの知識の届かない領域に関する、信者の思い込みです。知識は検証できます。信仰は検証できません。 火星に火星探査機が届くのは知識によります。そしてその知識の正しさは検証することができます。信者が天国に行くというのは信者の信仰によります。だれも検証できない、信者に都合の良い思い込みに過ぎません。