(1)何故、書かれたかを全く考慮していない主張
つまり、サウルやダビデなどの物語の中の登場人物だけではなく、物語をを書いたナレーター自身が、二つ目の物語をダビデとサウルの初対面の物語をして書いていることがわかります。そのために、異常な精神状態のゆえに「傍に使えていた」ダビデをダビデと認知できなかったのだ、などと言い訳する空想的強弁の根拠が壊滅します。ここでも佐倉氏の文章読みとり能力の無さが露呈されているのですが、何故二つの紹介文になっているのかを考えられた事など一度もないのだと思いますが、二つの紹介文を記述した理由は、記録の断片的残存、個人の特定などによるとも考えられます。特に個人の特定という面においては、時代の今昔にかかわらず同名の人物の存在があってもおかしくはなく、その事から考えてもナレーターが二つの紹介文を書いたとしても特に不思議はありません。また佐倉氏が他で言われている「現代聖書学の成果」において聖書の記述が別個の資料から編集されたのなら、それぞれにダビデの紹介文があっても不思議はありません。むしろ、それによって二つの場面の人物が「エッサイの子であるダビデ」であることを特定するのです。そして、以前にも説明しましたが二つのサウルに「仕えた」物語は前後の文脈より、同義の事を指しているとは考えられません。一つ目は明らかに書生的な役目として、二つ目は軍人的な役目として役変わりした事を「仕えた」で表現しているとも考えられます。そして、私の主張に対しても文章読みとりが出来てないようですが、
異常な精神状態のゆえに「傍に使えていた」ダビデをダビデと認知できなかったのだと言ってはいません。私はサウルは「ダビデ」ではなく「竪琴を引く者」という印象の方が強かった、そして異常な状態ゆえに「竪琴を引く者」が「ダビデ」だという意識が薄れていたのではと言っているのです。
二つの紹介文がおかしいと言われるのは、ただ単に我々がここの物語のダビデは「エッサイの子、ダビデ」であることを知っているからです。それでも佐倉氏が二つの紹介文がおかしいと主張されているのは、イスラエルに同名の人間などいないと思われているからではないでしょうか。ダビデは歴史上でひとりだけであるという思い込みがあるように思われてなりません。
(2)本当に聖書を読んでますか?
「エルサレム・・・、シオン・・・」あるいは「シオン・・・エルサレム・・・」というペアは定型句と言ってよいほど、聖書ではしばしば使われる、繰り返しを避ける文学的表現ですと断言されてますが、マタイ23:37にイエス様が「エルサレム、エルサレム。・・・・」と言われたことが記述されていますが、全く繰り返しを避けていませんね?同様にルカ13:34にも同じ記述がありますね?また詩篇87:5には
『しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。』
とあり、同102:14では
『まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。』
とあり、イザヤ52:9には
『エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。』
とあり、同62:7には
『主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。』
とあり、エレミヤ3:17には
『そのとき、エルサレムは「主の御座」とよばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。』
とあり、同5:1には
『エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で探して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。』
とあり、同8:19には
『聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。「主はシオンにはおられないのか。シオンの王はその中におられないのか。』
とあります。もうこれ以上はあげませんが、明らかに繰り返しを避けてはいないのですが、佐倉氏の聖書は違っているのでしょうか?これらの記述があるにも関わらず、
あきらかに、シオン=エルサレムです。ここでも、その例外ではありません。とは何故言えるのでしょうか。明らかに、シオンの繰り返し、エルサレムの繰り返しをしています。誰の主張から引用されたのかしりませんが、引用の前に自分で聖書を調べられた方がいいですよ。そして佐倉氏が引き合いにだされている繰り返しを避ける箇所は詩的な部分ばかりで、写実的な箇所がありません。詩的部分においては繰り返しを避ける方が文学的表現といしては美しいですが、写実的部分で詩的表現を用いてもあまり変化はありません。聖書を文学作品として理解するのは自由ですが、詩的部分と写実的部分を混同して分析しないほうがいいですよ。いずれにせよ、以上の事からシオンとエルサレムが常に同じのもとして記されているという佐倉氏の根拠は消滅しました。まあ、まともに聖書を読めば最初からこんな根拠など思いつくはずもないのですが。ついでにあげると
つまり、「彼は大阪に行って、その水の都で成功した」、という形の表現です。ここではとくに、「エルサレム、シオンの要塞」という表現を使うとのことですが、なるほど確かに大阪=水の都とはなりますが、大阪城=水の都とはなりません。例えばエルサレム=麗しの都とはいえますが、シオンの要塞=麗しの都とはいいません。この主張は形容的表現と地理的表現の違いをまったく無視した主張であり、大阪=水の都という形容的表現を引き合いに出されても表現方法自体が異なっているのだから何の意味もありません。これによって佐倉氏の(2)−(イ)前半の根拠は意味がなくなりました。
(3)文章の拡大解釈とこじつけ
[ダビデ]王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。という表現でわかるように、エルサレムとはエブス人を住民とする「地」であると表現されています。さらにまた、エブス人はダビデが町に入ることはできないと思[った]・・・しかしダビデはシオンの要塞を陥れた。「その地の住民のエブス人を攻めようとした。」と表現しているのに、次では「エブス人はダビデが町に入ることはできない」と表現し、さらに「ダビデはシオンの要塞を陥れた」と表現するのですが、「その地(エルサレム)」に攻めにいったという最初の表現と「町に入ること」と「シオンの要塞を陥れた」というのが同じ事を指しているという佐倉氏の主張を正とすると、文法的に一貫性のない表現をしている事になります。もし同じ事を指すのなら、同じ名称を用いなければ文章として非常に混乱することになります。この事は佐倉氏の言う文学的表現には反しないのでしょうか?エブス人は『ダビデが町に入ることはできない』と思いダビデを馬鹿にする。という記述の後で、『しかしダビデはシオンの要塞を陥れた。』となっています。これだと佐倉流の文学的表現としては美しいのでしょうが、文章の意味が通じません。エブス人は「町」にいるのに、「シオンの要塞」を占領してどうするの?という事になってしまいます。これを佐倉氏は文学的に美しい表現と主張されているのですが、それとは逆に文章的に意味の通じない記述になっているのです。この事から
エルサレム=エブス人の住む地=エブス人の町=シオンの要塞と全てが同じ地を指しているとは考えられません。さらに、またもや人の主張を拡大解釈されているようですが、私はイスラエル人とエブス人が共生しているとは言いましたが、仲良く住んでいるとは全く言ってません。自分の都合の言いように拡大解釈するのはやめていただきたいものです。また
短い表現ながらも、自信過剰なエブス人とそれを攻め落とそうとするダビデの軍との間にある緊張感を示す優れた文学的表現どこから引用されたか知りませんが、エブス人は一方的にダビデを馬鹿にしているのですから、両者の間に、少なくともエブス人側には緊張感などは無いと思われます。緊張感とは互いが殺気だって一瞬の気の緩みも許されないような状況において発生するものであり、この場合、最初からエブス人はダビデなど相手にしていないのだから、実際はダビデ軍側にのみあったのだと思います。更にエブス人とイスラエル人が混ざり合って住んでいたとも言ってません。私の主張は「エルサレム」とはある一定地域の事を指し、その中にエブス人の要塞としての町があったというものです。そして一定地域であるエルサレムの中にエブス人が(町に)住んでおり、イスラエル人が放牧や集落で住んでいたと言うものです。ゆえに
イスラエル人とエブス人が一緒に仲良く混ざり合って住んでいたことを明白に否定しています。というのは、私の主張を佐倉氏の土台に当てはめた場合であり、逆にいうと佐倉氏の主張を私の土台に当てはめると「イスラエル人とエブス人のエルサレムでの共生はないということを明白に否定しています」となります。あまり自分の主張を絶対視しない方がいいですよ。特に佐倉氏の場合は。以上から(2)−(イ)の後半の根拠も意味がなくなりました。
(4)(2)−(ウ)及び(2)−(エ)について
(2)−(ウ)については前回も挙げてますのでこおでは再度書きません。(2)−(エ)について、なにやらお絵書きしておられるようですが、例えで挙げられている朝鮮事情においてはむしろ朝鮮半島という中で「敵対している者同志が共生している」という1つの根拠となるものであり、エルサレムにおけるエブス人とイスラエル人の共生を否定するものではあり得ません。別の例えを出せば、1614年の大坂冬の陣において徳川方は大坂に攻め込んだが大坂城は陥落せずに講和をして豊臣家と共存したのと同様に、イスラエル人もエルサレムに攻め込んだが、エブス人の要塞は陥落せずに休戦となり、イスラエル人とエブス人が共生していたと思われます。また別の例えを出せば、東ドイツの首都ベルリンにおいては資本主義陣営(西ベルリン)と共産主義陣営(東ベルリン)が同じ都市内で共生していたという事実もあります。これなど都市レベルでも敵対者同志が共生できる代表的な例です。ゆえに聖書の記述のようにエルサレムでイスラエルとエブス人の共生も不自然ではないのです。さて、またもやもっともらしく聞こえる根拠を創作しておられるようですが、その中で
この一見矛盾した二つの事柄を調和説明するためにうまれた編集的加筆であると言えるでしょう。と言われるのですが、現実に合わせて、英雄伝説的にとらえる事も忘れずに編集的加筆をして矛盾を調和したのなら、士師記1:21において
「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」
という記述はどう説明していただけるのでしょうか?伝説と現実を調和させるために加筆したはずなのに現実と矛盾した記述をしているとは・・・。佐倉氏の主張を正とすると、
『エルサレムには、イスラエル人は住んでいない。しかし、伝説ではエルサレムを攻撃した事になっている・・・どうしよう・・・よし、新たに加筆しよう。』といって加筆した記述が現実と矛盾していた。
というオチがつく話しになります。またも「うっかり」そうしてしまったとでも説明されるのでしょうか。(^o^)そうでないとすれば、編集的加筆があったにせよ、彼らがエルサレムと呼ぶ土地にはイスラエル人とエブス人が共生していたと考えるのが自然だと思われます。
さて(2)−(オ)をなぜ書かれたのかは知りませんが、最終的にダビデがゴリアテの首を持ち帰ったのはエルサレムであり(サムエル上17:54)であることがはっきりと書かれています。
(5)まとめ
(ア)サウルとダビデの初対面に関して佐倉氏は矛盾になりそうな理由をこじつけている。
(イ)佐倉氏は聖書解釈において解読錯誤をしている。
お返事、ありがとうございました。
わたしは、「ダビデ物語の矛盾と混乱(1)」において、
(ア)ダビデとサウルの出会いに関して、サムエル記には二つの矛盾する物語がある。という主張をしましたが、(ア)については、わたしの主張したいことはこれまでですべて語っており、わたしにはこれ以上つけくわえることはありません。とくに前回(12月3日)は、わかりやすくまとめておきましたので、上記(1)の反論らしきもの(わたしには意味不明で支離滅裂な言明)が、わたしの主張に対する十分な反論となっているかどうか、その判断は読者のみなさんにおまかせしておきます。
(イ)サムエル記は時代錯誤を犯している。
ここでは(イ)のメイン・ポイントだけを簡単に繰り返しておきます。
わたしの問題提起:「ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。(サムエル記 上 17:54)」という記述は時代錯誤である。以下は反論の反論です。前回紹介したものですが、繰り返します。わたしの理由:エルサレムはサウル王当時はエブス人の町であり、この町がイスラエル人のものになるのは、それよるずっと後ダビデが王となってからである。(サムエル記下 5:6-7)
S&Nさんの反論:エルサレムの中でエブス人とイスラエル人が一緒に住んでいた。(士師記1章、ヨシュア記15章)
エルサレムの中でエブス人とイスラエル人が一緒に住んでいたとすると、(a)混ざり合って住んでいたか、(b)城壁を境に別々に住んでいた(エブス人は城壁の中、イスラエル人は城壁の外)か、である。このうち、(a)の可能性はサムエル記下5章のダビデのエルサレムの侵攻を不必要とすることになり、ありえないとわたしは考えますが、また、S&Nさんの考えでも(b)の方を取られているようなので、反論「エルサレムのなかでエブス人とイスラエル人が一緒に住んでいた」とは、たとえば冷戦当時のベルリンのように、城壁を境に、内側と外側にエブス人とイスラエル人が別れて共存していた、と言う意味であると解して論を進めます。
さて、もし、エルサレムの中で、城壁を境に、内側と外側にエブス人とイスラエル人が別れて共存していたとすると、ひとつの問題にぶつかります。それが士師記19節のあるイスラエル人の旅人に関する記述です。
[彼らは]立ち上がって出発し、エブスすなわちエルサレムを目の前にするところまで来た。彼らがエブスの近くに来たとき、日は大きく傾いていた。若者は主人に、「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしたらいかがですか」と言ったが、主人は、「イスラエルの人びとでないこの異国人の町に入るまい。ギブァまで進むことにしよう」と答えた。もし、エルサレムが、冷戦当時のベルリンのように、ベルリンの壁を境に西ベルリンと東ベルリンのように、別れて住んでいるとしたら、たとえば、NATO軍やアメリカ軍が何の困難もなく西ベルリンに往くことができたように、この旅人もエルサレムの中のイスラエル人の住む側に入ることは何の問題もなかったはずです。この記述は、エルサレムの中にイスラエル人の住む居住地域がなかったこと -- つまり、エルサレムの中で、城壁を境に、内側と外側にエブス人とイスラエル人が別れて共存していた、という主張が成り立たないことを示しています。(士師記 19:10b-12)
さて、(a)でも(b)でもないとすると、反論「エルサレムの中でエブス人とイスラエル人が一緒に住んでいた」が否定されます。つまり、エルサレム全体がエブス人の町であり、エルサレムにはイスラエル人は住んでいなかったことになります。もし、エルサレムにイスラエル人が住んでいなかったとすると、「ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。(サムエル記 上 17:54)」という記述は時代錯誤である、というわたしの主張は正しいことになります。
以上です。