(1) 信仰者である限り、神の殺人命令は正当化されねばならない?
言葉にこだわって申し訳ないのですが、正当化と言う言葉には、その事が元来不当であると言う意味が込められていると思うのですが、どうでしょうか?私は、神の殺人命令が不当なものとは考えません。
佐倉さんと私とでは、この件に関する認識はそんなに違っていないと思います。確かに私は神を信じる者の立場を擁護したいと言う気持ちは常にあります。しかしそれなら、単に「オウムは偽預言者による間違った宗教」と位置づけするだけで事足りると思うのです。私がそうしなかったのは、神を信じない人に、語る時、ある宗教は真実で、別の宗教は間違った偽者である。と言うのは、詭弁にしか感じないだろうと思うからです。宗教でもっともやっかいなのは、誰が本当の事を言い、誰がうそをついているかわからないと言うところです。これは、嘘発見器にかけても今の技術ではわからないだろうと思います。私は本当は、「神はそのような命令を下さない、」「あれはオウムの教祖自身から出た、命令である。」と言いたいのですが。これを証明する方法が私にはありません。
佐倉さんのように、「神は存在しない」と言いきれば、モーセの命令もオウムの教祖の命令も神からではなく、神の名を語る人間から出た事だと言えるでしょう。しかし残念ながら、私には神の存在を論理的に否定する事は出来ません。心情的には、はっきりと積極的に肯定しています。聖書の内容も条件付きですが、正しいと思っています。聖書に書かれている、神が殺しなさいと言った事も事実として受け止めています。証明しようのない事は世の中にたくさんあると思うのですが、証明できなければ事実ではないのでしょうか?証明できない事実もたくさんあると思うのですが?
仮に、神が殺せと命じたとして、それは神の性質を特定するだけで、存在するかしないかとは関係ありません。しかし世間の人は、「神は正義である」「人殺しは正義ではない」「よって人殺しを命令するのは神ではない。」と言う論法がまかり通っている様に思います。ここで、宗教者が口篭もってしまうのは、この事を否定すると、宗教は世の中の倫理観を背負っていると言う事が崩れてしまうからではないでしょうか。
私も、宗教の指導者の立場であれば、こんな事は言いにくいかもしれません、幸い私は、単なる教会員ですので。大きな顔をして、「神が殺せと命令する事は、過去にもあったしこれからもあるかも知れない。」と言えます。私は「人殺しは正義ではない」と言う考えが間違っていると思います。正確に「ある特定の状況下の人殺しは正義ではない」と言うのが正解に近いと思います。(言葉の限界で、私の考えを正確には言っていませんが)
何故殺人は悪なのでしょうか、神の存在を信じていないと仮定して書きますと、人間が生きていると言う事は、「死とは物質の集合体である人間と言う組織が形を変える」だけの事で、このような事は日常的に起こっている、現象の一つに過ぎません。また社会的に見ても殺人がすべて悪であるとは言われておりません。典型的なのが戦争です。
湾岸戦争で、アメリカ人は自国の兵士達を殺人を犯した悪人と言ったでしょうか、彼らは英雄として褒め称えられています。秀吉や家康もナポレオンもシーザーも、大量殺戮を行った極悪人とは普通言いません。善悪の判断は、宗教の得意分野で、自然科学の不得意な分野だと思います。クローン人間の研究も、原爆の開発も科学的には善なんでしょうね。(個人的感情が入ってすみません)
私は神の殺人命令を正当化するのではなく「神の殺人命令は正当である」と言っているのです。ただ問題なのは、その事が「本当に神から来たのか」、「神の権威を語る人間から来たのか、」確認する方法がないと言う事を、神を信じる人も、信じない人も、同じ様に認識すべきだ、と言う事です。それは、世の中には神を信じる人と信じない人の両方がいるからで、お互いにその自由を認めないといけないと思うからです。
私が思うオウムの過ちは、「自分達の信仰を他の人に実力で押し付けた」事です。自分達の世界で赦される事を、自分達の世界以外の人に無理矢理押し付けてしまった事です。この事は、宗教だけに限らず、国家を含むあらゆる団体で、行ってはならない事の一つだと思います。
お互いの世界観や信仰あるいは論理を、論議し会う事はよい事だと思います。どちらが正しいか結論は出なくても、お互いの考えを理解し会う事は可能です。ですから論議は決して無駄ではありません。この面倒くさくて、退屈な作業を忍耐強くやる事によって、何かよい結果が生まれると信じています。
私が、佐倉さんにメールを送るのも、この作業の一つです、私が佐倉さんの考えを受け入れる事が出来なくても、出来る限り正確に佐倉さんの考えを知る事は可能です、これは言葉のぶつけ合いをやってみないと出来ない事だと思います。特定の宗教や団体が、この作業をせずに、みずからの団体の組織と権威の維持に躍起となっているのは、改めるべきだと思います。
話を戻しますが。私の結論は、「神が殺人を命令する事はある」そして「真実神が命令した殺人であれば、それは正義とされ実行しても罪はない」モーセを含む多くの預言者が神の命令に逆らっています。彼らはまず自分の良心や社会常識に照らしあわせて、神に「そう言われても…」と言っています。そして神が譲歩する事もありました。神にとって当然の理であっても、人間に理解しがたい事であれば神は人間が理解するまで時間を与えてくれるのではないでしょうか?大切なのは、「行動はあくまで自分の責任と判断によって行う事です。」神は命令すると共に、それに対して人間が自由に考え行動する事を赦しておられます。(佐倉さんの嫌いな表現でしょうが)、その自由意志を奪う事がサタンの業です。
最後に佐倉さんとこれを読んでくださったすべての人にお願いしたいのは、「神が殺人を命令する事はある」と認めたからと言って、「だから宗教は危険だ」と言う結論に走らないで欲しいと言う事です。車によって死ぬ人は、日本だけでも年間10000人以上います。でも車は殺人の道具とはいわれません。核爆発は人類に大変な惨事をもたらしましたが、原子力は必要です、ただそこには、正しくコントロールできる社会が必要です。
佐倉さんは、神を否定したために多くの迫害を受けた事を書いておられましたが、私はその逆も多く経験しています。特に日本では(外国の事はあまり知らないのですが)神やキリストを信じる人に対して、「科学を理解しない無知な人間」とか「非現実的な人」とか、また逆に、クリスチャンに特別な高徳さを求めるとか、普通の人間が、「ただ神の存在を信じているだけだ」と言うのを認めてくれない風潮があります。世間の多くの人は佐倉さんのように論理的ではなく、ほぼ感情的に、宗教アレルギーがあるようです、自分の子供が宗教団体に加入する事を喜んで勧める親は、めったにいません。佐倉さんのこのホームページがそのような傾向を更に強める助けにならない様の望みます。これは佐倉さんの発言を控えて欲しいと言うものではなく、読む人が、自分のよい様に解釈せず、論点を正しく理解して欲しいと言う事です。
特に今回のテーマは、神と人間の関係を考える上で、避けてはいけない、重要なテーマだと思います。私には力が及びませんが、「殺せと国家が命じる時」「殺せと裁判長が命じる時」「殺せと国民が命じる時」「殺せと良心が命じる時」などについても論じ合ってもらえないものでしょうか。そうすればもう少し「殺人とは何か」「善悪の基準は何か」と言う事がはっきりと見えてくると思います。冷静に論理的にを心がけましたが、どうしても神を信じる者の思い入れが強く入っているように思います。
私は、佐倉さんが、「神が存在しない事を主張しているのではなく」「神が存在しない事を証明しょうとしている」のだと感じました。私には、神が存在する事を客観的の証明する事は出来ませんが。神が存在しない事を証明する事も出来ません。ですから「私は神の存在を信じています」としか言いようがありません。
もう一つ蛇足ですが、佐倉さんは、キリスト教すべてについて論じているのではなく、佐倉さんの認識しているキリスト教について論じていると解釈していいでしょうか?
(1)真の信仰者と偽の信仰者
殺人が一般に悪とされているのは、それが殺される人間の自由意志を完全に奪ってしまう行為だからではないでしょうか。殺人ほど完璧に人間の自由意志を奪う手段はありません。ところで、haruo さんは次のように語られました。
(ア)私が思うオウムの過ちは、「自分達の信仰を他の人に実力で押し付けた」事です。自分達の世界で赦される事を、自分達の世界以外の人に無理矢理押し付けてしまった事です。・・・・自由意志を奪う事がサタンの業です。この二つのharuo さんの言明の間には深刻な矛盾があります。一方では、他人の自由意志を奪うことを「過ち」あるいは「サタンの業」と呼んでおられるにもかかわらず、他方では、他人の自由意志を奪う神の殺人命令が「正当」であると主張されているからです。(イ)私は神の殺人命令を正当化するのではなく「神の殺人命令は正当である」と言っているのです。・・・・私の結論は、「神が殺人を命令する事はある」そして「真実神が命令した殺人であれば、それは正義とされ実行しても罪はない」・・・・多くの預言者が神の命令に逆らっています。彼らはまず自分の良心や社会常識に照らしあわせて、神に「そう言われても…」と言っています。
信仰が単なるアクセサリーではなく、日々を生きる指針となっている真の信仰者にとっては、「善悪の基準が先か、神の命令が先か」、という葛藤が必ずあるだろうと想像されます。(ア)の主張では、「自由意志を奪う事がサタンの業」と言われるているように、善悪の基準(自由意志を奪うかどうか)が先にあって、それを基に、はたして、それが神のものかサタンのものかが判断されています。それに対して、(イ)の主張では、神の殺人命令は、それが神の命令であるという理由で正当なのだ、というものであって、真に神の命令であるかどうかという問いがまずあって、それを基準にして、善悪の判断がなされています。
この矛盾、この葛藤こそ、まさにわたしが「殺せ!と神が命じるとき」で取り上げた問題の核心です。
殺人を神が命じるとき、わたしはどうしたらよいのだろうか。殺人は明らかに悪であり 善なる神がそんなことを命じるわけがない、これは何かの間違いに違いない、そう考えて、わたしはこの命令を無視するだろうか。それとも、神の意思こそが何が善で何が悪かを決定する絶対基準であるから、不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見にではなく、神に従うことこそが正しいのだ、そう考えて、わたしはこの命令を実行するだろうか。 (佐倉)そして、まことの信仰者ならば、結局、後者、すなわち、「不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見にではなく、神に従うことこそが正しいのだ」と結論を下さねばなりません。まさに、
多くの預言者が神の命令に逆らっています。彼らはまず自分の良心や社会常識に照らしあわせて、神に「そう言われても…」と言っています。と言われているとおりです。そして、これらのことからの当然の帰結として、haruo さんは、信仰者として、次のように主張せねばなりません。
わたし(haruo)は、神の命令ならば、殺人を実行します。そう言えなければ信仰は偽物だからです。そして、オウム信者の殺人行為について、聖書信仰者は、「教義の内容はともかく、彼らは、信仰者としては当然のことをやったのであり、わたしも神の命令ならば信仰者として同じことをやります」と、同意しなければなりません。そう自覚せず、逆に、自分たちはオウムとは別種なのだ、と思い込む聖書信仰者はみんな自分自身をごまかしている卑劣なうそつきです。haruo さんは勇気があると思います。
(2)これは単に宗教だけの問題ではない。が、・・・
この問題は、お気づきの通り、けっして宗教だけに限られる問題ではありません。また、殺人だけの問題でもありません。
別に殺人でなくてもよいのです。自分の意志と神の意志とが食い違うとき、自分はどうするか。アクセサリーとしてのキリスト教ではなく、神のご意志を実行しようとする真剣なクリスチャンなら、当然、一度や二度は、直面したことがある問題のはずです。また、これを、会社の命令と自分の良心との食い違いの問題として考えれば、クリスチャンだけの問題ではなく、一般に通じるものでもあります。そうすれば、オーム真理教の殺人事件の意味が、それほど他人事ではないことが、もっとよく分かるはずです。 (「作者より岡野さんへ 」)自分が正しいと思っていることに反する命令が自分の上に下される事態が生じるところでは、いつでも起きうる問題です。とくに、国家の命令や会社の命令が個人の正しいと思っていることと食い違う場合があることは、しばしば見受けられることです。聖書をみれば明らかなように、神はしばしば殺人を命令しており、信者はそれを実行しています。 オウム真理教の信徒も、真理を体現していると彼らが信じていた教祖の命令によって殺人を実行しました。 いずれの場合も、自らの「良心」と「疑い」よりも、「神の言葉」と「信仰」をより高い価値とした結果だと思います。 ・・・しかも、同じ様な事態は、自らの良心に反するような国家の命令や会社の命令を実行する場合にも、ありうるだろう・・・(「作者より島本泰一さんへ 」)
しかしながら、国家や会社の命令ならば、相手は人間ですから、たとえ困難はあっても、その命令の正しさを疑うことはできます。それに比べて、神の命令の場合は、それが絶対的に正しいとされるだけでなく、すでに(1)でも明らかになったように、正しいかどうかという問いそのものが、それが神の命令であるかどうかにかかっているために、神の命令の正しさを疑うこと自体が信者には無意味です。信仰者にとって、神の命令であるという事実そのものが、それが正しいことを裏付けているわけですから。
私は神の殺人命令を正当化するのではなく「神の殺人命令は正当である」と言っているのです。(haruo)と言われたとおりです。しかも、信者にとって神は自らの存在の基盤といえるものですから、神を疑うことは自己の存在を否定することでもあります。信者は神を疑う自由を持っていません。
そのために、聖書や教会組織を神聖化して、それらを通して神の意志が自分に働きかけているのだと信じている限り、「神の殺人命令」のような最悪の地獄(自己の良心に反して行動する苦痛)から、信者が救われる可能性はまったくありません。それは論理的必然です。「神は絶対でも、神の代弁者(教会組織や聖書、つまり人間的なもの)は絶対ではない」と認識することだけが、神への信仰を捨てることなく、信仰者をこの地獄から解放する唯一の道であるとわたしは想像しています。(わたし自身がそうだったのですが。)
(3)見過ごせない曲解
ところで、いったい、どこから、どのようにして、
佐倉さんのように、「神は存在しない」と言いきれば・・・などというご意見が出てきたのでしょうか。わたしは、いかなる時にも、いかなるところでも、「神は存在しない」などと「言い切った」覚えはまったくありません。そんな言葉は、わたしの思想や体験からは絶対に出てきません。わたしの耳には神の声も聞こえず、わたしの目には神の姿も見えず、わたしの心の中のできごとも曖昧で、そのため、「わたしは神を知らない、神を直接実感したことがない」、とは言えますが、それだけで、「神は存在しない」という結論が出てくるはずもないからです。わたしの知識も経験もきわめて限られたものです。わたしが否定しているのは、神の存在ではなく、本当はなにも知らない領域に関して、まるで知っているかのように確信する、「信仰」という人間の傲慢な態度であり、人間あるいは人間の作ったもの(教会組織や聖書)を神聖化し絶対化する人間の権力崇拝です。わたしが「神は存在しない」と「言い切った」、とか、「神が存在しない事を証明しょうとしている」というご意見は、わたしの立場に関する、見過ごすことのできない、ひどい曲解ですので、以上、わたしの立場を明らかにしておきます。神が存在しない事を証明しょうとしている・・・