佐倉哲エッセイ集

聖書とは

--- 「聖書」という言葉の指すもの ---

佐倉 哲


聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。



表1「聖書」という言葉の指すもの
ユダヤ教徒の聖書 カトリック教徒の聖書 プロテスタント教徒の聖書
旧約聖書 含まれる 含まれる 含まれる
間約聖書 含まれる
新約聖書 含まれる 含まれる




誰にとって?という大切な問い

「聖書」という言葉は、日本人にとって通常、旧約聖書と新約聖書の二部で構成されるキリスト教の聖典を指すものですが、そのうち、「旧約聖書」(とキリスト教徒が呼んでいる聖典)は、もともとユダヤ教の聖典であり、ユダヤ教徒にとっては、それだけが今も昔も彼等の「聖書」であり、「新約聖書」(とキリスト教徒が呼んでいるもの)はユダヤ教においては聖典として認めらていません。つまり、キリスト教徒の言う「聖書」とユダヤ教徒の言う「聖書」は、重なっているところもあるけれど、また重ならないところもあるわけです。

また、同じキリスト教徒でも、プロテスタント系の旧約聖書とカトリックなど非プロテスタント系の旧約聖書の間でも似たような相違があります。つまり、プロテスタント系の旧約聖書にはない幾つかの書が、カトリック系の旧約聖書には含まれているのです。例えば、トビト記ユディト記マカバイ記第一マカバイ記第二ソロモンの知恵の書シラ書バルク書などがそうです。すなわち、聖書という言葉の指すものは、「誰にとって」ということを明確にしなければ、決定できません。


間約聖書とは

ところで、これらのカトリック系の旧約聖書にだけ含まれている各書は総合して、「アポクリファ」とか、「第二旧約聖書」とか、「旧約続編」とか、その成立期間が旧約聖書と新約聖書の中間期であったことに由来する意味で「間約聖書」(インター・テスタメント)、とか呼ばれています。これらを聖書の一部と認めないプロテスタント系の教会は、正典に含まれないという意味で「旧約外典」と呼び、これらが聖書の一部でないことを明確にしていまが、それに対して、カトリック系では、ただ旧約聖書の一部分としてその中に含まれています。上記の表で、旧約聖書と間約聖書を別々にしましたが、それは比較を簡略化するための仮の区別にすぎません。(本論文では、宗派的偏見色のない「間約聖書」を使用します。)

『聖書の言葉』(新潮社)という本の冒頭で、著者である犬飼道子さんは、なんの躊躇も説明もなく聖書が「全七十二巻」であることに言及されていますが、これは著者がカトリック信者だからできることなのです。プロテスタント系の聖書は全部で六十六巻しかない(つまり、間約聖書が含まれていない)のですから、なにげない犬飼道子さんのこの言及は、プロテスタント系では「神の言葉でないものを神の言葉として信じるのか」という大問題となるのです。

上記の表を見ていただくとわかりますが、ユダヤ教の聖書の指すものは、プロテスタント系の旧約聖書とほぼ一致するのです。つまり間約聖書はユダヤ教の聖書にも含まれていないのです。

このようにしてみると、「聖書」という言葉の指すものは、誰にとって、という問いがあきらかにされなければ、決定できないことを意味しています。「聖書」という言葉の指すものは一つにはっきり限定されているという主張は、ある特定の宗派に所属する立場からの主観的な意見であり、客観的にみれば、時代とそれを信じる人によって「聖書」という言葉の指すものは異なっています。


初期のプロテスタントの聖書

しかし、おおまかに言えば、上記の表のようになるのであって、実際はもっと複雑です。特に、初期のプロテスタントの聖書には、現在のプロテスタント教徒が聖書と認めていない間約聖書が含まれていたという事実は特筆にあたいするものです。宗教改革の火付け役となったウイクリフやマルティン・ルターの翻訳聖書にも、コバーデイルの翻訳聖書にも、トーマス・マシューの翻訳聖書にも、『グレート聖書』にも、また英訳聖書のなかで最も有名な『キング・ジェームス版聖書』にも、カトリックと同じように、すべて始めのうちは間約聖書が含まれていたのです。


間約聖書の外典化

しかし、いったい何故、後代のプロテスタント教徒は、1500年というながい間、キリスト教聖書の一部であった間約聖書を正典から取り除いたのでしょうか。それは二つの歴史的事件を契機としています。一つは、マルティン・ルターの聖書翻訳の仕事であり、もう一つは清教徒の宗教運動です。ルターはそれまで使われていたラテン語訳聖書から離れて、始めて、聖書がもともと書かれていたヘブル語(旧約聖書)とギリシャ語(新約聖書)の写本からドイツ語訳をおこなったのですが、その結果、驚くべきことが発見されたのです。つまり、いままでヨーロッパで使ってきたラテン語聖書の旧約聖書にはヘブル語聖書にない部分が含まれていることにルターは気がついたのです。そこで、彼はこれらの部分を一まとめにして、旧約聖書のすぐ後に置いたのです。このルターの編集方法はすぐに他の多くのの聖書翻訳者たちに用いられるようになり、後代のプロテスタント信者が間約聖書を外典化する下地が作られたのです。

間約聖書の外典化に決定的役目を果たしたのは、清教徒と呼ばれるプロテスタントの一派です。彼等は、間約聖書の幾つかの内容を嫌い、それを聖書から外すことに努力したのです。この外典化を正当化したのは、もともと旧約聖書はヘブル語で書かれていたこと、そのヘブル語聖書にはない間約聖書がラテン語訳にだけにあること、そこから、間約聖書は後から付け加えられた偽の聖典に違いない、という考え方が出たことである思われます。いずれにしても、清教徒の聖書観の影響力は、アメリカ合衆国が世界大国になるにつれて、世界的になり、アメリカ系キリスト教派の宣教師によって世界的に広められたのです。今日でも、間約聖書の存在に対してまったく無知であるキリスト信者や、また知っていてもそれに対して反感を表わすキリスト信者が、アメリカ系キリスト教派に多いのは、実はそういう歴史的背景があるからです。それは清教徒の残した歴史的遺産なのです。


初期のクリスチャンの聖書

それにしても、もしルターが間約各書の位置を変えず、旧約聖書のなかに分散させたままであったら、おそらく清教徒たちもそれをまとめて外典化することなど考えもしなかったであろう、と思われますが、実は、現代の聖書学者には常識となっている、間約聖書に関するある事実が、当時の清教徒たちには知られていなかったこともまた、彼等が間約聖書を外典化することを容易にさせたのです。

それは何かというと、初期のキリスト教徒たち、特に新約聖書を書いた人たちが使用していた聖書(つまり旧約聖書)には、間約聖書が含まれていたという事実です。このことは、新約聖書が旧約聖書を引用するとき、『セプトア・ギンタ』(七十人訳聖書)と呼ばれるギリシャ語訳聖書を引用していることから、明らかなのです。新約聖書の著者たちが使用していた『セプトア・ギンタ』には、間約聖書が含まれていたのです。西暦紀元前後の地中海付近全域ではギリシャ語が共通語であり、キリスト教が生まれたユダヤ地方でもヘブル語ではなくギリシャ語を使用していたヤダヤ人が沢山いたので、ユダヤ人の聖書もギリシャ語訳されていたのです。しかも、キリスト教はヘブル語文化圏ではほとんど影響力を持つことができず、特に異邦人(非ユダヤ人)のギリシャ語文化圏に広く伝わっていったのです。新約聖書の著者たちが『セプトア・ギンタ』を彼等の「聖書」として使用し、新約聖書の各書がギリシャ語で書かれたのはそういう時代的背景があるからです。新約聖書27巻は清教徒を含めて全てのプロテスタント教徒が正典として崇めているのですが、その新約聖書の著者たち自身が使用していた聖書には、実は間約聖書が含まれていたのです。この歴史的事実は近代の初めには知られていなかったので、清教徒たちが間約聖書を外典化することを容易にさせたのです。こうして、清教徒を始めとする近代クリスチャンによる間約聖書の外典化は、彼等が正典として崇める新約聖書の著者たち自身の使用していた聖書には含まれていた聖書の一部を正典ではないとして否定するという奇妙な事態を生み出すことになったのです。カトリック教会の聖書に間約聖書が含まれているのは、カトリック教会の成立がプロテスタントよりもはるかに古く、初期のクリスチャンたちの古い伝統をそのまま受け継いできたという理由によるのです。


なぜヘブライ語の聖書には間約聖書がないのか

すでに指摘したように、それまでヨーロッパで使用されていたラテン語訳聖書によらず、ヘブライ語から直接ドイツ語訳を行なったルターが、間約聖書各書を他の旧約聖書各書と別のグループにしたのは、旧約聖書が本来書かれていたヘブライ語版(つまりユダヤ人が使用していた聖書)に間約聖書に相当する部分がなかったからです。

実は、この事実に気付いていたのはルターが最初ではありません。ダマスカス法皇の指示のもとで、西暦5世紀の始め旧約聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、初期のキリスト教徒たちが使用していたギリシャ語訳旧約聖書(セプトアギンタ)には、ヘブル語聖書には存在しない部分が含まれていることに気付き、それらを称して「アポクリファ」(隠された、という意味)と呼びました。この事実を明確にするために彼はそのことを訳本のまえがきに記しています。しかし、ルターと違って、ヒエロニムスはそれらを旧約聖書から取り外すことはしませんでした。ヒエロニムスのラテン語訳聖書(The Vulgate)はそれ以後、西欧歴史のなかで聖書のスタンダードとなります。

20世紀最大の考古学的発見の一つである「死海文書」の発見は、キリスト教の始まりと同時代のあるユダヤ教の宗派(当時の歴史家ヨセフスが「エッセネ派」と呼んでいる宗派ではないかと想定されているが、地名に因んで「クムラン教団」とも呼ばれている)の宗教文書を明らかにした。この教団が歴史から消滅してゆくのは西暦70年のローマ帝国のユダヤ攻撃によるのですが、彼らが洞窟のなかに隠していた宗教文書のなかには間約聖書文献が他の聖書文献と共に多量に含まれていたのです。つまり、西暦一世紀中頃のヤダヤ人の間では、広く、間約聖書が他の聖典から区別されることなく神の言葉として読まれ学ばれていたのです。

このことは、クムラン教団が活動し、またキリスト教が成立していった西暦一世紀の中頃には、ユダヤ教の聖典は閉じられたシステム(つまり、どこからどこまでが正典であるということが厳格に決定しているシステム)ではなかったことを意味しています。ところが、西暦5世紀の始め、ヒエロニムスがヘブル語からのラテン語訳をおこなった時代には、ユダヤ教の聖典は間約聖書を含まない閉じられたシステムだったのです。つまり、その間にユダヤ教の聖典が閉じられたことになります。だれかが、ここからここまでが正典である、というようなことを決定したのです。それをなしたのが、西暦90年に行われたラビ(ユダヤ教の教師)たちのヤブナ会議である、というのが現代聖書学者の間でもっとも有力な仮説です。

キリスト教の新約聖書は西暦53年頃から西暦100年頃までに書かれましたが、その著者たちが使用していたギリシャ語訳旧約聖書に間約聖書が含まれていることを彼らはまったく問題にせず、またそれらの書に言及していますが、このことにはなんの不思議もないことがわかります。ユダヤ教の聖典が閉じられたのは大方の新約聖書が成立した後だったからです。だから、新約聖書の「ユダの手紙」の著者が、「アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。『見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちの不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。』」(14-15節)と書いたとき、彼の引用する「エノク書」(第一章九節)が、まさか、後にユダヤ教指導者たちによって「偽典」として、聖典から取り除かれるとは、思ってもいなかったのです。


間約聖書の復活

宗教改革から350年を経た現在、間約聖書は再び現代の翻訳聖書のなかに復活し始めています。とくに宗派的教義にこだわらず、学術的に高度な翻訳をめざす聖書は間約聖書を備えています。オックスフォード大学出版の聖書、ケンブリッジ大学出版の聖書、シカゴ大学出版の聖書、また日本聖書協会出版の『共同訳版聖書』などがその例です。


新約外典

以上は、特に旧約外典あるいは間約聖書と呼ばれる各書を中心にした旧約聖書の正典に関する議論ですが、新約聖書の正典が何を含むかについてもイエスの死後300年以上も決定してはいなかったのです。その間には、現代の新約聖書正典に含まれていないものが正典として認められていたり、現代の新約聖書正典に含まれているものが偽物としてはずされたりしていて、バラバラな状態でした。現代の新約聖書正典に含まれていないけれど、それが聖書の一部として認められていた時代があった書物を新約外典と呼びます。

例えば、西暦185年ごろのリヨンのイレナエウスの記録によると、その新約正典のなかには、現代の正典には含まれている、「フィレモンの手紙」、「ヨハネの第三の手紙」、「ユダの手紙」、「ヤコブの手紙」、「ヘブル人への手紙」、などが含まれていません。そのかわり、現代の正典には含まれていない「ヘルマスの牧者」が正典に含まれています。

ほぼ同時代のカルタゴのテルトリアヌスに記録によれば、「ヨハネの第二の手紙」と「ヨハネの第三の手紙」、「ヤコブの手紙」、「ヘブル人への手紙」、「ペテロの第二の手紙」は正典に含まれていません。「ヘルマスの牧者」も含まれていますが、晩年彼はこれを正典からはずしています。

やはりほぼ同時代の資料と考えられているムラトリア断片には、「ヤコブの手紙」、「ヘブル人への手紙」は正典に含まれていません。そして現代正典に含まれていない「ペテロの黙示禄」が正典として含まれています。

190年頃のアレキサンドリアのクレメントの記録によれば、現代正典に含まれていない多くの書物が正典として認められています。「ヘルマスの牧者」、「ペテロの黙示禄」、「クレメントのコリント人への手紙」、「バルナバスの手紙」、「ペテロの説教」、「使徒たちの教え」、などがそうです。

250年頃のアレキサンドリアのオリゲネスの記録によれば、やはり現代正典に含まれていない「ヘルマスの牧者」と「バルナバスの手紙」が正典として認められています。

300年頃のクレアモント写本の記録によれば、現代正典に含まれていない「ヘルマスの牧者」、「バルナバスの手紙」、「パウロの活動」、そして「ペテロの黙示禄」が正典として認められています。

以上のように、場所と時代によって、何が新約聖書の正典に含まれるかという問に対する答えは異なるのです。現代の正典範囲に固まるのは、397年のカルタゴでの宗教会議を待たねばなりませんでした。しかも、それは西側の教会(つまりローマ・カトリック教会)内でのことであり、東方正教会では、例えば、「ヨハネの黙示禄」を正典として認めるかどうかという議論は10世紀ごろまで続いています。


結論

このように、聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものなのです。すなわち、聖書は「神の言葉」として多くの人にあがめられてきましたが、少なくとも、何がその聖書に含まれ、何が含まれないか、という決定に関しては、実に、きわめて主観的で人間的なものだったのです。