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言の葉

(53)

「生きるのが下手だと思っている人とは・・・」


生きるのが下手だと思っている人は、本当に、「私利・私欲・私心に走ることが少なく」、したがって「神さまや、仏さまに近い」のだろうか? 今回紹介するのは、人間のセルフ・イメージには主観と客観が逆比例する法則があると主張する岸田秀の「生きるのが下手だと思っている人」に関する洞察です。


何ヶ月前か、『生きるのが下手な人へ』という本が出て、ほぼ20万部とか30万部とか売れたということを聞き及び、その人たちはわざわざ自分の金を払ったのだろうから、まさか全員がふざけて、からかうつもりでその本を買ったとは思えないので、世の中には、本気で自分のことを生きるのが下手だと思っている人が大勢いるらしいということを知り、・・・わかりきったことを言っていると思われるかもしれないが、あえてこの文を書くことにした。

人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だというセルフ・イメージをもっている。自分は生きるのが下手だというのも、このようなセルフ・イメージの一例である。ところで・・・このセルフ・イメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人々に対する当人の期待ないし要求の反映なのである。いいかえれば、当人のセルフ・イメージから判明するのは、彼がどんな人間かということではなく、彼が他の人々にどんなことを期待ないし要求しているかということであり、セルフ・イメージは、その期待ないし要求を正当化する根拠として必要不可欠なものである。

前記の『生きるのが下手な人へ』という本によると、生きるのが下手な人とは、「どうしても他人と調子を合わせてゆけぬ人」「うまく立ち回れずいつも恥をさらしてしまう人」「働いても働いても金の貯まらぬ人」「一生けんめいやるわりには人によく思われぬ人」「人に頼むことが苦手でいつも自分でやってしまい、くたびれ果てる人」「おべんちゃらの言えぬ人」「騙されても騙されても人を騙す側に回れぬ人」「してやられてばかりいてもその相手を悪く思えぬ人」「どうやらいつも抜けている人」等々、このせち辛い人生では、まず落第生、劣等生、無能者、不器用、と片づけられてしまいそうな人のことである(3〜4ページ)と定義されている。また他の個所では、「ずばり言わせてもらえるなら、生きるのが下手な人間ほど、神さまや、仏さまに近いとわたしは思う。・・・(中略)・・・生きることがなんと下手だなあ、と思っている人よ、あなたはなんといっても、生きることのうまい連中に比べると、私利・私欲・私心に走ることが少ないはずである。これが多かったら、下手であるはずがないのだ」(162ページ)と、生きるのが下手な人がえらくもちあげられている。

この本では、自分は生きるのが下手だと思っている者をそのまま、実際に生きるのが下手な者と決めてかかっているが、両者はまったく別の人間である。この本の著者の表現を借りて、「ずばり言わせてもらえるなら」、生きるのが下手な者は欲のない者であるが、自分は生きるのが下手だと思っている者とは、欲の深い者である。「私利・私欲・私心に走るということ」の多い人間である。

まず彼がどうして、自分は生きるのが下手だと判断するに至ったかを問わねばならない。そういう判断は、「他人と調子を合わせて」、「人に上手にものを頼み」、「おべんちゃらを言い」、「人を騙す側に回り」、「うまく立ち回って」いればもっとうまい汁を吸うことができたはずなのに、自分はそういうことができないので、いつも損ばかりしているということが暗黙の前提となっている。言うまでもなく、個人が、自分はあることができないということに気づくのは、そのことをやりたい欲望があるからに他ならない。その欲望がないなら、そもそも自分にはそれができないという視野が入ってこない。

したがって、自分は人一倍生きるのが下手だと思っている者とは、うまく立ち回ってうまい汁を吸いたい欲望が人一倍強い者である。そういう欲望が強いため、彼は、うまく立ち回って吸いそこねたうまい汁のことが気にかかり、何とか自分の気持ちを鎮まるような説明を考え出さざるを得ない。『生きるのが下手な人へ』という本は、その種の人のそういう自慰的傾向に実にうまく媚びており、著者によれば、著者自身は「生きるのが下手な人の最たる者」だそうであるが、本当に生きるのが下手な人がこのような本を書くはずはなく、まさにこの著者こそは、自分は生きるのが下手だと思っている人の典型である。

・・・われわれは任意にどのようなセルフ・イメージでも持つことができる。したがって、われわれの持っているセルフ・イメージは、われわれの実態の反映ではなく、われわれ自身にとってもっとも好都合なセルフ・イメージである。さきにわたしが、セルフ・イメージは他の人々に対する当人の期待ないし要求の反映であり、それを正当化する根拠として必要不可欠なものであると言ったのは、この意味においてである。



--- 岸田秀『ものぐさ精神分析』「セルフ・イメージの構造」より---