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言の葉

(39)


 好色は人情にふかく根ざしたもので・・・好色のこころが人間にあってもなんの不思議もない。しかし、それは夫婦のあいだに限られることで、夫婦がむつまじく愛を交わし、深くちぎりを結ぶのは当然だが、両親の許さない娘に思いをよせ、それに誘惑の手をのばしたり、他人の妻女とひそかに情を通じたりするのは、もはやたんなる好色ではなく、淫乱のきわみである。わが国ではむかしそういうことがよくあったらしく、『伊勢物語』『源氏物語』などは、みなそういうたぐいのはなしである。ところが歌の世界では、それを非難するどころか、格別すぐれたものとして、かえって尊重するのはどういうわけなのか。

 その質問に対するこたえは、けっきょく、まえに僧侶についていったこととおなじである。たしかに、道ならぬ恋は人間のすることではなく、もっともいましむべきことである。そこで、聖人の残した経典にも、人倫の道について、くわしい説明があり、なにが不義であり、なにが不義でないかについては、どんなおろかなひとでも、よくしっていることである。それは世間一般のことに通用するおしえであり、いましめである。

しかし、そのおしえやいましめも、歌の道とは関係がない。人間相互のあいだでしてよいこと、してならないことについては、だいたいだれもがよく心得ていることである。とくに他人の妻女と情を通じるなどということは、こどもでもわるいこととしっている。だが、こころではあくまでしてはならないことだと思いながら、それをおさえることができないほどのつよい情熱にうごかされるのが好色の道であり、そこでいけないことだとはしりながら、道ならぬ恋にのめりこむようなこともおこるのである。自分を抑え、身を慎むことができるか、それができず、情熱の奔流に身をゆだねるか、のちがいである。

もちろん、前者がよいにきまっている。しかし、自分をおさえようとしておさえきれず、それがことばやそぶりにあらわれ、さらには道ならぬ恋の淵までつきすすんでしまうのも、いっそうふかく、かなしき人情の機微をうつしている。そういうさいに、こころがふかくこもった歌がうまれるゆえんである。また、『狭衣物語』の主人公、狭衣大将と源氏の宮の恋が哀切をきわめるのも、そのためである。

そこで、歌を見るときにも、『伊勢物語』や『源氏物語』を読むさいにしても、みな人情の自然をつたえようとしていることをよく念頭におき、そのうえで歌を味わい、物語を鑑賞すべきである。

人間だれもが聖人ではないのだから、わるいこともするだろうし、それをこころに思うこともあるだろう。よいことばかりを考え、おこなうのが人間ではない。歌はそういう人間のこころに由来するのだから、そのなかに道ならぬ恋をよんだ歌がまじるのも、当然である。

ともかく、こころをふかくとらえる対象をよんだものの中に、むかしからすぐれた歌が多い。古来の名歌を見る場合も、よくその点に注意すべきである。

他人の妻女に思いをよせてはいけないことをよく知っていても、聖人でもなく、賢者でもない凡夫の身に、どうしてそれをおさえきれることができるだろうか。だいたい、自分で自分のこころを思いどおりにできないのが、人間の常である。人間が自分に克つことができたためしは、むかしからあまり多くはない。じぶんをおさえきるか、おさえきらないかの分別は、まったく、それぞれのひとのこころの問題である。だが、歌はそういう議論とはいっさい関係がなく、歌の問題は、ただすぐれた歌を鑑賞することだけである。

--- 本居宣長『排廬小船(あしわけおぶね)』荻原延寿訳 ---