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言の葉

(36)


何度読み返しても何を言っているのか、何を言いたいのかわからない本がある。フランスの思想書にはそのたぐいの本がとくに多い。その理由はいろいろ考えられる。ひとつは、もともと著者自身が言いたいことを持っていない本である。あるいは、言いたいことはほんの少ししかないのに、それを言ってしまえば簡単に終わってしまうのであれこれ無意味な枝葉末節を付け加えて飾りたてている本である。これは著者が自身に言いたいことがないのだから、あるいは無意味な飾りたてをしているだけなのだから、いくら読んでもわからないのが当然である。価値ある新しい思想などというものはそうめったに出てくるものではないのに、これほど夥しい数の新刊思想書があるということは、その大部分が内容のない本であることを示している。そのような内容のない本がなぜ出版されるのかと言うと、無内容の本の著者の側にも出版社の側にもいろいろな事情があるのである。

次に考えられるのは、読者の知的能力では理解が及び得ないほどの高度な内容を説いている本である。知的能力等というものはそう簡単に引き上げられるものではないので、この場合も、いくら読んでもさっぱりわからないかもしれない。しかし著者にはとにかく言いたいことがあって、それを必死に言おうとしているわけだから、何度も読み返しているうちにだんだんといくらかわかってくるということもある。問題なのは、さきの場合とこの場合とをどう区別するのかということである。さきの場合は、繰り返し読んで何とかわかろうとする努力はいっさいムダにおわる。後の場合はムダにならない可能性、それどころか非常に価値ある新しい見識を得る可能性もないではない。しかし、はじめの段階では、どちらもわからないという点では同じだから、とにかくがんばって読んでみて、さきの場合なら、詐欺にひっかかったとでも考えてあきらめるしかないであろう。ただ、あとの場合よりさきの場合の方がはるかに多いのは残念なことである。

さらに著者自身に言いたいことがあって、それを自分では育んでいるのだが、怠慢のせいか、傲慢のせいか、気取りのためか、それを読者にわからせようとする努力をあまり払っていない本がある。たとえば、やたらと新語を鋳造し、その新語の意味を説明していない。あるいは、一般に使われている言葉でも、それに特殊な意味を込めて用い、その特殊な意味を説明していない。読者はそれらの言葉が使われているあれこれのコンテクストから、その意味を読み取らなければならない…。あるいはまた、他愛のない根拠にもとづいて達した結論が、その根拠を説明せずに述べられている。神のお告げのようなインスピレーションのようなものが働いて、一挙にその結論に達したかのような印象を与える。この種の本は、読者が多大の努力を払って著者の言いたいことを掴み、その内容を理解してみると、別にたいした内容ではないことが多い。著者に親切気があって読者にわからせようとする努力を払っていてくれたら、読者がそれほど苦労せずに理解できたはずのないようである…。

この種の難解な本を書く著者の人となりは容易に推定できる。要するに、ナルチシストであり、かつ自分がナルチシストであることに無自覚な人なのである。(無自覚でなければ、そのようなはずかしいことをとてもできるものではない)。たとえば、J・ラカンはこの種の著者の典型であるが(ラカンの文章の難解さとフロイドの文章の平易さをくらべてみよ)、彼はその文章の難解さを指摘されて、「誰とでもテニスをやりたいわけではない」と答えたそうである。……要するに、自分の思想を理解するために多大の努力を払っている読者たち、あるいは自分の言説をめぐってそれはどういう意味なのかとあれこれ議論をしている読者たちの姿をみて、ナルチシズムを満足させ、ほくそ笑んでいるのである。しかし、魅力の程度が同じであれば、簡単に口説き落とせる女よりも、なかなか口説き落とせない女を有り難がる男がいるように、同じ内容の本であれば、やさしくわかりやすく書く著者よりも、わざわざ難解な書き方をする著者を有り難がる読者もいるのだから、世の中はうまくできている。

--- 岸田秀『ふき寄せ雑文集』「思想書のむずかしさ」 ---