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言の葉

(28)


わが国の国史を学ぶ場合も、このことに似たところがある。『旧事本紀』とか『古事記』とか『日本書紀』などの書物は、みな朝廷の勅旨によって、わが国の上古・神代から始まって歴代君主の事業を記載されたものである。しかしそこに記述されている内容には、それぞれ異同があることは、孔子の『春秋』の書を伝えた諸説に異同があるのと同様であろう。だから、もっぱら『日本書紀』の説だけによって、『旧事本紀』や『古事記』をかえりみないのはよくないことである。ただ、どの書物に出ているものでも、その事実において間違いがなく、理義においてもすぐれていると思われる説に従うのを稽古の学というのである……。

およそこの書物 [『古史通』] は、もっぱら『旧事本紀』『古事記』『日本書紀』をもってよりどころにしている。しかしながら、あるいは道徳の教えにおいて、あるいは事実において、理義によって断定しなければならないさいには、その説を注の下に書きそえている。これらはまったく僭越なことであるが、あえてその罪を避けるわけにはゆかないと考えたからである。

--- 新井白石『古史通』(桑原武夫訳) ---