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言の葉

(26)


ある苦痛な経験の抑圧と正当化、人格における盲点の発生、類似の経験の強迫的反復という機制は [集団心理においても] 個人の神経症の場合とまったく同じである。たとえば、ここにある女性がいる。彼女は、残忍で薄情で、彼女を搾取することしかしないひどい男にひっかかり、さんざん利用されたあげく捨てられる。ところが、あんな目に会わされたのだからいいかげんに懲りただろうと思っていると、彼女はまた同じ様なひどい男にひっかかり、また同じ様な経過を辿って捨てられる。彼女は男運が悪いのではない。これは一般に性格神経症と呼ばれている反復強迫の症状である。彼女の幼児期を調べてみると、父親がひどい男で彼女を残忍にこき使いながら育てたことがわかった。父親に虐待されるというのは、彼女にとってきわめて苦痛な経験であった。そこで彼女はその経験を抑圧し、正当化した。つまり、父の虐待は実は虐待ではなく、愛情の表現であり、わたしは父親に愛されているのだと無理に思い込んだ。そう思い込むことによって彼女は、その不幸な幼児期、少女期をかろうじて耐えてきたのであった。この正当化によって、彼女の人格(対人知覚の構造といってもよいが)に盲点が生じた。第三者の眼には明らかな男の残酷さが、彼女の眼には愛情と映るのである。しかし、それは正当化による自己欺瞞であるから、それが愛情であるということに、彼女は心の底から自信はもてない。自信を持てないがゆえに、それが愛情であることを確証しなければならない。だから彼女は残酷な男に出会うと、彼の愛を確認したいという無意識な強迫的欲望にかり立てられ、無抵抗に引き寄せられるのである。彼の愛情を確認することは、自分が父親に愛されていたということを確認することであった。彼女は何度裏切られても、少なくとも一人の男において、一見残酷さと見えるその態度が実は残酷さではなく愛情であるという証拠を得たいのであった。

しかし、残酷さはあくまで残酷さなのである。このことを認め、残酷な男に繰り返しひっかかるその反復強迫を止めるようになるためには、彼女は、父親に愛されていなかったという、彼女にとっては認めがたい苦痛な事実を認めなければならない。それを認めることは、彼女の存在の基盤が崩れることであり、彼女の世界がひっくり返ることである。

同じように、アメリカが他民族の大量虐殺というその痼疾的反復強迫をやめるようになるためには、原住民の大量虐殺の経験を正当化するのを止めなければならない。これは大変なことである。それは、欺瞞と暴力で奪った土地を原住民に返すことを意味し、さらに、自由、平等、民主のその共同幻想が偽りに過ぎなかったと認めることを意味する。これはアメリカ国家の基盤を崩すことである。しかし、この正当化をやめない限り、今後もアメリカは、チャンスと口実さえあれば、どこかの民族を大量虐殺するであろう。



--- 岸田秀『ものぐさ精神分析』 ---