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言の葉

(22)


あるとき、あまりに正直に、自分の犯した過去の卑怯な行為を私に語った友がいた。最初私は彼を非常に正直な人だと思い、感嘆した。しかし時間がたつにつれ、はたして彼が本当に正直だからあんなことを喋ったのだろうかと考えだすと、疑いは深まり、わからなくなってしまったのである。正直者のずるさということもあるからである。

一般に、道徳的告白は、他人に知らせたくない秘事を公開するのであるから、真実の表現に違いないとみなされがちである。けれでも告白者がある部分の真実を告白することで、代わりに、別の部分の真実を見まいとして、告白の動機そのものに覆いを掛けてしまうばあいも決して少なくない。

たとえば戦争責任に関する戦後流行した道徳的告白を思い出してもらいたい。 多くの知識人は、軍部の強権に生死を賭して抵抗しなかったことを懺悔するのが常だった。しかし、その後で必ず、自分は抵抗できなかったが、戦争が間違いであることは知っていた、と付け加えるのを忘れなかった。私は今当時の空気をありありと思い出すが、そういう論調がいかに多かったことだろう。彼は道徳的罪を告白することで、代わりに、未来を見抜いていたという知識人としての知性の虚栄心を守ろうとしている。社会責任における卑劣を告白することで、自己防衛という自分の内心の卑劣には気がつかないでやりすごす。

これと同様に、友人が真実を告白し、自分は卑怯であったとか、罪を犯したとか語る言葉の背後にひそむ彼自身のもう一つの心の闇に、私たちはじっと目を凝らす必要があるだろう。たいがいの場合、告白した人間をやがて私たちがうとましく思うようになるのは、彼の過去の罪を責め始めたからではなく、告白によって罪を軽くしようとしている彼のもう一つの動機に、私たちがなにか釈然としない、胡散臭い性格をかぎ当てているからであろう。

--- 西尾幹二、『ニーチェとの対話』 ---