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言の葉

(3)


人生の問題の大部分は職業の問題である、というのは、一つの厳粛な事実であると思う。職業は、社会における人間の役割のことである。職業を通して、人間は、社会との間に或る積極的な関係を持つことが出来る。この関係を持つことによって、あるいは、持とうと決意することによって、人生の意味が決定される。おそらく、読者は不愉快に感じるであろうが、人間の意味は、人間の内部に存在するものではない。二メートルに足りない身長を持ち、一世紀に満たぬ寿命しか与えられていない人間、食物や飲料を絶えず摂取せねば、また、見苦しい大小便を絶えず排泄せねば生きていられぬ人間、そんな人間を逆さに振るったところで、尊い意味が転がり出てくるものではない。人間の内部に意味があると思うのは、近代思想の生んだ錯覚である。人間を自然や社会から切り離して、独立の高貴な存在に祭り上げた時、錯覚は快かったであろう。しかし、この独立の高貴な存在の中に意味を探して見いだされない時、錯覚は苦いものに変わる。人間の意味は、いつでも人間の外部にある。人間の意味は、社会の中にある。それが言い過ぎであるなら、人間の意味は社会との関係の中にあると言い直してもよい。個性も大切であろう。独創性も大切であろう。けれども、それは個性や独創性が社会の中で或る優れた働きを営み、或客観的な成果を生んだ場合のことで、人間の内部に眠っている個性や独創性というのは、吹けば飛ぶようなものである。人間と社会とを繋ぐ職業の問題を真剣に考えないで、人間や人生の意味を考えるのは、人生論業者の餌になるばかりである。

清水幾太郎、『本はどう読むか』