佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


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鈴木登さんより

97年11月10日

日本の国際援助(一)」について感想を書きます。

率直に言います。「無償援助」の具体例もなく、日常生活から類推した思弁的な議論だと感じました。また、佐倉さんの記事の読み方に疑問を感じました。

「日本の援助は結局は日本自身が儲かるようなシステムになっているのではないかという西欧の対日批判」という表現がありますが、「日経」が言っているのは「援助でもけるのは日本企業」との印象が「内外に」強いということです。「西欧」の対日批判とは言っていません。「日本企業が儲かる」のであって「日本自信が儲かる」とは言っていません。「援助」自体には本来「日本自信が儲かる」仕組みはないのです。

私は、かつて国際協力に関心を持ち(かなり批判的にですが)、約2年を、かの「青年海外協力隊」のメンバーとして、ある国ですごしました。その後、ある事業団で予算管理の手伝いを約10カ月ほどしたという経験があります。非常に限られた範囲の経験ですので、国際協力事業をよく理解していると言うつもりはありませんが、佐倉さんのHPの発言はちょっと違うんじゃないかと思います。

(1)「無償援助」とは何?

まず「無償援助」とは何のことを言っておられるのでしょうか?「日経」は「円借款」について最初に述べています。しかし、「円借款」は「無償援助」ではありません。また「日経」は「無償援助」について書いているのではありません。「日経」は記事中にある「政府開発援助」全般について書いているのです。

ここで「政府開発援助」とは何か整理いたします。少なくとも、私が任地にいた頃は次のような仕組みになっていました。

「政府開発援助」とは、
 (A)2国間 (A-1)贈与
          (A-1.1)無償資金供与(1976年までは戦時賠償を含む)
         医療、保険、教育などの一般無償援助、水産関係、
         文化関係、災害関係、食糧関係など          
          (A-1.2)技術協力
        (A-2)直接借款
 (B)国際機関に対する拠出金など
 を言います。
(A),(B)などは私が区分を分かりやすくするために付けたものです。

「無償援助」と言っているのは、「贈与」のことになると思います。現場では、「贈与」が善だとは言っていません。しかし借款は返済の負担が問題となっていましたので「贈与」を増加させることが「質的向上」だとは言われていました。

(2)「報酬を期待する」援助とは何?

「日本型の相互援助は相手方から報酬を期待するので、助けられ側の者の心を傷つけずに済みます。」と佐倉さんは言っていますが、「相手方から報酬を期待する」援助は上記のように日本にも存在しません。「相手方から報酬を期待する」ことがあるとすれば、相手国との政治や外交的の 取引 には使われていると思います。これをしているのは日本だけではないと思います。

(3)「無償援助」は「主従関係を作り上げる」?

これは事実ではありません。

「助けてあげたら感謝される」などと思って実行したら傷付くのは、たいていそう考えているほうです。普通、相手国にひけめはないのが現実です。いろいろな理由が考えられますが、政策上ギブ.アンド.テークになっている場合もあるでしょう。援助を取り付けてくるのがリーダーの手腕とされているとしか思えない社会もあります。

援助を受けた側に利権が生じますので部外者が口を出すと内戦に手を貸したような状態になる場合もあります。いったん手渡したら、おしきせがましい発言やささいな口出しでも「内政干渉」として激しい反発に合う可能性があります。国により差はあるとのことですが、私の任地では徹底していました。

ただし、本当に「日本の援助に感謝しています。」と言われることもあるのです。いろいろな理由で困窮している国や人々が、自立できるまで何とかしてほしいと願っていることがあるのも忘れないでください。

(4)援助をだれが批判しているのか

「西欧」が批判しているのでしょうか?確かに軍事政権の援助などについては批判されているかもしれません。しかし「日経」は「日本は企業がもうかる援助をしている」という批判を「欧米がしている」とは言っていません。

そういう批判は援助を受けている国の人と日本人から起こっているのが実態です。

援助は相手国の要請があって初めてできることです。本当に援助が必要な場合や、政策上の必要から、政治家の「おみやげ」とおぼしき場合、コンサルタント会社が見つけてくる場合などいろいろな経緯で要請さます。(実はこの段階が一番問題なのです。)

よほどの行き違いが無い限り「あなたの援助で傷ついた」などと要請した側から言われることはありません。心中に思ってもいないでしょう。むしろ「援助」は担当者の業績として評価されるでしょう。要請した当事者は喜ぶのが普通です。

では、誰が批判するのでしょうか?それは、第三者として援助を見ることのできる人と、実際に環境汚染などで被害を被る人たちです。

私はN社のパソコンの機材が贈与されたことについて、ある現地の人からこう言われました。「よい考えだ。学生がN社のパソコンで操作を覚えれば、卒業してからも使い慣れたN社製を買うからね。」これは見当違いでした。N社は、当時家電扱いだったパソコンのメンテナンスに負担を感じ消極的だったのです。しかし、特定の企業の便宜を計っているのではと思わせる状況はありました。援助と言っても私が配属された施設は日本の業者が施工し、機材はほとんど日本製で、「おいおい」という印象です。更にアメリカ製DOSのメッセージがすべてカタカナになっているシステム付きのパソコンが予想どおり送られて来たのです。公用語が英語の現地スタッフも日本人も「真剣に考えてんのかよ」と言いたくなります。(スタッフはカタカナ部分を英語にしてシステムディスクにパッチするという恐ろしい対策をしました。)

確かに機材や建物の材料は贈与したことになりますが、何億円のプロジェクトと言っても日本の企業に多額の資金が還流されているのでは批判がでるのは当然です。しかし決して日本という国自体は援助そのものでは儲かってはいないのです。

(5)援助は高度な政治判断

ペルーの人質事件で有名になったあの人。タバコをふかして記者会見したちょっと横柄な感じ。私が協力隊の訓練中に講義を受けたあの人に間違いありません。「援助は外交政策の中で決定されている。君たちはその歯車だから、自分で何かしようなどと思うんじゃない。」という意味のことを堂々と言ってゆきました。今でもしゃくですが、まあその通りだったのです。

「援助は高度な政治判断」と私が言うのは、「援助」は「援助」という枠だけで決められているのではなく、国の政策、外交そして利権など「援助」の枠外で多くが決められているということです。特に「援助」の名のもとに利権がからむと「醜い」という印象を関係者に与えるのです。

少なくとも「無償援助」が善か悪かという問題ではありません。政治・外交に活用するという点では「有償」でも「無償」でも同じことなのです。

「無償援助というのはキリスト教的人生観が要請するものなのです。」というのは思弁だけで原体験を元にあまりにもプロトタイプに当てはめてはいませんか?

立川談志が単純明快に「無償援助」を切ってのけるのは「優れた「哲学者」」だからではなく、センセーショナルに表現するために事実を無視し単純化しているか、知らないからできるのです。

なお、「日経」の記事についてすべて賛成というわけではありませんが私には違和感がありません。「援助」のシステムを把握した上での記事だと感じます。

N.Suzuki 1997.11.10


作者より鈴木登さんへ

97年12月22日

(1)単に「日本企業」批判ではなく、「日本」批判

日経が指摘しているのは諸外国の日本批判です。単に日本企業批判ではありません。そのことは次のような表現から明らかです。

日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった…
「日本はケチ」との印象が広がっている…
日本の援助への「逆風」…
日本の姿勢を問う動きが出ている…


(2)欧米の日本援助批判

日経記事は

日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった
ことが、日本の援助の抱えている問題であると考えていますが、この日本型援助に対する批判は、たとえば米国のメディアで頻繁に見えるものです。

90年代の初めに鈴木さんはどこにおられたのか知りませんが、当時、日本の海外経済援助が米国の額に追いつき追い越したとき、ニューヨーク・タイムス紙や他の新聞や雑誌にあらわれる、この事に関する記者やコルムニストたちは、かならず、日本の援助には(欧米のそれと違って)ひもが付いていて、益が必ず日本に還元されるようになっているという皮肉っぽいコメントをつけ加えることを忘れませんでした。しばらく、日本からのニュースが良いことばかりなので、少しでも日本経済悪化のニュースが入れば「happy」だ、などと著名なコルムニストが新聞に書いているのを、わたしがあきれて読んでいた頃のことです。

日本経済が低迷状態の最近では、そのような記事は少なくなりましたが、それでも、たとえば、最近わたしが目にした捕鯨に関する国際問題に関する記事でも、日本の国際援助が国連における票稼ぎのためになっていることが書かれていました。

Japan now offers the world's largest bilateral aid program; its size and expected growth will lead actual and prospective recipients to be more sensitive to Japan's positions in international fora. This is not to suggest that Japan buys support explicitly -- one would need inside information to determine that -- but only that recipients may feel vulnerable to a cutoff of aid if Japan is displeased with the positions they take.
実際、日本の海外経済援助に関して書かれたアメリカ人の記事の中で、それが結局日本を益するためである事実や可能性を皮肉っぽくつけ加えない記事を、わたしは米国で読んだ覚えがありません。新聞や雑誌だけではありません。あるラジオのトーク・ショーのホスト(カーティス・スリワ)が「金をばらまくジャップ」というような表現を使ってショー仲間の笑いを誘っていたことも、この耳で実際聞きました。このホストはまさか日本人が彼のショーを聞いているとは思っても見なかったのでしょう。「ジャップ」という軽蔑用語は今でもアメリカ人のプライベートの会話では使われていますが、公の場で使われることはもうほとんどありません。日本が米国より沢山の経済援助をするという事実に関するアメリカ人の関心には異常なものがあるとわたしは感じています。

日経記者が言うように、

欧米諸国からは、環境問題や人権問題への取り組みの遅れを批判している国に経済援助している日本の姿勢を問う動きが出ている。
というのもまた本当です。この問題は、たとえば、中国との関係などにおいては、米国自体が分裂症をおこしていて、ここ数年間経済的利益が人権問題に優先しているのはよく知られている事実です。それでも、いつもこの問題が国会論議や新聞の論説コラムなどで浮上する度に、経済優先主義者が国内の人権主義者たちの反対を押さえるために常套手段として用いられる一つが、そうしなければ「金のためには人権問題など意にも止めない日本」に中国の巨大な市場が取られてしまう、というものです。

うんざりするほど、わたしはこのたぐいのアメリカ人の記事や意見を見ていますから、それを、そのまま日経の新聞記者が、「日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった」「欧米諸国から…日本の姿勢を問う動きが出ている」と、単に諸外国の批判を紹介しているだけで、この問題に関する日経自身あるいは記者自身の分析を提供していないところにわたしは疑問を感じたわけです。


(3)別の見方

わたしは、「日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった」という諸外国の意見をそのまま無批判に受け入れるような立場とは異なる見方ができるということを示したつもりなのです。つまり、日本や日本企業が益を得ているという批判が出てくるような援助は、実は、理想的な援助である、という意見です。

「無償援助・有償援助」の問題は、日本の政府開発援助のどの部門を指すのかというテクニカルな問題ではありません。援助の背後にある哲学のことです。たとえば、援助が、「わたしがあなたを助けるのはあなたのためです。」「あなたが幸せになることがわたしの幸せでもあるのです。」というような相手本意の動機でなされることを理想と考える援助のことを「無償援助」という言葉で表現したのです。「日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった」というような意見の背後には、そういう相手本意の援助が「正しい」援助であるという哲学が潜んでいるからです。

相手本意の援助という、誰も批判できないような、援助哲学をわたしがわざわざ疑問視する理由は「日本の国際援助(二)」にもう少し詳しく述べています。相手に「日本の援助に感謝しています」といわれて、単純に本当によかったなあ、と安心するには複雑すぎる問題が横たわっています。したがって、わたしは、相手本意の動機でなされる行為、たとえば、ボランティア活動などが無批判的に賛美されている現在の日本の社会の風潮をきわめて心配しています。援助が相手本意かどうかという次元よりもう一歩深く掘り下げて、果たして、相手本意の、自己犠牲型の、無償援助が自分たちの取るべき姿勢であるかどうかを、もっと議論してほしいと思うのです。


(4)立川談志

立川談志の援助批判の背景は、現代の日本社会にある皮相的なボランティア活動賛美の社会風潮です。その皮相さのゆえに、おまえは何を根拠に他人を助けることができるとそう簡単に信じることができるのか、ということを彼はわたしたちに尋ねているのです。とくに人が金で救われ得るという単純思考に彼はつよい疑問を抱いています。単なるセンセーショナリズムではありません。すぐれた日本社会批判だと思います。

おたよりありがとうございました。



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