僕はキリスト教信者の高校生です。

突然ですが、正直な話、僕は宗教はマインドコントロールの一種として受け取ってい ます、僕はそのマインドコントロールを喜んで受け入れています。そうしなければ自 分の生きている意味が見つからないからです。僕は自分の存在が神に必要とされてい ると思うことでしか自分の存在意義が見つからないのです。

人間の生きる目的は何ですか?そして人間はどこから来たのですか?宇宙や自然はど こからやってきたのですか?

このことについて何か考えを持っているのなら僕にお話をお聞かせください。よろし くおねがいします。

存在に目的(存在意義)があるとすれば、それはそれを創りだした、動機やら目的意識を持っているある<人格的創造者>を必要とします。机や椅子にその存在目的があるのは、ある動機や目的意識を持っている人格的存在者(人間)の存在があるからこそであって、存在が存在として現れるようになった背後にそのような人格的存在者(神や人間)がいなければ、存在にはそれが存在するようになった目的がありません。したがって、あなたの言われることはとてもよく理解できます。

ところで、あなたはキリスト教信者だそうですから、ご存知だと思いますが、キリスト教では神を創った創造者(神の神)の存在を認めません。したがって、キリスト教の神には存在目的(存在意義)がありません。それでその神が人生に悩んでいるという様子もありません。わたし自身も、ちょうどこのキリスト教の神と同じように、自らの創造者を想定しなくても全然平気な存在なのです。

では、自らの創造者を想定しなくても -- つまり自分に存在意義がなくても -- なぜわたしは全然平気なのでしょうか。それは、自分の中に、人生二百年三百年生きても足りないほど、やりたいことがいっぱいあるからです。

逆に、「人生の目的」とか「人間の存在意義」とかいった問いが生まれるのは、人生を貫いてやりたいことをまだ自分の中に発見していないからではないでしょうか。そういうのは、<子供>という、価値を受益する存在者から、<大人>という、価値を創造する存在者へ成長する、その過程にある多くの若者たちには、ごく自然な過渡的現象でしょう。

価値受益者(子供)は「道がなければ歩けない」と泣きわめきますが、価値創造者(冒険者)は「わたしの通った跡に道ができる」と勇んで荒野に挑みます。何も描かれていない真っ白いキャンバスは、価値受益者を狼狽落胆させますが、それこそが価値創造者にとっては生きる息吹を与える理想的な生の条件です。

なお、

平尾輝明さんへ「わたしの生きがい、わたしの生きる目的」(97年10月4日)
Wejloveさんへ「存在目的とむなしさ -- 無目的的存在はむなしいか」(99年3月18日)
池田政信さんへ「価値を創りだす存在であることによって、人間はおのれの人生を価値あるものとしている」(99年5月16日)
なども参考にしてください。