1.現象:双子・体細胞由来ヒトクローン

1−1.過去のやりとりの整理

石田(2001年2月6日)
:どこかの誰かが、もしヒトクローンを完成させてしまったのなら、わたしは、その行為者を糾弾します。(これはほぼ断言できると思います。)ですが、その行為者の行為の結果として生まれてきたヒトクローンを差別するつもりは、今のところありません。

佐倉さま(2001年3月4日)
:ヒトクローン(一卵性双生児)はすでにたくさん存在しており、したがって、「ヒトクローンを完成させてしまった・・・行為者」もこの世には沢山存在しています。
 一卵性双生児のクローンは、まだできたての一つの受精卵が、勝手(偶然?)に細胞分裂して、自らのクローンをつくることによってできるものです。人間は、受精卵のときには自分のクローンをつくってもよい(糾弾しない)が、成人になってからは自分のクローンをつくってはいけない(糾弾する)という主張には、論理的な一貫性がありません。
 石田さんの議論にしたがえば、双子の一方(あるいは、それを許す自然の働き)を「糾弾」しなければなりません。彼(女)は受精卵の時に、自分と同じ遺伝子を持つコピー(すなわちクローン)をつくったのですから。

石田(2001年4月20-22日)
:双子もヒトクローンだとのご指摘、ごもっともです。言葉足らずで失礼いたしました。
 前回のメールでわたしが連呼していた「ヒトクローン」は、ほぼ全て「成体の体細胞に由来するヒトクローン」のみを指していました。わたしは「成体の体細胞に由来するヒトクローン」を作り出す行為や、作り出す技術、その論理を糾弾していこうと思って書いていたのです。
(中略)
「一卵性双生児のクローンは、まだできたての一つの受精卵が、勝手(偶然?)に細胞分裂して、自らのクローンをつくることによってできるものです。(佐倉さま:2001年3月4日)」
 という状態のヒトクローンは、わたしは「作る」のではなく「クローンができる」あるいは「一つだったモノが二つになる」ものだと考えています。「成体の体細胞に由来するヒトクローン」と、受精卵が分裂して完全な複製ができる双子とは、まったく違います。これらには「同じ遺伝子を持つ」という共通の特徴もありますが、根元において、全く異なる性質を持っているとわたしは考えております。ので、別のものとして考えさせていただきます。
(中略)
 佐倉さまは、体細胞に由来するヒトクローンの製造と、セックスすることによって生まれて来る子どもが双子として生まれてくることとを同じ現象と捉えていらっしゃるのですね。(石田:2001年4月20-22日)
(中略)
 双子は、一つの受精卵に由来しています。そして「どちらがどちらの複製である」とは言えません。「どちらかがどちらかを作った」とも言えません。双子はたった一つの受精卵がそれぞれ綺麗に1/2になって生じます。成体となった双子の一方が今一方の根拠であるわけではありません。同時に、「双子がいる。どちらがどちらの複製か?」と問うのも無意味いです。なぜなら、どちらも、どちらかの複製ではないからです。  双子は、まるでコピーのように見えますが、それは表面的な見かけにすぎません。コピーなのではなく、分裂したのです。(石田:2001年4月20-22日)
(中略)
 対し、成体の体細胞に由来するヒトクローンの場合は60兆マイナス1対1です。受精直後の分裂が一度あり、それによって生じた二つの細胞それぞれが成体になる歩みを開始するのではなく、そこで生じた二つの細胞は、一つの成体になる歩みを開始します。そして成体化が完了し、有機的に結合された60兆個の細胞ができます。体細胞に由来するヒトクローンが製造されるのはそれからです。  ですから、オリジナルとオリジナルの体細胞に由来するヒトクローンとの関係と、双子の関係とを同じものとして扱うのは、細胞に焦点を当てて考えると完全に間違いです。(石田:2001年4月20-22日)



1−2.6月〜

1−2−1.複数子

佐倉さま(2001年6月9日)

:「同じ現象」(違いがない)なんてわたしはどこでも言っていません。違いがあるのは誰の目にも明らかで、指摘するまでのことではありません。わたしはどちらもクローンであるという事実を指摘しているだけです。石田さんのように、<ヒトクローン反対>を旗印にするなら、双子の存在にも反対しなければ、筋が通らないことを指摘したのです。“双子がヒトクローンであるという初歩的な知識さえ持っていない人々が少なくない(ここまで下線)”からです。石田さんも、もし、そのことを知っておられたなら、「ヒトクローンに反対です」という形の主張にはならなかったはずです。

石田(新規)
:わたしは2001年4月20-22日の時点ですでに「前回のメールでわたしが連呼していた「ヒトクローン」は、ほぼ全て「成体の体細胞に由来するヒトクローン」のみを指していました。わたしは「成体の体細胞に由来するヒトクローン」を作り出す行為や、作り出す技術、その論理を糾弾していこうと思って書いていたのです。(石田:2001年4月20-22日)」と発言しています。
 つまり、2001年4月のわたしは「<ヒトクローン反対>を旗印に(佐倉さま:2001年6月9日)」しているわけではありません。
 よって、佐倉さまが2001年6月9日の返信でわたしに対して更に「<ヒトクローン反対>を旗印にするなら、双子の存在にも反対しなければ、筋が通らないことを指摘したのです。(佐倉さま:2001年6月9日)」と言うのは「筋が通(佐倉さま:2001年6月9日)」っていません。‥‥「筋が通っていない」と言うべきではないのかな。とにかく、そう語っていないのですから、そのように言われてもわたしは困ってしまいます。
 わたしにクローン全てに反対するつもりはないのです。その事実は、2001年2月6日の時点では言葉足らずでしたが、2001年4月20-22日の時点では鮮明です。

 わたしは、かつてのわたしの言い方が複数子についても反対することになるという事実に対しては、このメールのやりとりの中では佐倉さまに指摘されて気づき撤回しております(石田:2001年4月20-22日。実際にはそれ以前に別の局面で気づいたのですが。後述します)。
 つまり、わたしが2001年4月20-22日の時点から「双子がヒトクローンであるという初歩的な知識さえ持っていない人々」の中に入っていないのは明らかです。ですから、佐倉さまにはその点についてわたしを更に啓蒙なさろうとする努力は無意味なので放棄していただきたく思います。

 また、わたしは「同じ現象と捉えていらっしゃるのですね。(石田:2001年4月20-22日)」と言っています。佐倉さまが「「同じ現象」(違いがない)(佐倉さま:2001年6月9日)」と「言って(佐倉さま:2001年6月9日)」いるかどうかを問題にしているわけではありません。佐倉さまが「(違いがない)(佐倉さま:2001年6月9日)」と言っているとは、わたしは書いていません。だからそのような指摘方法を選択なさらないでください。

 「石田さんも、もし、そのことを知っておられたなら、「ヒトクローンに反対です」という形の主張にはならなかったはずです。(佐倉さま:2001年6月9日)」とのことですが、その指摘は誤りです。
 わたしにとって複数子と体細胞由来ヒトクローンとが違うという事実の受容は「知っている・知らない」という問題ではありませんでした。わたしは佐倉さま以外の他人と話す中で「気づいた」のです。
 完全に知識のなかったことを他人から教えられて知るのと、知識と思考を積み重ねて「気づく」のとは全く違います。

 なんにせよ、4月の時点から、わたしは「双子」に反対してるわけではありませんし、「<ヒトクローン反対>を旗印に(佐倉さま:2001年6月9日)」しているわけでもありません。それは以上のように2001年4月20-22日のわたしのメールで明らかです。



1−2−2.「ヒトクローンそのもの」:問題設定

佐倉さま(2001年6月9日)
:どんなにその違いならべたてても、どちらもクローンである事実に変わりはありません。したがって、石田さんがもし、一卵性双生児の存在に反対できないのなら、石田さんが反対している対象は絶対にヒトクローンそのものではありえないのです。これがわたしがはじめから指摘していることなのです。それは、石田さんが、一体、何に反対しているのかを突き止めるためです。

石田(新規)
:「1−1.」や「1−2−1.」のように、わたしの2001年4月の論を読んでいただければ、わたしが「ヒトクローンそのもの」に反対しているのでないことは明らかです。
 そして、わたしは2001年4月のわたしの論の中で、わたしは体細胞由来ヒトクローンの製造に反対していると言明しています。
 ですから、「石田さんが反対している対象は絶対にヒトクローンそのものではありえないのです。これがわたしがはじめから指摘していることなのです。(佐倉さま:2001年6月9日)」とおっしゃるのは別に構いませんが、そして「石田さんが、一体、何に反対しているのかを突き止めるためです。(佐倉さま:2001年6月9日)」とおっしゃるのも別に構いませんが、それはわたしの4月の論を読む中で佐倉さまが自分の理解を深めたに過ぎません。わたしのメールそれほど複雑な論旨を持つものではありませんから、謎解きをなさったかのように書くのは如何なものかと思います。

 また、佐倉さまは以上の箇所でわたしが「何に反対しているのかを突き止める(佐倉さま:2001年6月9日)」とおっしゃっているのに、それを次の瞬間いきなり「理由」にシフトされるのはなぜなのでしょう。

 わたしが反対してる対象は、以上のように、佐倉さまが謎解きの体裁を取らずとも、自ずと明らかです。なのに、佐倉さまは、ご自分が「石田さんが、一体、何に反対しているのかを突き止める(佐倉さま:2001年6月9日)」ことを問題として設定しました。加えて次の瞬間にご自分の設定した問題そのものを「理由」にすりかえていらっしゃいます。すりかえているつもりはないのかも知れませんが、論が歪んでいます。
 このようなことをなさっては、わたしと佐倉さまとの間で展開されている議論も、佐倉さまが2001年6月9日の論で展開されている議論も、すべて台無しになってしまうと思います。



2.問題設定など:議論について

2−1.決めつけとすり替えと自覚

石田(新規)
:以上のように、佐倉さまは「石田さんが、一体、何に反対しているのかを突き止める(佐倉さま:2001年6月9日)」という、謎解きの必要ない問題を問題として設定し、すぐさまその設定を「理由」にすり替え、それを云々する方向へ進んでしまいます。
 そして、その「理由」を「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に求め、そちらを問題にします。
 つまり、佐倉さまにとっては、わたしが「一体、何に反対しているのかを突き止める(佐倉さま:2001年6月9日)」という、謎解きの必要ない問題を問題として設定する必要はそもそもなかったのです。佐倉さまがなさりたかったのは、わたしの論が「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に由来しているという決めつけに過ぎないのです。
 議論における謎解きタイプの言辞は、相手が明示していないことを明らかにする時にのみ有効です。相手がそもそも明らかにしていることをさも自分が初めて明らかにしたかのように振る舞うのは怠惰であるとわたしは考えます。それに加えて問題設定を別の方向にすり替えていくのなら、怠惰を通り越して悪意に満ちていると言えます。
 怖れずに申し上げます。そのあたり、佐倉さまには自覚を促したく思っています。自覚してやっているのでしたら、議論はできません。勝ちたいだけの人とは、ディベートは可能なのでしょうが、わたしにディベートする意図はありません。ディベートは現実に対して何らの力を発揮しないからです。わたしは議論がしたいのであって、ディベートがしたいわけではありません。



2−2.「宗教的ドグマ」とは何か。

石田(新規)
:結論を先に申し上げれば、特定の創唱宗教以外のものでさえ「ドグマ」になり得ます。そして、佐倉さまはそれに拘泥しています。他人が「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に陥っているか否かを問題にする以前に、あるいはそれと並行して、佐倉さまはご自身を振り返るべきだとわたしは考えます。

佐倉さま(2001年6月9日)
:どうして人為的に生命を造りだすことがいけないのでしょうか。それは生命を造るのは神(自然)の仕事だ(と信じておられる)からでしょう。人為的に生命を造ってはいけない客観的な理由などどこにもないからです。つまり、石田さんがヒトクローンに反対しておられる本当の理由は宗教なのです。

石田(新規)
:では、佐倉さまはどうして「人為的に生命を造ってはいけない客観的な理由などどこにもない(佐倉さま:2001年6月9日)」と言い切れるのでしょう。
 創唱宗教・世界宗教・民俗宗教・自然宗教、あるいは宗教的行為・宗教的象徴・宗教的なモノ‥‥。「宗教」という言葉はあまりに広い射程を持ち、その言葉が意味する内容を一義的に定義することは不可能と言えます。
 ですからわたしは、宗教について自分の感じるところを語る人は、須く自分の語る「宗教」を定義すべきであると考えています。それを明らかにしないままで語り出すと、議論ができないからです。
 しかるに「宗教」というモノについて佐倉氏の定義は全く不明確です。だからでしょう、何がなんだか解りません。
 以下、ある私的文書からのコピペです。

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(コピペここから)

 わたしは、一人一人の人間の上に現れる「宗教」を、その人の身の上に現れる、ある一定の約束事であると考えている。換言すれば、自覚的と無自覚的との違いこそあれ、その人が選び取り(選び取ってしまっていて)、今まさにその世界観や価値観に基づいて生きている、そのような世界観や価値観という約束事が宗教であるのではないだろうかと考えている。もう少し換言すれば、「積極的に選んでいる」約束事ではなく、知らず識らずのうちにそうしてしまっているような約束事が宗教なのではないかと考えている。例えば、「人間は死んだら浄土に行く」とか、「最後の審判を経て神の国に行く」とか、「高天原で神になる」とか、「黄泉の国に行く」とか、「無になる」とか、「宇宙的生命体の一部になる」とか、そういうふうに信じて疑っていない約束事が宗教なのではないかと考えている。

 もう一度換言すれば、「そういうふうになるのだとわたしは積極的に信じています」というものではなく、「えっ? そうなるんじゃないの? 他には考えられないなあ。否定されても困るなあ。君もそのように考えるべきだと僕は思うなあ(or まあ、あなたにこれを押しつけるつもりはないけれど)」という水準にまで達している約束事が宗教なのではないかと考えている。

 あるいは、「人間は善を求めて生きるべきである」とか、「人間は自殺してはならない」とか、「人間は他人を利するように生きなければならない」とか、その人が本心から「人間はこのようにあるべきだ」と信じていて疑っていない規範も宗教であると考える。だから、「わたしは仏教を信じることにしたからモノに執着してはいけないのだと考えてそのようにするのだ!」という営みも宗教ではないかと考えている。

 だんだん不可逆的にくどくなって来てると思うが、もう少し言うと、創唱宗教や民族宗教、民間信仰など、恐らく多くの人間が「宗教」という言葉からある程度一致した概念を想像するだろうと思うのだが、しかしそのようなものだけではなく、その人の言動や情動を左右する価値観を作り出す世界観、それらが全て「宗教」と言えるのではないか、管理人はそのように考えている。そのようにしてその人の全人格を統御している、その人に認識されることがないかもしれない約束事をすべて「宗教」と呼べるのではないか、と、そのように考えている。

 積極的に、いや、消極的にでも絶対視してしまっている世界観や価値観、信念をのみ「宗教」と呼びうるのではないか、わたしはそのように考えている。

 (もちろん論証も何もあったもんではないです。以上のような思考はわたしの「宗教」の一部なのでしょう。)

(コピペここまで:拙ページ所収、ご注意の後の「学術的レジュメもどき『風の谷のナウシカ』」より)

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 ‥‥今読んで気づきましたが、これは「宗教」論と言うより「ドグマ」論かもしれませんね。わたしが自分の文書を引用することで目指したのは「佐倉さま、あなた自身が、あなたの文脈であなたが忌み嫌っている宗教の中にいるんですよ!」と言うための補完ことだったのですが。わたしが考えている「宗教」とはこのようなものです。
 なんにせよ、わたしは、佐倉さまがわたしに「石田さんがヒトクローンに反対しておられる本当の理由は宗教なのです。(佐倉さま:2001年6月9日)」とおっしゃりながら、ご自身もご自身が言う意味での「宗教」に完全にはまっているのではないかとわたしが疑っていることを表明いたします。佐倉さまご自身がそもそも「ドグマ」から脱していないという事実を指摘したいのです。そしてそれは佐倉さまがわたしが陥っていると指摘しておいでになっているよりも遙かに深い拘泥の仕方なのではないか、と考えています。

 わたしには、佐倉氏が他人に「宗教的ドグマに由来する偏見(佐倉さま:2001年6月9日)」と言う時、そこに自分の抱えている「ドグマ」への振り返りが皆無であるように思えてなりません。わたしだけでなく、以前Junさんと「議論」していた時にも佐倉氏はそのようにおっしゃって、いいえ、決めつけていましたが、しかしやはり自分への振り返りはありませんでした。また、自分が宗教をどのように捉えているのかについても言及がまったくないままでの思いのたけ、ありったけの意見表明をなさっていました。

 宗教的かどうかは措きますが、佐倉氏は自分がどのような「ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に陥っているのかをもう少し真摯に見つめるべきであると考えます。

 わたしは仏教徒です。少なくとも自分が「縁起の法」の中にいることを自覚しています。これはわたしにとって真理以外の何物でもありませんが、しかし仏教的にもう少し言うなら、わたしがこのように自覚しているということ自体、仏教的ではありません。自覚なき自覚とでも言うべきモノが仏教で本来いう「自覚」ですから。
 ですが、わたしは自分が仏教の「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」なるものに冒されているとしても何ら不思議はないと考えています。ですが、佐倉さまがわたしに向かって発した・設定したタイプの「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」というものが仏教にはそもそも見あたらないため、戸惑っています。

 佐倉さまはわたしに向かって「生命を造るのは神(自然)の仕事だ(と信じておられる)からでしょう。(佐倉さま:2001年6月9日)」とおっしゃっていますが、わたしはそのようには考えておりませんし、また、仏教(という「「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」でしょうか)に、そのような考え方を積極的に推進する言辞は見あたらないと考えているからです。少なくとも、わたしが所属している浄土真宗本願寺派が公式に仰いでいる経論釈には、そのような言辞はまったく見あたりません。
 ですから、わたしがもし「生命を造るのは神(自然)の仕事だ(と信じて(佐倉さま:2001年6月9日)」)いるとしても(実際にはそうではありませんが)、それは特定の創唱宗教(わたしの場合は浄土真宗本願寺派)の「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」によるものではあり得ません。至って個人的なものでしょう。

 佐倉さまは、体細胞由来ヒトクローンの製造に反対する人間が必ず「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に堕しているという偏見から早く自由になってください。自由になれないのであれば、御自身も「ドグマ」に堕しているとしか言いようのない立場にいらっしゃることを自覚なさってください。そして、そこから「宗教」という言葉を使って語り始めてください。「宗教」という言葉に関する佐倉さまとわたしとの見解の一致点と相違点を明らかにしてからでなければ、語ってもマズイと思います。



3.「理由」

石田(新規)
:何か共通の事柄を中心に据えて複数の人間が語り合う場合、最終的に問題となるのは、その事柄をどう扱うのかということであるとわたしは考えます。
 その事柄に向き合う時の態度については、人それぞれに何らかの思考や信条を理由としていると考えます。

 クローンを中心に据えて佐倉さまとわたしとが語り合う場合、最終的に問題となるのは、クローンをどう扱うのかということであると考えます。クローンという事柄に向き合う時の態度については、佐倉さまとわたしそれぞれに何らかの思考や信条を理由としていると考えます。佐倉さまはわたしが依って立つものを「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」に求めました。
 では、佐倉さま自身はどのようなそれに依って立っているのでしょうか。
 不偏不党の位置など、およそ人間が何らかの価値判断を行うときにはあり得ません。佐倉さまも人なのですから、何らかのモノに依って立っているに違いないとわたしは考えます。そこから考えを開始しているとわたしは考えます。他人に「宗教的ドグマ(佐倉さま:2001年6月9日)」を押しつけるだけで自分のそれについての言及がなければ、それは言葉足らずではないかとわたしは考えます。
 わたしから見れば、佐倉さまは佐倉さまなりに「ドグマ」に陥っています。自分だけは宗教から自由であると考えたり、自分だけは客観的な目線で語っていると考えてしまうような、そういう「ドグマ」です。
 別に、ドグマに陥っているか否かでもって相手をやりこめられるわけではありません。また、ドグマに陥っているからダメ、陥っていないから良い、‥‥そんなことは一切言えません。言えるはずがありません。

 問題にすべきは、中心に据えられた事柄、クローンです。なお、このクローンは双子ではありません。二人とも双子は問題でないと考えていますから。また、なぜわたしが双子は問題にならないと考えているのかは4月に既に示しました。わたしが問題にしているのは、体細胞由来ヒトクローンです。



4.技術的問題

佐倉さま(2001年6月9日)
:仮に石田さんの考えが正しいとしても、それは技術上の問題であって、危険がなくなれば反対する理由はなくなります。技術的に危険ということならば、クローン技術に限らず、車の運転や医術の発展でも同じことであって、未熟な運転手には車を運転させないとか、未熟な医者には危険な手術をさせないということであって、車の運転そのもの、あるいは手術そのものに反対する理由にはなりません。つまり、技術上の問題は、クローンを創ることそのものに反対する理由にはなりません。むしろ、「だから、運転技術を、医学技術を、クローン技術をもっと発展させよう」、ということになるでしょう。そもそも、とおい将来、化学物質から生命体を作り出す技術が開発されれば、クローンを創るのに、成体の細胞を利用する必要さえなくなるのです。

石田(新規)
:技術的に困難かどうかということを理由にして体細胞由来ヒトクローンの製造に反対するのは、慥かに、ご指摘の通り無理があると思います。しかし、「だから(佐倉さま:2001年6月9日)」と言って体細胞由来ヒトクローンの製造を推進する理由が不明です。
 わたしも「「運転技術を、医学技術を、クローン技術をもっと発展させよう(佐倉さま:2001年6月9日)」」とは思います。なぜなら、運転技術が未熟な者の運転技術は向上させた方が死ぬ人が少なくなるだろうと考え、医学的技術も同様だと考え、それぞれそちらの方が「良い」と考えるからです。また、ES細胞培養など、体細胞由来ヒトクローン個体を発生させない水準での体細胞クローン技術も発展させた方が「良い」と考えています。

 ですが、わたしは体細胞由来ヒトクローンの製造は、たとえ技術的に確立されてもすべきではないと考えていますので、技術的な困難を理由に反対するのは筋が通らないことでした。これは傍証的なモノに過ぎませんね。しかし、わたしは技術的な困難を唯一の理由にして体細胞由来ヒトクローンの製造に反対しているわけではありませんでした。

 なお、まったくの余談ですが、わたしは「移植手術は異なった遺伝子を持った他人の臓器を持ち込むため、拒絶反応を起こす大きな危険があるからです。(佐倉さま:2001年6月9日)」とは異なる理由で、生体肝移植などのドナーの死亡や「脳死」を前提としない臓器移植に反対してはいませんが、ドナーの死亡や「脳死」を前提とする臓器移植には反対しています。理由については、拙ページに論文がたくさんありますのでご覧下さい。ここでは語りません。

佐倉さま(2001年6月9日)
:そもそも、とおい将来、化学物質から生命体を作り出す技術が開発されれば、クローンを創るのに、成体の細胞を利用する必要さえなくなるのです。

石田(新規)
 ‥‥これは一体なんですか? まるで「そもそも、とおい将来、ES細胞培養によるクローン技術で拒絶反応のない臓器を作り出す技術が開発(確立)されれば、臓器移植をするのに、生身の人間の臓器を利用する必要さえなくなるのです」と言うのに似ているように思えますが。
 現在の技術水準では幻想のようなものを持ってきても、何も解決しませんし、臓器移植の順番を待っている人間の切迫感も、体細胞由来ヒトクローンという技術を選択しようとしている人の焦燥感も満足されません。この場所には全く不要な論だったのではないでしょうか。



5.性質・本能 そして議論の態度

5−1.性質・本能

佐倉さま(日付不明)
:自己複製(繁殖)は、「生物の基本的な性質」なのです。
(中略)
:自己複製(繁殖)への意志は生物のより基本的な性質

石田(新規)
:上の引用は多少似て見えますが、まったく異なる内容です。それについて、わたしは4月の拙論で展開していますので、そちらをご覧下さい。佐倉さまはそれに納得いっていないようですが、納得いかないからと言って理解まで不可能であったわけではないと思います。
 この部分については、佐倉さまとわたしの見解は鋭く対立しているようです。どちらが良い・悪いということはないのではないでしょうか。とは言いましても、佐倉さまの主張は論理の階梯を二つ三つ踏み外していらっしゃいます。4月の拙論中、「3.」の後半部、「◆佐倉さまは」以降をざっと読んでいただきたく思います。納得してくださいとは申しません。理解なさってから反論を編んでください、論理的に。



5−2.態度

佐倉さま(2001年6月9日)
:したがって、「人間は無性生殖(クローン)で増殖していた時代の方がはるかに長い」という表現が意味するところは、わたしは、充分伝わっていると思います。
 しかし、石田さんのように、「生物全体の歴史をそのまま人間の歴史ででもあるかのように捉えた」といった、まったく異なる意味に誤解する方もおられるかもしれませんので、つぎのように、訂正しておきます。
(後略)

石田(新規)
:ご自分が何をなさっているかわかっておられないようなのでご指摘申し上げます。この部分での佐倉さまの論はいわゆる「逆ギレ」の一形態に過ぎません。
 佐倉さまはわたしが表面的な部分だけを論じているかのようにして一刀両断し、その誤解のもと、3月からの持論を繰り返しておられますが、わたしの4月の論・佐倉さまが引用されたわたしの言辞から展開されるわたしの論は、表面的な部分ではなく、佐倉さまの論が依って立つ根幹の部分を鋭く切り崩し、破壊し、それが本能とは呼べないという論を展開しているのです。論破にならない論破で一刀両断しても、それは竹光による一刀両断です。表面も、中身も、まったく斬れません。



6.自由

佐倉さま(2001年6月9日)
:石田さんが、自分のクローンが欲しくないならつくらなければよいでしょう。自分が欲しくないからといって、他人の選択を阻止しようとする偏見(「糾弾する」)に対しては、やはり、「恐れ」をもっていただきたいと思います。よほどの理由がないかぎり、他人の自由を束縛することは、慎むべきではないでしょうか。

石田(新規)
:自由には責任が伴います。佐倉さまとわたしの初期の議論(わたしが自分の至らなさを知る契機となった議論)のように、生まれてくる子どもの「自己決定」をタテに体細胞由来ヒトクローンの製造に反対することは不可能ですが、だからと言って生まれてくる子どものことを考えないでいて良いということにはなりません。
 体細胞由来ヒトクローンを製造したいとする人間の自由を認めるというのは、どういうことなのでしょう。佐倉さまによってそこに想定されている責任はどういったものでしょう。お答えいただきたく思います。
 わたしとしては、そこにあるのは自由ではなく「勝手」であると考えています。言うまでもないことですが確認しますと、自由には責任が伴いますが、「勝手」には責任が伴いません。
 佐倉さまが誰かの体細胞に由来するヒトクローンであると仮定します。その佐倉さまはその事実を告知された時、どのような反応をするのでしょうか。それについて解答して頂きたく思います。また、そこから何か考えることがありましたら、それも聞かせていただきたく思います。

 聞くだけでは質問として不届きな感じがしますので、わたしがそうだと仮定してのわたしの反応と、それ以降について問わず語りでお答えします。  恐らくわたしは精神的に混乱を来し恐慌に陥ると思います。ですが、わたしはわたしとして生きなければなりません。ですから、うまくいけばですが、わたしはさまざまな精神的葛藤を経ていずれその事実を事実として受け容れ、よりたくましくなることと思います。
 しかしわたしには「よりたくましくなる」という結果だけに焦点を絞ることが不可能です。わたしが焦点をしぼるのは「混乱を来す」という箇所です。そして、そのような無意味な混乱や葛藤に他人が陥ることを潔しとしません。
 生まれてくる子どもが「生まれる」という「苦」を甘受するとしても‥‥いや、そもそもそれを「苦」と認識するかどうかは措いても‥‥、自分が体細胞由来ヒトクローンであるという事実を甘受するかどうか、それ「に対しては、やはり、「恐れ」をもっていただきたいと思います。(佐倉さま:2001年6月9日)」



まとめ

 一度言ったことをほぼそのまま繰り返すのなら、そのように宣言された方がよろしいと思います。「ところで」は繰り返しの宣言にならないと思います。(佐倉さま:2001年6月9日の「1」中の「ところで」)。

 佐倉さまとわたしがこのままクローンについて語っても、わたしには得るところがあまりなさそうです。互いに「常識」と考えるモノがおそらく違いすぎるのでしょう。ですから、もうメールはいたしません。するとしても、論理展開の技術的不備、陥っている勘違いの質、佐倉さまとわたしとで携えている前提の異同、そういったものの指摘にしかならないと思います。たとえば今回のメールでおこなったような、「宗教」に関する論理的深考の欠如の指摘などです。このメールに対する佐倉さまの反論にしても、そのようなものにしかならないと思います。
 佐倉さまの次のメールにて、つまり、お互いの論理展開でお互いが不満に思い、残念に思うことを表明し合って、それで一連のやりとりは終了させていただきたく思います。もちろん、佐倉さまから反論をいただいたら、それは読ませていただきます。

 今までの反論、ありがとうございました。楽しかったです。でも、楽しいだけでは問題は解決しないのでした。論理も大事ですが、問題は実践の内実です。体細胞由来ヒトクローンを製造することには反対を表明しているわたしですが、そのような技術によって、わたしは彼(女)を犠牲者と考えるのですが、体細胞由来ヒトクローンがこの世に生を受けた場合、彼(女)に対する態度は佐倉さまもわたしも全く同一(積極的受容)なのですから、そしてお互いそのような技術を運用できる立場にはないのですから、お互い、そのような研究施設に何らかの方法で働きかけるという実践に向けて、努力していければ良いな、と思っております。

 本当にありがとうございました。



1.クローン人間は犠牲者?

体細胞由来ヒトクローンを製造することには反対を表明しているわたしですが、そのような技術によって、わたしは彼(女)を犠牲者と考えるのですが、体細胞由来ヒトクローンがこの世に生を受けた場合、彼(女)に対する態度は佐倉さまもわたしも全く同一(積極的受容)なのです・・・。
「彼(女)を犠牲者と考える」ことを簡単に考えられているようですが、誰かを犠牲者と考えることは、誰かを犯罪人と考えることです。たいした根拠もないのに、クローン人間を犠牲者と決めつけるのは、無実の人間を犯罪人扱いすることになります。

いったい何が犯罪なのでしょうか。「生んでくれ」と子どもが頼みもしないのに親が生んだからでしょうか。それだったら、クローンの子であろうとそうでなかろうとみんな同じことです。今までとは違った方法で子どもが産まれるからでしょうか。それだったら、今までになかった新しいことを始める行為、変革を目指す行為はすべて犯罪になります。無責任?むしろ、欲しくもないのに勝手に「できちゃった」方がよほど無責任だと思います。セックスの結果できた胎児や幼児が、毎日毎日世界中のどこかで、親自身の手によってその新しい生命を奪われています。クローンかセックスかというところで、責任・無責任を判断することはできません。責任・無責任の判断は、親がその子をどのように育てるかによってのみできる判断だと思います。

一般に、生命を傷つけたり、生命を奪うことは、どの社会において犯罪と見なされていますが、生命を産み、生命を育てる行為は、称賛されこそすれ、犯罪と見なされていません。


2.おまえも偏見者ではないか?

わたしは自分が偏見者であることを自覚しているつもりです。だれでも偏見を持たない人はいないでしょう。しかし、「おまえは泥棒である」と同じ泥棒仲間から告発されたからといって、それで本人が泥棒でなくなるわけではありませんし、また、どの偏見もみな同じというわけでもありません。「おまえも偏見者ではないか」という言い訳で、クローン反対者が偏見者でなくなるわけではなく、その特有な偏見は、見てみないふりをするわけにはいきません。なぜなら、人を犯罪者呼ばわりするのには、よほどの根拠がなければならないからです。

わたしたちの社会では、行われた行為が犯罪かどうかわからないのに人を犯罪人呼ばわりするのは悪と見なされています。その司法システムが依って立つ原理は、「無罪であることが立証されなければ許さない」という原理ではなく、「有罪であることが立証できないかぎり罰しない」という原理の上に成り立っています。

クローン反対論は、行われた行為が犯罪かどうかわからないのに人を犯罪人呼ばわりする非倫理的行為です。


3.人を<生まれ>によって差別する

佐倉さまが誰かの体細胞に由来するヒトクローンであると仮定します。その佐倉さまはその事実を告知された時、どのような反応をするのでしょうか。それについて解答して頂きたく思います。また、そこから何か考えることがありましたら、それも聞かせていただきたく思います。

 聞くだけでは質問として不届きな感じがしますので、わたしがそうだと仮定してのわたしの反応と、それ以降について問わず語りでお答えします。  恐らくわたしは精神的に混乱を来し恐慌に陥ると思います。・・・わたしが焦点をしぼるのは「混乱を来す」という箇所です。そして、そのような無意味な混乱や葛藤に他人が陥ることを潔しとしません。
まさに、ここに石田さんのクローン反対が、人をその<生き方>によって判断するのではなく、人をその<生まれ>によって判断する、人種差別のごとき偏見であることが明らかになっています。「黒人として生まれれば、いろいろな差別と貧困に遭遇し、混乱と葛藤をもたらすので、黒人は子どもを産むべきではない」というあの有名な白人の論理と同じです。差別心をもった白人は、もし自分が黒人として生まれたら、と考えただけで、石田さんのように「精神的に混乱を来し恐慌に陥る」のです。わたしは、自分がクローンであると言われても、別にどうということはありません。

もしわたしが、わたしの<生き方>によってではなく、わたしの<生まれ>によって差別される社会に生まれたら、わたしは苦悩を経験するかもしれません。しかし、それは、わたしをクローン(あるいは黒人やユダヤ人)として生んだ親の責任なのでしょうか、それとも、人間をその<生き方>によってではなく、<生まれ>によって差別する社会の責任なのでしょうか。

まことに恐ろしいのは、人を<生まれ>によって差別する社会の偏見だと思います。もしわたしたちの社会が、クローンだから、黒人だから、ユダヤ人だからというふうに、人を<生まれ>によって差別するような偏見者がひとりもいない健全な社会であれば、クローンだから、黒人だから、ユダヤ人だからといって苦悩する理由は何一つありません。クローン人間に対する差別心をなくせば、石田さんの「精神的に混乱を来し恐慌に陥る」病はただちに治る種類のものです。


4.クローン反対者の問題はクローンではない

問題にすべきは、中心に据えられた事柄、クローンです。なお、このクローンは双子ではありません。二人とも双子は問題でないと考えていますから。また、なぜわたしが双子は問題にならないと考えているのかは4月に既に示しました。わたしが問題にしているのは、体細胞由来ヒトクローンです。

だから、石田さんが反対されているものはクローンとは何の関係もないのです。石田さんは、クローン(同じ遺伝子を持つ人間を誕生させること)ではなく、人間が人為的に生命を作るという行為に反対されているのです。

もし「体細胞に由来する」人間がクローンでなかったらどうしますか。たとえば、遺伝子操作によって、親とは少し異なる遺伝子をもつ「体細胞に由来する」人間を人為的に誕生させたら、それはもうクローン(同じ遺伝子を持つ生命体)ではなくなるので、石田さんは反対しなくなるのでしょうか。そうではないでしょう?やっぱり反対するでしょう?

クローンであっても(受精卵に由来するクローンには)反対せず、クローンでなくても(「体細胞由来する」人間を人為的に誕生させることには)反対するとしたら、石田さんが反対されている「体細胞由来のヒトクローン」問題の本質は、そのクローン性(新しい生命が同じ遺伝子を持つこと)にあるのではなく、その人為性(その生命が人為的に誕生させられること)にあるのです。

つまり、「問題にすべきは、中心に据えられた事柄、クローンです」という石田さんの思い込みは間違っているのです。石田さんはまだ、

クローン問題という大きな問題があり、それは受精卵クローンと体細胞クローンの二つの小さな問題に分けられる
という問題の枠組みを考えておられ、ご自分はクローン問題の中のある特殊な事態(体細胞に由来するクローン)だけに反対しているのだ、と考えておられるのです。しかし、すでに述べたように、(体細胞に由来する人間でさえあれば)クローンでなくても反対するとなれば、この問題はより大きな枠組みで見直さなければなりません。

しかし、そうすると、石田さんの取り上げられている問題が、実は、<クローン>とは何の関係もなく、<人為による生命の創造>であることが明らかになってしまいます。石田さんは、意識的にか無意識的にか、そのことを認めたくないのでしょう。それを認めることは、クローン反対理由が宗教的なものであることを認めることになるからです。


5.現代の魔女狩り

クローン反対者の反対しているものが、クローン性ではなく、人為性であることが明らかになると、その反対の根拠が、人間の生命誕生を、人間が踏み込むことのできない神聖なものとする、なんらかの宗教的ドグマであると言わねばなりません。人間が生命を人為的に創ってはいけない理由など一般的な倫理にはないからです。一般的な倫理に従えば、すでに述べたように、生命を傷つけたり、生命を奪うことは、犯罪と見なされていますが、生命を産み、生命を育てる行為は、むしろ称賛されているからです。

人がどんな宗教的ドグマを持とうが、それはその人の自由です。そして、その宗教的ドグマを根拠に、クローンに反対するのも自由です。例えば、ヴァチカンはいち早く、カトリックの教義に則って、クローンニングを「人間が神の領域に踏み込むもの」として批判する立場を明らかにしました。わたしはその率直な姿勢に敬意を払うものです。

しかし、その批判は、同じドグマをもつ仲間の信者の間だけに留めるべきものであって、同じ信念を共有しない一般社会にまでもそれを押し広げて、人を犯罪者扱いするのは、「現代の魔女狩り」とでもいえる行為だと思います。

何度も繰り返しますように、石田さんがクローンをつくりたくなければつくらなければよいのです。しかし、それを望む他人の希望を妨げる権利は、石田さんにはありません。


民主的で自由な社会を望むなら、誰もが納得する理由がないかぎり、他人の希望を妨げるべきではない。

(リチャード・ドーキンス)