さて、今回は、たまたま、新作のところを探索して、 「クローンは危険」に関する、no-muさんとの往復書簡を 発見しました。この件に関しましては、キリスト教倫理を 扱っている立場から、多少の誤解や、わたし個人の考え方を 述べておく必要を感じました。添付の文書が、それです。 お読みいただき、佐倉さんのご見解をいただければ幸いです。

 まず最初に断っておかなければならないことは、キリスト教倫理の立場から、決して、無条件にクローン技術に反対しているわけではない、という事です。植物に対するクローン技術は、かなり以前から認められている事です。(現在は、そこからさらに一歩踏み出した、遺伝子操作の問題が、議論の対象となっています。)問題は、このクローン技術の応用を、植物から動物に拡張すること、さらに、クローン動物が一般的に認知されたとしたら、次に、この動物の中に、人間という含めるのか、否か、というあたりが議論の対象となります。

 さて、クローン植物は、何故に作られたでしょうか。品種改良なわけですが、ひとことで言えば、人間の食用として、より品質の良いものを大量に作り出すためです。クローン動物(羊など実践例が数例あります)を作る目的も同様でしょう。但し、この時点で、感情的な違和感も生じます。何故に、クローン植物に対して、特に問題を感じないで食している人々が、クローン羊やクローン牛に対して、あれだけ過敏な反応をしたか分かりますか?それは、肉というものを通じた、動物と人間の親近性です。正確に言えば、人間もまた動物の仲間なので、食用にしているからといって、植物とは同じに議論できなかった、このあたりに、倫理学の容喙する部分が出てきます。

  クローン技術に反対しているのは宗教者たちだけだと思います。その本当の理由は、社会的問題などではなく、クローン人間を作る技術によって人間が神の特権領域に不当に介入しているかのごとく感じるからだと思います。

(00年10月31日 佐倉「日本はクローン人間技術開発の先駆者となれ」)

 上にも述べたように、クローン技術そのものに反対はしていません。それが、植物から動物に応用される局面で、慎重な論議が成されているという事です。したがって、人間のクローンが是か非かという問題は、その次に来る議論だと思っています。動物のクローンが一般に認知されて、例えば、クローン羊の焼肉屋等に人々が抵抗なく入っていくようになった時、次の段階として、では、科学的には動物の一種でありながら、倫理的に受け入れるか受け入れないかに関する特権的地位を保ってきた、霊長目ヒト科ホモ‐サピエンスのクローンを受け入れるか否かが必然的に問題になってくるからです。さて、以上のような議論でも分かるように、現時点における(状況倫理です)クローン人間技術開発に関する反対は、主に、まだ時が満ちていない、という側面からで、具体的には、目的論的にまだ確立していない、利用する側の人間の倫理が確立されていない、の二点に分けて、以下に述べさせていただきます。その前に、「創造」という神の特権領域の問題について、少し議論を深めておきましょう。創世記の1章は、バビロン捕囚時代のユダヤ教確立期に作成された非神話化文書ですが、面白いことに、その順序に従えば、第4日までの創造物に関して、人間は何らかの人工的代替物を作成しています。まず光、人工の光源が作られ、夜の闇が葬り去られました。次に、天、ビル、団地などの集合住宅の発達により、人間は自分たちに都合の良い空間を囲い込むことに成功しています。小さく言えば冷暖房、大きく言えば将来の気象管理ドーム計画など。水の管理、治水、これは大昔から現在に至るまでの、人間の神又は自然に対する挑戦、もっとも人間的な人工です。植物については既に述べました。太陽、月、後者については既に人工衛星という形で実現しています。太陽についても、近い将来に、人工太陽が実現するでしょう。で、その後の、第5日動物の創造について、現在その是非が議論されている真っ最中であり、第6日人間の創造については論外である(躊躇している)、ということが現在の状況なのではないでしょうか。だから、人間は、既にかなりの程度、「神の特権領域に不当に介入している」のです。問題は、更にどこまで介入しても良いのか、あるいは、いつの時点で、人間の創造という領域にまで踏み込めるのか、という問題になります。決して神の冒涜の問題ではありません。(ちなみに普通、冒涜は変換されます。なぜできなかったのでしょう?)


1.目的論的に見た、クローン人間の問題性

 先ほど植物のクローンについて述べましたように、その目的は食用であると明らかにされています。(場合によっては衣料としても使われます)動物についても、まだ実験段階とは言え、将来の食用、あるいは、研究用の実験動物として考えられているでしょう。では、人間の場合はどうなのか、ということが問題になります。目的論の主体が人間であるだけに、議論は難しくなります。食用にしても、衣料用にしても、研究用にしても、まず人間の欲求があり、それに応える形で人工物が、この場合クローンという形で生み出されるわけです。では、クローン人間を作るという動機となる人間の欲求は何でしょう。佐倉さんの議論から推測できる動機は、子孫を残したい、でしょうか?そこで、はたして、「自分のクローンを作るかどうかなどは、個人の基本的人権」と言えるでしょうか?確かに、不妊治療の最終的切り札にはなるかもしれませんが、それ以前に試してみるべき手段が多々あるような気がします。これも偏見だとお考えですか?  目的論に則して言えば、子孫を残したい、という目的は、マイノリティーにしかなり得ない事です。もっとわかりやすい目的があります。研究用、あるいは臓器移植用、場合によっては、自分の肉体の突発的事故に備える、フェイルセイフコピーとして。倫理的に悪だ、と指摘する必要はありません。悪だということは承知の上で議論しているのです。悪ではあっても、わかり易い利用の仕方であるし、商売上も成り立ちそうです。キリスト教倫理の立場というのは、人間生悪説の上に立って、課題とされる問題に対して考えられるあらゆる倫理的悪を考え出す事です。次に、その悪に対しての解決方法を探究し、納得できる悪の回避方法が定まった時点で、例えば、クローン人間はキリスト教倫理的に問題がない、と結論を出すのです。残念ながら、未解決の諸悪が多すぎて、クローン人間に対してこのような結論が出せる状況にはありません。いま一般的に肯定されている臓器移植についても、臓器売買という悪が未解決で残されているために、まだ結論は出せないという状況です。これは、宗教の押し付けでも、他の人々の自由を否定する行為でもないとわたしは考えています。


2.利用する側の人間の倫理が確立されていない

 上でも述べたように、わたしの立場は、生悪説です。そもそも、神という絶対存在がなぜ必要とされるのでしょう?分類学的には、人間は間違いなく動物に属しています。その人間が、鉱物、あるいは、植物を利用する場合には、まったくの異種ですから、倫理的問題は生じません。(利用した結果、老廃物として害毒が再生産されるというようなことは、利用の善悪とは次元の違う別の問題です)動物を利用する時に、その延長線上に同じ動物としての人間が見え隠れするだけに、倫理的問題が生じてきます。この問題を回避するために、動物にも、生物にも、そもそも被造物にも属さない、神という存在を措定して、倫理問題の解答をこの存在から得る、という方法が考え出され、宗教が生まれます。神が動物も含めて、すべてのものを利用し、人間がそのおこぼれに与る、という発想です。(主体が見事に転換されています。アニミズムでも例外ではありません)この意味で、神は絶対でなければ意味がないのです。ところが、人間は自分中心ですから、この神に人間は例外であると認めさせようとします。つまり、動物とは違う、紙に選ばれた特別の存在である、とかです。これは、神神と言っていても、実際に利用するのは人間、という実態を表わしていながら、同時に、全被造物に対立する神、という概念と矛盾していきます。この矛盾を、人間の罪として体系化した宗教が、ユダヤ教であり、キリスト教です。だから、これらの宗教は、もともと、生悪説なのです。人間が罪からの解放を求めて努力するということは、ちょうど古い布が破れてしまったのを何とか繕って仕えるようにするようなもので、一つの穴を繕うことで、別の部分に無理が来て、そこがほつれだす、というような構造をしています。個としての人間には善人もたくさん居るが、集団としての人間は何をしても悪に傾く、というわけです。古来、さまざまな努力が、この悪に向かいがちな人類の歩みに歯止めをかけるために行われてきました。キリスト教倫理も、現代におけるそのような手段の一つとして、新たに人間の直面していく諸問題について、それなりの準備が整うまでブレーキをかけていく役割を担っています。決して、単なる「宗教的タブー」からの発言ではないのです。


3.差別について

 この問題については、別に時間をかけて議論する必要を感じています。ここでは、no-mu さんへの解答の中で、佐倉さんが提起された問題だけに絞って議論していきます。

女性であるというだけで差別する人もいるし、外国人だというだけで 差別する人もいます。しかし、女性であること、外国人であること、 クローンであることに、危険があるのではありません。危険は差別する 側の人の心の中にあります。たとえば、クローン人間をセックス人間とは 特別に違うものだというno-muさんの差別的考えこそが危険なのです。 なぜなら、それは、黒人に生まれたら差別されるから黒人は生まれるべき ではない、だから黒人の結婚は禁止しよう、というような考えと同類だからです。
 ちょっと議論が違う気がします。女性であるというだけで、外国人だというだけで差別されている人は現に存在します。しかし、クローンである人は未だ存在しません。

 黒人に生まれた人は現実に差別を受けて、それに対して戦ってきたし、現在も戦いつづけています。クローン人間は、未だに存在していないし、したがって差別も存在しません。可能なことは、起こりうるべき事態を推測して、悪い可能性をできるだけ除去していくという方法論です。実際に、もしクローン技術を人間にも適用しようと思うのなら、このようなシュミレーションは不可欠な準備作業になるでしょう。その際、生悪説に立って言わせてもらえば、人間は差別をするものです。そうであれば、差別をされた人格をどう保護し、どのように社会に馴染ませていくか、というような事柄を事前に充分慎重に議論してから、技術の導入を考えるのは当然の事です。現に起きている事象と、将来の可能性とを同等に議論することは一種のすり替えです。no-mu さんの指摘はすべて起こる可能性のある事柄です。それらの議論を、「no-muさんの差別的考え」として切り捨てることは、逆に特定のイデオロギーの押し付けになるのではないでしょうか。くり返しになりますが、クローニング全般については肯定的、動物のクローニングについては現在前向きに検討中、人間のクローニングについてはまだ将来の課題として、未検討、というところがわたしの立場です。

(1)Justice delayed is justice denied!

現時点における(状況倫理です)クローン人間技術開発に関する反対は、主に、まだ時が満ちていない・・・

米国の公民権運動の歴史の中で、白人たちは、「黒人が選挙に参加するのには、まだ時が満ちていない」とくり返したものです。黒人が人間であることを否定することもできないし、同じ人間なのに選挙権を否定することもできないためにに、「もちろん、わたしたちは黒人の選挙権を否定するものではない。わたしたちはただ、黒人は教育をまだ十分に受けていないので、政治家を選出する条件を見たしていない。もう少しかれらには準備が必要なだけだ。まだ時が満ちていないだけだ・・・」などという理屈を展開して、黒人に選挙権を与えることを、先送りし、先送りし、先送りし続けたものです。しかし、マーチン・ルーサー・キングは、白人たちの魂胆を見抜いていました。

Justice delayed is justice denied!(正義の先送りは、正義の否定である。)

(Martin Luther King Jr.)

クリスチャンたちは、クローン人間が同じ人間であることを否定できず、同じ人間に生存する権利を認めない理由も見つけることができないために、これからも、クローン人間の権利を否定し続けるために、「まだ時が満ちていない」という言い訳をくり返すことでしょう。


(2)倫理が確立されていないから禁止する?

利用する側の人間の倫理が確立されていない・・・
「倫理が確立されていないから禁止する」というのは、へんな理屈だと思います。「倫理が確立されていない」というのは賛同する倫理も反対する倫理も確立されていないということですから、「倫理が確立されていないから禁止する」というのは、「禁止する倫理的理由はないけど、禁止する」という事以外のなにものでもないからです。どうしてこんなへ理屈に陥られたのでしょうか。それは、実は(反対する)結論が始めから別の理由で決まっているからに他なりません。「別の理由」というのは、もちろん、宗教的ドグマです。

人間クローン技術に関する倫理が確立していないものなら、禁止されていないのですから、それはすでに許されていることになるのでしょう。しかし、倫理はもうすでに確立されています。黒人であろうが、女性であろうが、外国人であろうが、クローン人間であろうが、人間を傷つけたり殺せば殺傷罪になります。


(3)クローン人間は未だ存在しない?

・・・クローンである人は未だ存在しません。
クローン人間はすでに存在してます。一卵性双生児(ふたご)は偶然がつくったクローン人間です。三つ子、四つ子、五つ子・・・一卵性であれば、彼らはみんなクローン人間であって、わたしたちの社会の中で生存しています。人工的にそれを実現するのがクローン技術です。クローン人間はもうすでに存在しているのですから、問題は、クローン人間そのものではなく、「人工的」というところだけでしょう。しかし、「人工的」というのであれば、これもすでに、人工授精などによって「人工的」に人間を造ることが世に認められています。したがって、「人工的」を理由に反対する倫理的根拠もありません。


(4)クローン人間サポート宣言

これからも、クリスチャンたちは、その宗教ドグマを守るために、しかしその宗教的ドグマを前面に出すわけにはいかないので、いろいろな言い訳を考えだすことでしょうが、おそかれはやかれ、人間クローンはかならず実現することでしょう。

昨年、米国では、一人子を交通事故で突然亡くしたある夫婦が、その子どもの細胞を冷凍保存して、ある秘密組織にクローン技術開発のための多額のお金を投資したことが公表されました。わたしは、このようなことが、地下ではなく、地上で公に行われることを望んでいます。

かつて、米国では、クリスチャンたちが、酒造りを禁止し、造酒業はすべて地下組織で秘密裏に行われるようになりましたが、クローン技術が進めば、同様のことは必ず起こるでしょう。酒造りを禁止したクリスチャンたちの言い訳より、酒を飲む楽しさの方がはるかに人間を動かす力があったように、人間クローン技術を禁止するクリスチャンたちの言い訳より、事故で突然死んでしまった我が子の復活を望む親達の悲願の方がはるかに人間を動かす力があるだろうからです。クローン技術は、それが仮になんらかの倫理に反するものであるとしても、その倫理を破壊することが許されるほど、人類史上画期的なすばらしい一歩だと思います。

アメリカでは、宗教的弾圧(?)のもとで、人間クローン技術者は地下に潜らなければなりませんが、日本ではさいわいにその必要はないのです。クローンを望む世界の人々が、安心してその願いが達成できるような日本をつくってほしいと思います。その意味で、日本は世界中の人間クローン技術者を宗教的弾圧から擁護し、人間クローン技術の先駆者となる歴史的使命を持っているとわたしは考えています。