子供は作ってもよいが、クローンはいけない、などという主張には、論理的・倫理的根拠はありません。自分の宗教的・道徳的信念を他人に押し付けることこそ非倫理的で野蛮な行為です。

(佐倉、「進戸宏樹さんへ 00年9月17日」)

クローン技術を語る際に僕が最も危険だと思うのは、クローンとして創造された生命の人権についてまったく考えようとしないことです。クローンといってもれっきとした人間であり、当然喜怒哀楽を持つでしょうし、思春期になったり、人を好きになったりすることもあるでしょう。

クローンが量産される時代になったら、はたして僕らはその生命を、そしてその人生に対して責任を持つことができるのかということです。クローン自身、自分の生い立ちを不幸に思うことがあるかもしれないし、学校でいじめられたり、なんらかにつけ差別されたり、他人から白い目で見られるかもしれない。

もっと恐ろしいのは、クローンという理由でその生命の尊さを軽視されることがあるのではないかということ。狂った国で兵器開発のための人体実験用モルモットに使用されないとも限らない。

クローンの危険性は、神学的問題や宗教的な倫理観よりも、そういった社会的な問題にあると思うのですが。

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クローン技術を語る際に僕が最も危険だと思うのは、クローンとして創造された生命の人権についてまったく考えようとしないことです。クローンといってもれっきとした人間であり・・・

「クローンといってもれっきとした人間」であるのは当然です。セックスで産み落とされた人間が「れっきとした人間」であるように。人間として何の違いもありません。ならば、クローン人間に反対する理由はどこにもありません。

女性であるというだけで差別する人もいるし、外国人だというだけで差別する人もいます。しかし、女性であること、外国人であること、クローンであることに、危険があるのではありません。危険は差別する側の人の心の中にあります。たとえば、クローン人間をセックス人間とは特別に違うものだというno-muさんの差別的考えこそが危険なのです。なぜなら、それは、黒人に生まれたら差別されるから黒人は生まれるべきではない、だから黒人の結婚は禁止しよう、というような考えと同類だからです。

差別する人間は、相手がクローン人間であろうがセックス人間であろうが、差別するでしょう。差別しない人間は、相手がクローン人間であろうがセックス人間であろうが、差別しないでしょう。

クローン技術に反対しているのは宗教者たちだけだと思います。その本当の理由は、社会的問題などではなく、クローン人間を作る技術によって人間が神の特権領域に不当に介入しているかのごとく感じるからだと思います。つまり、かれらのクローン技術反対の本当の目的は、「生命は神によってしか造れない」というかれらの宗教的ドグマの保守なのです。だからクローン技術反対の正体は宗教の押し付けなのです。宗教の押し付けだから、それは他の人々の自由を否定する行為なのです。

そういうわけで、クローン技術に反対することは、クローン人間を人間として認めない差別行為であり、その生きる権利を奪う人権蹂躙の行為であり、自らの宗教的信念を他者に押し付けて人間の自由を束縛しようとする不当な行為だ、とわたしは思っています。

わたしは、日本人が世界中に先駆けて、この宗教的タブーに果敢に挑戦し、人類のあたらしい自由選択の道を開拓することを願っています。先進欧米諸国はいまでもこの宗教的(キリスト教的)因習を引きずっていますが、日本のクリスチャンの人口は幸いにも1%前後にすぎません。このことは、日本が人類をこの宗教的因習から解放する歴史的役割を担っているとも考えられます。