聖書の間違い、特に佐倉さん宛てに送られたメールとのやり取りをみて 楽しんでいます。

さて、私はこのHPを見ていてふと興味ある文面を見つけました

私も昔なぜ自分は生きて死んで行くのか考えたものです。
人は生まれる前どこにいて、なぜこの地上に生まれ、死んで何処へ行くのか……
97年12月3日に投稿された文章です。

「人はどこから来て、どこへ行くのか」という言葉を誰でも一度は聞いた事があると思います。私は、佐倉さんのホームページで上記の文章を見つけるまで「人はどこから来て、どこへゆくのか」というような疑問は、みんな冗談で言っているとばかり思っていました。それを真剣に疑問に思っている人は世の中に一人もいないだろうと………。

なぜ冗談に思えたのかというと、その言葉をどう解釈しても無意味な疑問に思えてならないからです。

「どこから来て」って、人はどこかから来たわけではありません。「どこへ行くのか」って、自分が決める事で誰かが決めることではありません。この質問は「僕は生まれる前はどこにいて、死んだらどこへ行くのかな?」という意味になるのでしょうか?

このような質問は、非常に不可解です。それはつまり、どこからどこまでを「人」としているのかを、その質問している人が決定できていないからです。


<1.人>

人とは何でしょうか?上記の疑問を考えた人はどこからどこまでを「人」としているのでしょうか?また、人が人たる構成要素とは一体何なのでしょうか?私の疑問をわかりやすく言うと

 右腕のない人は人でしょうか?
 両手両足のない人は人でしょうか?
 手だけの人は人でしょうか?(その状態で生命活動を行っているとして)
 両手と両足だけの人は人でしょうか?(その状態で生命活動を行っているとして)
 胴体と両手両足だけの人は人でしょうか?(その状態で生命活動を行っているとして)
 頭だけの人は人でしょうか?(その状態で生命活動を行っているとして)
 脳みそだけの人は人でしょうか?(その状態で生命活動を行っているとして)
 卵子や精子は人でしょうか?
 卵子に受精した瞬間の受精卵は人でしょうか?
 無頭児は人でしょうか?
 人間の細胞一つは人でしょうか?
 人間の死体は人でしょうか?
 焼かれた後に残った灰は人でしょうか?
 人間が死ぬ瞬間は人でしょうか?
私が思うに、活動する人間の脳を持ち何らかの生命活動している状態の人間こそ「人」です。さらに言えば、生きた「人間の脳」こそが人です。つまり、脳が死んだ人「脳死」は人の死と考えています。脳死は人の死ではない、というなら、頭が吹っ飛ばされた人でも心臓を動かし、残った部分を生かしつづける限りその人(頭のない人)は人です。頭どころか、手以外をすべて吹っ飛ばされた「手だけの人」も細胞を生かしつづける限り人です。極論すると、細胞一つも人になり、私は毎日大量に死にまくっている事になります。一体どこからどこまでが人なのでしょう?「これが人だ!」と決定できる組織(細胞、原子、粒子)が身体のどこかにあるのでしょうか?これをはっきりと決めずに「人はどこから来て……」などという疑問が浮かぶのは異常です。


<2.どこから来て>

これは、人がどこかから来た存在である、という事が前提になっています。人という存在は、どこかから来なければならないという発想はどこから生まれたのでしょうか?そもそも、「どこから」という言葉は空間を意味するものです。私たちの理解できる世界で言うと、x、y、zの3変数で必ず表現できる場所の事です。空間的な意味ではない「どこから」というのは私にはまったくわかりません。霊的な、つまり観測不可能な世界のことを指しているのでしょうか?

生とか死は人間が勝手に作った概念で、自然界(自然科学)ではそのような概念ははじめから存在しません。粒子が集まり、自己の複製を生み呼吸と食事からエネルギーを生み出すシステムを備えた化学工場。それが生物とよばれるものです。その工場の最大の目的は、自己の複製を生み出し自己の生命を維持する事に他なりません。そういったシステムが未熟な生物も、過去存在していましたが当然淘汰(滅ぼ)されたわけです。人間のように高度な知性を持ち、複雑な体の構造をもち、長寿でなかなか死なない生物が存在する事はあまりにも当たり前すぎます。逆に繁殖力もなく、生きる意思も力もない生物がもし地球上に存在していたら、私は神の存在を信じたでしょう。

ここわずか50年足らずでウィルスがどんどん強力なり、従来のワクチンが効かなくなっていることを考えれば、時間がたてばたつほどより優秀で強力な種族が誕生していくのは理解できるはずです。

人間のように複雑で知性を持った生物が偶然誕生するなんて考えはナンセンス!?偶然ではありません。必然です。

生物はエネルギーの集まりに過ぎません。物質はエネルギーの別の姿です。どこから来たわけでもなく、そこにあったのです。宇宙のエネルギー総量は(現在最も信頼できる理論では)今も昔も未来も変わりません。地球も昔に比べて生物の分だけ重くなったりしていません。


<3.どこへ行くのか>

というわけで、人間ほか全ての生物、物質、エネルギーはどこにも行きません。

そんなわけで、「人はどこから来て、どこへ行くのか」という疑問を持つ人、クリスチャンに対して私は「なぜそんなに人間を中心に物事を考えてしまうの?」という疑問が湧いてくるわけであります。やはり、その手の疑問を考える際には、まず、「エネルギー」(ミクロの世界)というものが中心にくるべきです。「なぜクリスチャンは人を中心に考え、相対的なものの考え方ができないのだろう」なぜでしょうね?たまには、何てこともない素粒子を中心に考えてみるのもいいと思うんですけどね。

ん?ぜんぜん佐倉さんの批判にも聖書の間違いにも関係ない話にだったかな。


とても、おもしろいところに気がつかれたと思います。

「人はどこから来て、どこへ行くのか」というかれらの疑問は疑似疑問であって、ほんとうは、魂のようなものを始めから信じているわけです。そうでなければ、じろたさんのおっしゃるように、このような質問が成立しないわけですから。どうして、そのような疑似疑問をかれらが作りあげたのかといえば、おそらく、「魂の信仰はこのような人生の問題に解答を与えることができる素晴らしいものだ」、と自分に言い聞かせて納得するためだろう、と推察せざるを得ません。