こんにちは。HP再開されたようで、心から嬉しく思います。グラールと名乗っていたものですが、keitaに名前を変えさせて頂きます。いつまでも子供じみたハンドルネームを使うのも嫌なので・・・。

テロの被害はございませんか?知人が今、ボストンにおり、大変心配しています。自爆テロを敢行してしまうイスラム教原理主義者を目の当たりにするにつけ、良くも悪くも人間の『信じる力』の強さを思い知らされます。信仰によって自らの命を絶つこともできる人もいるのですから、僕が自分に都合の良い仮想世界を真実だと思い込むことをもって『信仰』と為していたことなど、屁でもなかった筈ですね(苦笑)

犠牲者の方には心よりご冥福を申し上げますが、反面、自爆したイスラム教原理主義信者にも一定の敬意を払わずにはおれません。イスラム教原理主義の教義(深くは知りませんが)には賛成できなくとも、それに命を賭けた人々を狂人扱いすることは僕にはできません。

僕はもう信仰を棄てました。佐倉さんの主張が、今は明快に理解できます。それまでの自分を支えていた信仰がただの思い込みであったことを認めるのは辛いですが、僕はそれを事実として受け入れなくてはなりません。このHPに集われている会員の方々のメッセージを拝読させて頂きました。信仰を嘗て持っていた人間の一人として会員さんの気持ちも痛いほど分かります。偉そうだけれど。ですから、幸福の科学を揶揄する気持ちにはなれませんし、感謝している部分も確かにあります。しかし、今後、幸福の科学が僕を回収することはないでしょう。『信仰を棄ててしまえばあっけないものです』とだけ、これを読まれているかもしれない会員の方にお伝えしておきます。反・幸福の科学的なものを拒絶するのは簡単ですが、それではいつまでも変わらないです。

自分の中には幸福の科学的ドグマも若干残っているかもしれません。ひょっとしたら、とんでもない道を歩いているのではないかとも、時々は思ってしまいます。しかしそれでも、僕は自分の選択が間違っていたとは思っていません。これを読まれている会員の方にお願いしたいのは、僕の『信仰を棄てる』という選択を、『悪魔の憑依によるもの』というカタチで理解しないで頂きたいのです。

僕なりに凄く悩みました。考えました。選択はその結果であって、あくまでも僕の主体的な判断です。それだけお伝えしたくて、メールしました。乱文ご容赦ください。

また、メールします。

keita

『信仰を棄ててしまえばあっけないものです』とだけ、これを読まれているかもしれ ない会員の方にお伝えしておきます。
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。