初めまして。「幸福の科学」で検索したらこのページがヒットしました。大変興味深く読ませていただきました。賛否両論ともにバランスよく掲載されているのがとてもいいと思います。

 私はこのたび幸福の科学を脱会した者です。検索したのも、脱会者の声が聞けるかもしれない、と思ったからです。今は脱会して本当によかったと思います。

 脱会者の一大学生さんのおっしゃるように、この教団はれっきとしたカルトです。大川・・・じゃなくて中川氏が書いた大量の本を読み込まされることにより、教義にのっとった考え方しかできなくなってしまうのです。一般の本を読んでいても、少しでも中川氏の本の内容と似通っているところがあると「これは神理知識によって書かれた本だから正しい」と考えて熱心に読む。教義と合致しないくだりがあると(たとえば、霊など存在しない、などといった内容)「これは間違っている」と簡単に決め付けてしまい、投げ出すか、あら探しをするかのどちらか、といった読書をしてしまうようになるのです。つまり、視野が狭くなり、独善的になってしまうのです。

 もっと恐ろしいことがあります。だんだんマインドコントロールが強くなっていくと、中川氏の著書以外の本を読んで感動した場合には、必死でその本の内容を教義とこじつけようとするようになってしまうのです。そして、うまいことこじつけると、会員たちから拍手喝采を受けるのです(具体例が後述してあります)。それにより、ますますいろいろなものを教義にこじつけようとするようになってしまうのです。そして、もっと多くのものをこじつけられるようにするために、より教義を熱心に学ぶようになる、という悪循環が発生するわけです。

 私が教義に疑問をもつようになったのも、この「こじつけが盛んに行われている」ということを知ってからでした。こんなことがあったのです。

 私は大学生なので「学生部」というセクションでの活動に参加することになっていました。そこでは週2回のペースで集会があります。その集会の内容とは、まず中川氏のビデオを見ます(彼ら(会員)は「語法話拝聴」と呼ぶ)。次に、5,6人ぐらいのグループに分かれて、話の内容についてあれこれ感想を述べ合います(もっとも、感想といっても結局は「大川先生素晴らしい!」という意味のことしかいえないから、感想もへったくれもない)。この、グループに分かれての話し合いが30分くらい続く。そして、各々のグループから一名ずつ代表を出して、その代表は感想をみんなの前で述べる。集会はこういう感じで行われるわけです。

 その集会の日、私はボーッとしていて、ろくにビデオを見ていませんでした。はっと気が付いたら、もうビデオは終わりでした。「やばい、ボーッとしていて聞いていませんでしたなんて言ったらどうなるか」とりあえず、グループ内で感想を述べる順番を最後に設定しました。そして、うろ覚えのビデオの内容とほかの人たちの話を聞いて「大体このようなことを言ったのだろう」と推測して、最近読んだ本(中川氏の本ではない。そのころはあまり読んでいなかった)の内容を、推測したビデオの内容と必死に「こじつけて」しゃべりまくりました。そうしたらそれがウケて、私は代表にされてしまいました。壇上で喋ってもウケが取れました。

 そのとき、ホッとしながらこう思ったのです。

 「私はただ単に、自分の読んだ本の内容やそれを読んで感じたことを教義に無理やりこじつけてしゃべっただけじゃないか。これは、言い方次第でどんなことでも真理になってしまうということではないのか。本当に真理というものがあるならば、私の話が単なるこじ付けで、ろくにビデオを見ていなかったのがすぐにばれてしまうはずではないのか(現に、その場には職員もいた)」

 それ以来、これはやはりデタラメ宗教なのではないのかと思い始めました。すると、ボロがボロボロたっぷり出てくること、出てくること。とてもこの教えが正しいなどとは信じられなくなりました。

 天文学的にも地質学的にもすごく変だし、でたらめな「予言」なんかをしているし(ノストラダムス系含む)、差別的なことを言っているし・・・

 差別発言にこのようなものがあります。

「ホモセクシュアルは異常といわざるを得ない」(『フランクリー・スピーキング』幸福の科学出版。以下同書)「女性管理職が会社をだめにする、女性とは補助的存在なのだから」「エイズはホモが流行ったために天上界が下した天罰だ」・・・

 こんな前近代的なことを真顔で言うのだからたまりません。女性や同性愛者を差別するのがどうして真理でしょう。恐ろしく時代錯誤的な発言だと言わざるを得ません。

 また、非常に独断的な教義として「唯物論から愛は生まれない」(『愛、無限』幸福の科学出版」というものがあります。霊の世界を信じないものは愛することができない、というのです。なんと偏狭な教義でしょう。「おまえは愛することのできない人間だ」などといわれたらたいていの人は傷つくでしょう。自分が人間として欠陥がある、人間失格だ、と断定されたようで。こう言ったうえで、「本当の愛を知っているのは霊的真実を知っている我々だけだ」と言う訳です。非常に傲慢だと思います。

 このように、正常な判断力を失わせ、不寛容に満ちているゆがんだ善悪の基準を押し付ける教団が、どうしてカルトでないといえるでしょう?危険でないはずがありません。

 前述したように、彼ら(会員)はこじつけも熱心に行っていました。

 よくこじつけのネタに使われていたのが、スマイルズ『自助論』(三笠書房,知的生き方文庫)でした。誤解の無いように言っておきますが、この本は本当に(一般常識に照らし合わせて)いい本です。それをこの会の教義では、「縁起の理法」(中川氏の言う意味での。本来の仏教の教えからどれだけ離れていることやら)と、この本の説く「自助努力の精神」をこじつけてしまいました。そして「この本が中村正直によって日本に紹介されて、それを読んだ志士たちが奮起し、明治維新をおこしたのだ」と言います。つまりはこう言いたい訳です、「世界史に例のない大革命、明治維新を起こしたすばらしい教えの基を大川隆法先生は説いておられるのだ」と。

 ほかにも、渡部昇一・上智大学教授の著訳書が格好の餌食にされていました。(『知的生活の方法(正・続)』(講談社現代新書)から「知的正直」という言葉を引っ張り出していました)中川氏が渡部教授のファンであることはよく知られていますから、当然といえば当然かもしれません(教授のほうはえらい迷惑でしょうが)。そのせいか教授の訳書である、米国の心理学者ダイアー博士の一連の著書(これも三笠書房,知的生き方文庫から出ている)の内容は、幸福の科学の教義と非常によく似ている。特に『小さな自分で一生を終わるな!』は「許す愛」などそっくりです(本当によく似てるんです、これが!)。もっとも出版年を見ると、中川氏が参考にしたのはこれではなく、『自分を創る』(後に、『もっと大きく、自分の人生!』と改題)(現在絶版?古本屋でも見つからず、私は未見。ほかの本の巻末の出版案内や訳者前書きより推定して、これではないかと思った)ではないかと思われます。

 普通の人は『自助論』や渡部教授の本を読んだら、「なーんだ、大川(中川)の言ってることって、この本のパクリじゃん」と思うものです。しかし、マインドコントロールにかかってしまった会員たちはそういう正常な判断ができなくなってしまうのです!教義によるとこれらの本は「天上界よりインスピレーションとして下されたメッセージ」ということにされてしまうのです。そして「すばらしい教えがどんどん地上に下されている。私も早くインスピレーションを受け取ることができるようにならなければ」といってますます教学に励むのです。そのインスピレーションとやらの内容が、教義と同じ意味合いを持つものだということはいうまでもありません。

 ご多分に漏れず私も、大学入学当初の不安な時期に勧誘されてしまった者です。おかげで一年半を無駄にしてしまった。しかし、悔やんでも時間が戻るわけではありませんから、後期からは心機一転して、納得のいく学生生活を送っていこうと思います。

 最後に、私は新入生たちに声を大にして言いたい。

「彼らはニコニコしていて親切そうに見えるが、絶対に友達にはなれない。宗教団体に入っても本当の友達は絶対に(いいですか、絶対ですよ)できない。彼らと腹を割って話すことなどできない。なぜならば、どんな話題でも教義にこじつけなければならなくなるから。教義にずれたことを言ってしまわないかとびくびくしながら会話しなければならなくなるから。楽しくおしゃべりなんて絶対にできないから。彼らはあなたが好きであなたと話をするのではない。あなたが教団に入ったから親切にかまいつけてやるだけなのだ。ウソのやさしさにだまされないで!」

 長くなって読みにくくなってしまいましたね…申し訳ありません。それではこのへんで失礼します。




もっと恐ろしいことがあります。だんだんマインドコントロールが強くなっていくと、中川氏の著書以外の本を読んで感動した場合には、必死でその本の内容を教義とこじつけようとするようになってしまうのです。そして、うまいことこじつけると、会員たちから拍手喝采を受けるのです。それにより、ますますいろいろなものを教義にこじつけようとするようになってしまうのです。そして、もっと多くのものをこじつけられるようにするために、より教義を熱心に学ぶようになる、という悪循環が発生するわけです。  私が教義に疑問をもつようになったのも、この「こじつけが盛んに行われている」ということを知ってからでした。

同じではありませんが、わたしの棄教の場合も、その転換となったのは、「自分たち信仰者は、真理、真理というけれど、実際にやっているのは、真実を知る努力ではなく、すでに真理として与えられているドグマを正当化することばかりではないか。しかも、そのドグマの内容は自分が本当に心から納得しているものばかりではない」、という反省でした。

信仰者になることによって、人はドグマの護教者に堕し、そのために、必然的に真理の探究者であることをやめざるをえないのだと思います。