佐倉さん、こんにちは。長い間、掲載のお知らせが来なかったので、もうご返事は頂けないものかと思っていましたが、久しぶりに佐倉さんのページを訪ねてみると、しっかり私の意見とそれに対する御返事が掲載されていたので、驚きました。早速、それに対する私の意見と反論を述べさせていただきたいと存じます。しかし、毎回毎回、段落わけまでして下さるほど丁寧に私の意見を読んだ上で、真摯にお答え下さって、本当に有り難いと思います。おかげで、私の方は数多くのことを学ばせていただいております。心より感謝いたします。


1.「仏」と「仏陀」の違い

佐倉さんは、「神」という言葉をどのように使っておられるのでしょうか。幸福の科学では、この神、あるいは仏というものに対し、複数の意味を持たせています。

第一には、神というものを、普通の人に比べて優れた心境にあり、一段と高い視野・認識を持っている霊存在という意味で、神という言葉を使っています。これを、高級霊ということもあります。より厳密には、六次元光明界の上段階以上の世界に住むことが出来る心境の持ち主のことを、神、あるいは、高級霊、または、光の天使という風に呼んでいます。第二には、仏陀として(ここでいう仏陀とは、ある特定の人の固有名詞ではありませんが)存在している、特別な霊存在という意味合いがあります。高級霊であれば、長年の転生輪廻におけるその人が積み重ねてきた努力によって、その境涯に達している、ということがあります。しかし、始めから人類を教え導く存在として創られた、教師役としての魂もあると言われています。それが、私たちが九次元宇宙界と呼んでいる世界に住んでおられる方々で、現時点において10人おられるとなっています。教師役ですから、あらかじめ違う能力と役割を与えられているということです。その意味では、われわれ一般人は、その程度の差はあろうと、生徒ですから、生徒と先生の間には、すぐには埋めがたい決定的な差というものがあります。決定的な差とは、例えば、時間的空間的認識力の差などです。それは、その「教師役」の魂、つまり私たちが、「仏陀」とお呼びしている霊存在が地上に降りられ、肉体を持たれたときにも、現れます。今現時点において、この九次元世界の最も高いところに住んでおられる、エル・カンターレという魂が地上に肉体を持たれ、大川隆法という名で教えを説いておられる、ということ。これを、私が受け入れているということは、大川総裁は私に及びもつかない認識力を仏より与えられ、それにより仏の創られた人間・世界などを十二分に把握し、その上でかく生きることが望ましいと教えて下さる偉大なる教師である、ということを受け入れている、ということになります。しかし、大川総裁は、現時点では肉体を持ち、その制約のなかで生きておられるために、本来の限りなく無限界に近い力を発揮することが出来ない。その関心領域にも、多少の限界はあるのではないかと私は推測しています。その細かい言動において、多少のミスもあり得る、と私は思っています。しかし、そのことは、大川総裁が偉大なる教師である、ということを否定するものではありません。なぜなら、大川総裁は仏より使わされた偉大なる教師ではあるが、仏そのものではないからです。大宇宙そのものを創られた仏そのものが地上に肉体を持たれて教えを説かれている、その人が大川総裁だ、ということとは、微妙に違うということをご理解いただけるでしょうか。

仏陀再誕の中の、佐倉さんが良く引用されている箇所の前に、

「・・・仏陀は仏陀として尊いのではない。仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、偉大なる大霊から授かっているがゆえに、尊いのである。」「・・・なぜならば、過去の世界における偉大な宗教を伝えた者は、すべて地上に降りたる覚者、悟りたる者、仏陀であるからだ。そのような立場の人を通さずしては、仏の声を、仏の思想を、仏の理想を、地上に伝えることはできなかったのである。」

があります。私が上に述べたことを裏付けるものです。さらに、315ページには、

「修行者たちよ、諸々の比丘、比丘尼たちよ。もし、そなたがたのなかに、信仰にて迷いがあるならば、静かに群を離れて、心穏やかになるを待て。その時を待て。決して、何も批判を口にしてはならない。静かに自らの心を平らかにして、過去の人生をふり返れ。そして、自分がどれほど多くの光を、多くの愛を、与えられてきたかということに感謝せよ。そのことに感謝せずして、みだりに疑いをはさみ、みだりに人の心を迷わせてはならない。 」

とあります。「みだりに」という表現が、非常に大事であると思います。すなわち、ほんの少しの言葉の文みたいなものを捕まえて、その他のことを考慮せず、「こんな奴が神であるわけはないし、ましてやその声を伝える人間のハズもない。普通の人間に違いない。いや、気違いに違いない。」ということをいたずらに考えることを、「みだりに疑いをはさ」むと言い、それをいたずらに喧伝し、「幸福の科学はインチキ宗教だ」と決めつけ周りの人に奇妙な偏見をうえつけていくことをもって、「みだりに人の心を迷わせ」ると言っているわけです。しかし、何故だろう、という疑問は当然誰しもが持つし、それに対し自分が納得出来る理由を探求することを否定されているわけではありません。そういった意味では、私でも、幸福の科学の教えのなかで、理解できない部分というのは、まだまだ数多くあり、そのことに対して目を背け、ただ信じるということで強引に自分を納得させるようなことはしません。しかし、理解できないことがあるから、大川総裁が偉大なる教師であるということ自体をいたずらに疑うことは慎んでいます。さらに、精進を続けていこうと思い、謙虚に努力を続けます。

大川総裁そのものを疑うことが出来ない、ということをもって、「幸福の科学では思想的自由がない」「心が監禁状態に置かれている」というような趣旨の発言をされるのかと思うのですが(違ったら訂正して下さい)、それはもう、「信仰」そのものに対する真っ向からの否定ですので、幸福の科学が信仰を前提にしている宗教であり、私がその信者である以上、どうしようもありません。この点に関し、これ以上の議論を言葉で交わすのは不可能かと考えます。

仏陀再誕の302ページに、

「すなわち、信仰の根本は、優れたる者への帰依の姿勢であり、智慧ある者への帰依の姿勢であり、力ある者、光ある者、叡知ある者、また愛ある者への、帰依の姿勢であると言ってもよい。それは、物事を与え与えられ、物事を指導される時に、どうしても必要な姿勢であるのだ。」

とあります。幸福の科学における信仰とは、このようなものです。上には上がある、ということを受け入れ、無限の向上の可能性を受け入れていることでもあります。しかし、その次にありますように、

「高級霊と言われる人びとと地上の人間との差は、それは大きい。象と蟻ほどの違いもあろうか」

ということです。つまり、蟻は象のほんの足元を見て、「これは違う」と言うことができるけれども、その全体像が見えていないため、その批判が的を得たものとなることは極めて難しいということです。これは、私と大川総裁との差においても言えることです。

永遠の仏陀という本の、39ページから、

「そして、法を説く仏陀への、帰依と信仰の姿勢を忘れてはならない。

 帰依とは、教えを受けるために、弟子としての道を確立することだ。弟子としての態度を確立することだ。師に対する態度を示し、弟子の道を行ずることだ。これを帰依という。 そして、信仰とは、師より流れ出してくる仏法真理の大河を敬い、その法を恭しく受け、究極なる仏に対して、誓いを立てることをいう。仏弟子として、仏法真理の縁に触れて、生まれ変わったならば、必ずや、その報恩のために生きるということを。」

というくだりがあります。幸福の科学においては、「仏」という言葉と、「仏陀」という言葉に明確な違いを置いています。私たちが「仏」という場合、それは大宇宙を創りたもうた根源におられる存在を指しているのに対し、「仏陀」という言葉は、地上において悟りを開き、仏の心を伝えておられる存在、すなわち大川総裁のことを言います。佐倉さんは、「仏」も「仏陀」もともに大川総裁その人のことを意味していると考えておられるがゆえに多生の混乱があるように私には感じられました。大川総裁は偉大なる教師であり、私たち生徒に対し、教え、すなわち、仏の心、仏の子としてのの人間のありかたなどをお教え下さっているということが、私たちの大川総裁に対する帰依ということの認識です。そして、その師に対し、その教えを受けるために一定の精神態度を確立すること、礼儀を正すこと、これが求められていることです。大川総裁は、私たちの遥か先に立ち、私たち後進のものを指導して下さっている、というのが私たちの認識です。従って、そのまた先に究極の仏というものがおられる、ということも同時に受け入れています。大川総裁は、人類にとって偉大なる教師であるが、究極、絶対にして、完璧なる存在であるとは言っていないのです。この微妙な違いを理解していただければ、私が言っていることにも、それなりの一貫性があることを認めていただけることと思います。「無条件の信仰(盲目的服従)」と「師に対する礼儀」「弟子としての態度の確立」は、本質的に異なるものであるということです。


2.幸福の科学の教義における中道の見解

佐倉さんは、

「断見」世間および自己の断滅を主張して、因果の法則を認めず、またひとは一度死ねば断滅して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。

「常見」常住を主張する見解。断見の対。世界は常住不滅であるとともに、人は死んでも我(アートマン)が永久に不滅であると執着する誤った見解。

「中道」二つのものの対立を離れていること。断・常の二見・・・を離れた不偏にして中正なる道をいう。

という中村元さんの本の一部分を抜粋し、仏教の中道の考えを紹介して下さいました。私は、ここで言われていることが、すこしも幸福の科学の理論と矛盾しないことに気がつきました。それを、手短に述べていきたいと思います。

幸福の科学は、断見をしているかどうか。していません。「因果の法則」こそは、大宇宙を貫く理法であるとし、人間は、肉体の死を迎えるとともに、その肉体を脱ぎ捨て、霊界へと還る存在である、ということは幸福の科学の基本的な主張です。

幸福の科学は、常見をしているかどうか。していません。この世界は、生生流転の法則化にあるとともに、人間は転生輪廻をし続け、その中で、ある者は成長を続け、ある者は向上を止め、ある者は堕落し、そしてまた向上し、という具合で、変化を続けている存在であるとしているからです。人間も世界も「常」なるものとして見ていません。

「断・常の二見を離れ、不偏にして中正なる道」とは、人間は、この世とあの世を転生輪廻しつづけ、常に変転し、その変転の支配しているものは、縁起の理法である、という幸福の科学の見解をこそ言うのではないですか。霊魂などの存在そのものに対する言及を避けた、と解釈することは不可能ではありませんが、幸福の科学の見解の方がより深い洞察を感じさせるものであると思いますが。


3.地獄論

引用されている文章を、もう一度良くお読みになっていただきたいと思います。

「たとえ、九十九年の人生を信仰に生きても、最後の一年において、間違いたる唯物論者となって生きたならば、その者、必ずや地獄におちん。」

「間違いたる」とあります。また、それまで信仰に生きていたという前提つきです。それまで信仰に生きていたものが、晩年の一年において信仰を捨て、逆の信仰である、つまり目に見えるものが全てである、という「唯物論教」に陥ったとき、その人の心境は疑いに満ち始め、物事の表面的なもののみ、人間で言えば、その人の外面的・肉体的側面あるいは社会的地位のみがその人の真実であるとするようなものの見方に急速に変わっていくことでしょう。そうした、心境のものが死んで後、天国と呼ばれるような世界にに還ることはない、ということを言っています。唯物論者即地獄というのと、ちょっと違います。

それから、悟りの挑戦からの引用もあります。お寺の僧侶でありながら、仏教では魂を否定しているなどといい、それでも弔いは「遺族のためにやっている」などという人には、死んだ後に魂というものが存在している、ということを見るにつけ、愕然とし、自分がいかに間違った考えを持って生きていたか、それのみならずそれを多くの人に教えてきたか、ということを深く恥じ、自分の良心が許せなくて、天国に行くことが出来ないか、あるいは、死んだら自分というものはなくなる、ということを深く確信している場合、死んでも自分があるということがわからず、混乱状態に置かれることがあり、そうした混乱状態にある人が行く世界は、地獄の一部である、というような具合に、大川総裁がこうした僧侶達のことを、「地獄に行く可能性がかなり高い僧侶」とされていることの理由が、幸福の科学会員である私には推測されます。

唯物論であることそのものをとって、地獄に行くということを決めつけるような教えは幸福の科学には絶対にありません。人間が死後どういう世界に行くかを決める要素は様々にありますが、一言で言えば、その人の心の状態+その人に縁ある人の、その人に対する思いということになると思います。これが、基本原則であって、これから極端にはずれる教えが幸福の科学で説かれることは、まず考えられません。


4.GLAに対する幸福の科学の見解

大川総裁は、太陽の法、黄金の法、宗教選択の時代、などの書籍のなかで、GLAの教祖である、高橋信次という方の転生の過程を明かし、GLAは幸福の科学とは本質的に異なる宗教団体である、と明言されています。

また、幸福の科学においては、アラーの神、エホバの神として呼ばれているのは、同一の霊存在であるという認識を持っているため、善川顧問や、大川総裁がそのことに対して細かい気配りをされなかったとしても、やむを得ないかも知れません。

それから、幸福の科学の会員と一口に言っても、いろんな人がいるので難しいのですが、基本的に幸福の科学の会員になるような人というのは、その心の教えがいかなるものかというところに特に関心を持ってみているような方だと思うので、そうした人たちにとって(私も含めて)、細かい詳述が歴史上の事実とあっているかどうか、ということ自体はそれ程重要ではない、ということは言えると思います。

ちょっと本題とずれましたが、幸福の科学は、GLAとは、霊的立場においても、方針においても、異なるものである、と明言されているのだから、その主張を尊重すべきで、その主張を支えているものは何か、よく検討された上で、大胆な意見を述べていただきたいものだな、と思います。幸福の科学はGLAの派生である、という考え方も成り立ちうるからといって色々勘ぐりを入れ、幸福の科学の方でどのように主張しているかも良く検討せずに、その考え方を発表されるのは、少し控えた方がよいのではないでしょうか。

「GLAから派生した」という表現は、あなたがどのように考えていようが、GLAの弟子が一宗一派を起こした、ぐらいの意味で理解されます。そうではないのだから、その表現はやはりおかしいと思います。

もちろん、善川顧問も、大川総裁も、たくさんの本を読んでおられるわけですから、必然的にいろいろなものから影響を受けておられることになりますが、GLAの教えのみの影響を受けておられたわけではなく、大川総裁に至っては、太陽の法の最終章に納められている自伝的な部分の中にあるように、高橋信次さんの影響は微々たるものである、といえそうです。GLAから派生した、というのは、はっきりと、行き過ぎた表現であると考えます。また、少し長くなりましたが、私の反論と意見は以上にさせていただきます。

向 智志



(1)幸福の科学の中道の見解

「断・常の二見を離れ、不偏にして中正なる道」とは、人間は、この世とあの世を転生輪廻しつづけ、常に変転し、その変転の支配しているものは、縁起の理法である、という幸福の科学の見解をこそ言うのではないですか。霊魂などの存在そのものに対する言及を避けた、と解釈することは不可能ではありませんが、幸福の科学の見解の方がより深い洞察を感じさせるものであると思いますが。・・・
「断見・常見」の概念の歴史的事実をただひとり調べて真実を知ろうとするより、すでに信じているドグマ、自分が所属している教団の教義の護教を試みる -- わたしもかつてはそうでしたが、信仰者が必然的に陥ってしまう蟻地獄のような悪習です。努力すればするほど、努力が成功すればするほど、そこから脱出できなくなる。

「断・常の二見を離れ、不偏にして中正なる道」というのは、ブッダの教えを簡単にまとめた後代の言い方で、そのような定型句が生まれるようになった背景が前回も紹介したようなブッダの言葉として残されている資料です。その歴史的背景から切り離して、「断見・常見・中道」の言葉だけを取りだせば、いくらでも都合の良い勝手な意味付け(「より深い洞察」)をすることができますが、それでは本来の意味を損ねてしまいます。「断見・常見・中道」といった定型句を生んだ、そもそものブッダの言葉はどのようなものであったのかを無視して理解はできません。

・・・ヴァッチャヤは、霊魂と身体は同一であるか別であるか、人は死後にもなお存在するか存在しないか等について、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見もとらない旨を答えた

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典72,漢訳雑阿含経34,24、増谷訳『仏教の根本聖典』、241頁)

ある時、世尊は、サーヴァッティーの祇園精舎にあらわれた。その時、ひとり離れて瞑想静座していたマールンクヤ比丘は、心の中でかように思った。「世尊は、このような問題について説かず、捨て置きて、問えば答えることを拒む。すなわち、世界は常住であるか、無常であるか、世界は辺限りがあるか、辺限りがないか。霊魂と身体は同じであるか、別であるか。人は死後も存するか、存せぬか。このような問題について、世尊は、なにごとも説いてはくださらぬ。」

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典6,3 漢訳中阿含経221、増谷訳『仏教の根本聖典』、236〜237頁)

「滅びてしまったそのひとは存在しないのでしょうか? あるいは常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者様、どうかそれをわたしに説明してください。・・・」 師[ブッダ]は答えた。「ウバシーヴァよ、滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすが[根拠]が、かれに[関して]はない。」

(『スッタニパータ』1075〜6、中村訳『ブッダのことば』、226頁)

あきらかに、断見・常見の問題は、死後人間が生き残る(常見)か生き残らない(断見)かという問題であって、その問題にブッダは答えることを拒否したのです。このブッダの立場を後代の仏教徒は「中道」と呼んで、バラモン教などの宗教(常見)や唯物論(断見)と区別された仏教独自の立場を確立したのです。したがって、

仏教では霊魂の問題に深くかかずらおうとしはしなかった。霊魂が無い、と断言したわけではないが、霊魂というものが有るか無いかといことにかかわらずに、自分の死生観を確立しようとした。

(中村元、「死をいかに解するか?」『仏教思想 10 死』、平楽寺書店、24頁)

という解釈は原始仏教の立場を正しく反映していると思います。その逆に、「あの世のシステム、すべて解明」などといって、死後も魂が生き残ることを教える幸福の科学の教えは、原始仏教の中道思想に完全に反しているわけです。たった一人の誇大妄想家のデタラメかもしれないものに惑わされて、2千5百年もの長い年月を通じて伝えられてきた、世界思想史的にもユニークなブッダの中道思想を、向さんのようなまじめな人が、自分の目で調べないまま誤解するに至るのは、まったく悲劇としか言い様がありません。


(2)「六次元光明界」「九次元宇宙界」「エル・カンターレ」・・・

第一には、神というものを、普通の人に比べて優れた心境にあり、一段と高い視野・認識を持っている霊存在という意味で、神という言葉を使っています。これを、高級霊ということもあります。より厳密には、六次元光明界の上段階以上の世界に住むことが出来る心境の持ち主のことを、神、あるいは、高級霊、または、光の天使という風に呼んでいます。第二には、仏陀として(ここでいう仏陀とは、ある特定の人の固有名詞ではありませんが)存在している、特別な霊存在という意味合いがあります。高級霊であれば、長年の転生輪廻におけるその人が積み重ねてきた努力によって、その境涯に達している、ということがあります。しかし、始めから人類を教え導く存在として創られた、教師役としての魂もあると言われています。それが、私たちが九次元宇宙界と呼んでいる世界に住んでおられる方々で、現時点において10人おられるとなっています。・・・この九次元世界の最も高いところに住んでおられる、エル・カンターレという魂が地上に肉体を持たれ、大川隆法という名で教えを説いておられる・・・

ここに語られている事柄のように、人の認識の対象とならない事柄については、どんなデタラメをしゃべっても、間違っていることは証明できませんから、どんなにマンガじみたことであろうと、大川さんは何でも言いたい放題です。このようなことが語られるためには、「霊知」のような可能性もないこともないでしょうが、じつは、わずかばかりの空想力羞恥心の欠如さえあれば十分です。そしてその実例はわたしたちのまわりにうじゃうじゃするほどあります。(たとえば、最近いただいた「名無し」さんのお便り、や、昨年お便りをいただいた木下美穂さんのサイト「ノアの箱船」、等々。)

空想力があふれていても、羞恥心さえ備えていれば、人のエネルギーは、たとえば、芸術的創作として展開すると思われますが、幸福の科学やUFO信者やオウム真理教のように、「六次元光明界」だの「九次元宇宙界」だの「エル・カンターレ」だの「地球系霊団」だの「地球意識」だの「太陽意識」だの「火星人」だの「地底人」だの「多次元並平行宇宙パラレルワールド意識次第の世界」だのと、それらをまるで事実であるかのごとく語るはなはだ無節操な信仰というものは、羞恥心の欠如なくしては、けっしてありえないでしょう。


(3)偉大なる指導者

大川総裁は仏より使わされた偉大なる教師・・・大川総裁は、私たちの遥か先に立ち、私たち後進のものを指導して下さっている・・・大川総裁が偉大なる教師であるということ自体をいたずらに疑うことは慎んでいます・・・
わたしたちにもっとも必用でないもの -- それが、疑うことや批判することを許されない「偉大なる指導者」だとわたしは思います。そのことが人類や民族の歴史からわたしたちが学んだ貴重なレッスンのひとつではないでしょうか。

存在するものは、空言を弄する指導者と、職域感を失った人間機械なのだ。己の職業に、ただ一筋に年季を入れる根気、喜び、その為の条件はことごとく消えて、人間はまったく浮き草のような状態におかれている。自己の職域が、果たして死所なりや否やは、むろんむずかしい問題だ。迷いは大きいであろう。職業という限定は一つの諦念なのか、妄想なのか。適材適所などというのも虚妄の言葉に過ぎまい。それにしても、自己を定着せしめ、そこで熟練への熱意を起こさせるような条件は消滅したのだ。

ところが指導者は、この深刻な不安を道徳的饒舌をもって埋めようとした。「精神主義」の名において。必要なのは熟練工・専門家であって、断じて指導者ではない。この最も不生産的なるものが、戦局が切迫してくるにつれて狂的性質を帯びていったのである。

すべて悲壮なる身振りは警戒を要する。指導者の熱狂ぶりと、それに感染した群衆の熱狂状態ほどおそるべきはない。国体信仰におけるファシズムに、これが明瞭に現れていたであろう。自分こそ最も信仰深き者であるかのごとく振舞い、その尺度に至らざるものは悉く国賊と罵る。つねに民衆を監視し、遅れたものとして之を啓蒙してやろうと身構えている。ここに最も恐るべき「宗教世界」が現出したのである。

(亀井勝一郎『わが精神の遍歴』より)

幸福の科学のやっていることに関して、わたしが注目せざるをえないことは、向さんのようなまじめな人々をして、「人類の偉大なる教師」大川さんを信じさせ、この「偉大なる教師」を疑うことも批判するもができないように仕込んでしまうところです。大川さん自身の教えでもその意図は明らかであり、向さんやその他の信者の方々からのおたよりもそれを裏付けています。この問題は、決して軽視すべきことではないと思っています。

事実(たとえば仏教に関する事実)を一切調べなくても、ただ「仏が遣わした人類の偉大なる教師」がそう言うからというだけで、事実に関するトンデモない断定を平気で信じ込むことのできる人間たちを作りだす --- そんな幸福の科学とはいったい何なのか。

「空言を弄する指導者」と「それに感染した群衆の熱狂状態」、そして「つねに民衆を監視し、遅れたものとして之を啓蒙してやろうと身構えている・・・最も恐るべき『宗教世界』」 が誕生したのでしょうか。そうでないことを望みますが、ますます、そのように見えてきます。


(4)GLAと幸福の科学

「GLAから派生した」という表現は、あなたがどのように考えていようが、GLAの弟子が一宗一派を起こした、ぐらいの意味で理解されます。そうではないのだから、その表現はやはりおかしいと思います。・・・高橋信次さんの影響は微々たるものである・・・
「GLAから派生した」という表現が、お気に召さなければ、「GLA系統」と言い換えても構いません。要するに、幸福の科学の教えのほとんどすべては、そのルーツをGLA(および、生長の家、生長の家のルーツである大本教)など日本の新興宗教に見出すことができること(そして仏教的要素はあとからつけ加えられたものであるため仏教との折り合いが悪いこと)をわたしは示唆したかったわけです。つまり、大川さんの教えのネタは霊界ではなくこれらの日本の新興宗教であるということです。

前回も述べましたが、何と言っても、幸福の科学の教えから伝統的仏教の教えを差し引いたものと高橋信次の教えから伝統的仏教の教えを差し引いたものがほぼ一致している事実は、どうしても否定できません。 繰り返してもういちど例を挙げますと、霊界中心主義(霊界が「実在界」とよばれ、この世は仮の世)、霊魂中心主義(永遠に存続する魂が人間の本質で、肉体は魂が着ているもので、死後肉体を離れて魂が生存し続ける)、霊界の構造(何次元の高低の世界、大宇宙大神霊、守護・指導霊、魂の兄弟、世界の宗教家たち、イエスやマホメットや孔子など、みんなはそのなかに含有させて済ましている)、神と仏を一緒にする(「神仏」という奇妙な概念を使用する。)、現代人を過去の偉人の生まれ変わりだと主張する(矢内原忠雄はペテロの生まれ変わり、など)、般若心経の「空」の解釈で、根底には何らかの微細な粒子・エネルギーがあるのだとする説、ユートピア主義、世界は神によって創造されたという説、人間は「神の子」であるという説、教祖を霊界の大指導者霊が地上に姿を取って現れた「主」として崇める信仰、等々。切りがありません。

仏教とは無縁のこれらの幸福の科学の教えはGLAの教えでもあり、その多くはまた生長の家の教え(大川さんの父親である善川さんはGLAと関わる前は生長の家の信者であり、GLAの高橋信次も生長の家の講師だった(?)わけですから当然ですが)でもあり、そのまた多くは、大本教(生長の家はここから派生した)の教えでもあり、ついでにいえば、金光教(大本教の開祖、出口なおはもともと金光教の信者でした)の教えまでさかのぼれます。 わたしが言ってもあまり信用していただけないようですから、御自分でお調べください。もちろん同一ということではありませんが、幸福の科学の基本的教義のルーツはGLA生長の家大本教金光教にあります。そして、幸福の科学の教えが仏教と折り合わない歴史的理由(有魂説その他の数多くの非仏教的教えのルーツ)がここにあります。