佐倉:もし、幸福の科学の信者の方が大川さんに対して「思想的奴隷」でなければ、当然、 膨大な量に上る大川さんの教えのなかには、「どう考えてもこれは間違っている」と か「確認は出来ないが、かなりあやしい」といったふうに、否定的に判断する部分も あるはずです。いままで大川さんの教えを学ばれてきて、Nさんご自身が、「どう 考えてもこれは間違っている」とか「確認は出来ないが、かなりあやしい」と判断さ れている大川さんの教えのいくつかを例に挙げて戴けたら、わたしの判断は間違って いることがあきらかになります。わたしはわたしの判断(独裁主義・思想的奴隷)が 間違っていることを望むものです。

N:これはもしかして「踏み絵」を踏め!と言っているのですか? 幸福の科学は方針に問題が出ればすぐ修正する体質ですので、長期的には問題は解決 されていきます。今後もそうだと思いますので、心配はしていません。 まさか、仏神は特別な存在だから間違えることなど絶対にないと思われているのでは ないでしょうね。そちらのほうが心配です。 些細なことで、総合的な見解を損なうつもりはありません。 死ぬまで確認できないことなら、事実は肯定も否定もできないというのはお分かりで しょう。文献との正誤なら関心はありませんので、何も言えることはありません。 私は幸福の科学に期待、希望を持っています。 教えの本質の内容なら、着眼点次第で発想は広がりますし、それはヒントを蓄積して いるという感じでしょうか。それを応用していて矛盾をみつけるのは大変難しいので す。人生の解決策集というところですから。 自助努力が必要だということくらいです。御利益信仰ではありませんので。数年間を 反省してみる習慣も必要ですし。人がみな善人にみえるという傾向もありますね。そ のぶん、冷静に人を観察できるようになる工夫が必要です。

佐倉:どうやら、わたしの判断が当たってしまったようです。

私は

仏神が私たちへ示す愛はどんな愛か、誰かの意見と比較することなく自分で自分に問 いかけ、自分の役割は何か、諸宗教とは関係なく自分で考えることが最初にすること です。 ひとりの人間として。

と言いました。

私は自分で考えているし、あなたも自分で考えてみませんかといっているのです。

それでどうしてその結論に至るのですか。

「教えが膨大な量に上る」からといって、質として否定的見解となるとは限りません。 量が多ければ間違いも多いだろうとは、単なる推論であって、根拠にはなりません。

まるで論理になっていません。

つまり、「肯定しかしないじゃないか」これだけでしょう。言いたいことは。

内容の是非を言っているのではないのでしょう。 私が「こうした根拠で肯定していますよ」と言っても、「検証もするのですよ」と 言っても、「気に入らない」とどこかで言うことを強制しているのです。

それを「踏み絵か?」と問うているのです。

それでどうしてその結論に至るのですか。
わたしは、「Nさんが自分で考えているかどうか」を、お尋ねしたのではありません。どんな独裁主義集団であっても、人間が自分で考えることができないようにすることなど不可能です。独裁主義の顕著な特徴の一つは、むしろ、権力者の方針や意見や思想に対して、公に異見や批判や疑問を自由に述べることができないところにあります。

そもそも、わたしが、幸福の科学は独裁主義集団ではないか、と疑い始めたのは、なんども繰り返しますが、大川さんのつぎのような「教え」を読んだときからです。

もし、地上にある仏陀[わたし、大川隆法]の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀[わたし、大川隆法]はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀[わたし、大川隆法]である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀[わたし、大川隆法]を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・

地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人[わたし、大川隆法]が地上に降りてゆく時には、その者[わたし、大川隆法]の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀[わたし、大川隆法]の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏[わたし、大川隆法]はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

もちろん、教祖様がどんなにその絶対的権威を主張しても、その信者が必ずしもそれにしたがっているわけではないでしょう。それゆえ、これを読んだだけでは幸福の科学が実際に独裁主義集団であるかどうかはわかりません。もしかしたら、現実は自由(大川さんの教えや方針に対して公に自由に反対意見を述べることができる)なのかもしれません。

わたしの質問は自由な人間なら誰にでも答えられるきわめて単純なものです。それに答えるのを「踏み絵」と感じられたことから、幸福の科学における自由の規制があきらかになったのです。つまり「わたしの判断が当たってしまった」のです。