佐倉さん、今日は。今回も、信仰者としての立場から、主に前回の私へのご返答に対する 反論を中心に、意見を述べたいと思います。

1.私が大川総裁を信頼する理由

始めに言っておかなくてはならないのは、私には大川総裁が仏陀の生まれ変わりであるか どうかということは分からない、ということです。私には、それを自分自身で認識するほ どの能力がないため、その事実を客観的な事実として理解することは出来ないし、他人に もそれを示すことは出来ません。大川総裁が仏陀の生まれ変わりであるかどうかという問 題は、少なくとも私にとっては「大川総裁がそう仰るならばそうなのだろう」という程度 の問題にしか過ぎません。従って、私は自分の直感の赴くままに、「この曲はベートーベ ンの曲」「この曲はバッハの曲」などということはしていません。私が自分の直感を頼り にしているのは、「大川総裁は信頼に足る方である」という最後の一点のみであって、 「大川総裁こそが仏陀の生まれ変わりである」ということに対する判断は、私の直感に依 っているわけではありません。それは、私の認識を遥かに越えているから、私には結論的 には分からない。ただ、大川総裁が、自分はそれなり、と仰るならば、それを信じていま す。

大川総裁がそれ程信頼に足る方であると私が思うその理由は、まさにその説いておられる 内容そのものにあります。あなたは、どなたかへの御返事のなかで、幸福の科学の問題点 として「幸福至上主義」というものを挙げておられたと思いますが、私にはこれが問題で ある理由がよく分かりません。

人間はやはり「幸せ」になりたいのではないか。やはり、 人間を本当の意味で幸福にするものであれば、宗教であろうとそれ以外のものであろうと、 その存在は「是」とされるのではないだろうか。私はそのように思います。そして、幸福 の科学の教えは、人間の在り方というものを深く、且つ多方面から分析した上で、幸福に 至るためには如何にすべきか、というその方法論を提示しています。そして、その教えを 信じ、実践に移すことで、確かに自分は以前より遥かに幸福感が強くなったのを感じてお ります。

大川総裁の御講演テープも幾度となく拝聴したが、そこからはやはり誠実で慈悲 あふれるお人柄がにじみ出ていると感じるし、「人を自分の意のままに操ってやる」など という態度は微塵も感じられません。さらに、私は幸福の科学で様々な人と出会ったし、 「ザ・伝道」というような小冊子も読んでいるが、そこにあるのは、やはり本当の幸福と いうものをつかんだ、という深い喜びに満たされている人の姿であったと思います。ここ で、「大川総裁の教えは素晴らしい、何故ならこれは人を幸福にするからだ」という私の 「直感」が働き、「大川総裁は素晴らしいお方である」という、これまた「直感」による 判断をなし、そして「大川総裁は信頼に足る」という結論に至ったわけです。

モーツァル トの音楽が素晴らしい、という「直感」から、モーツァルトの音楽は素晴らしい、という 結論に至り、それが、モーツァルトはすごい人だ、という結論にもつながるということと 同じ事であって、私の直感はそれ以上の働き(この音楽は素晴らしいから、これはモーツ ァルトの音楽に違いないなどという決めつけ)をすることが出来ません。私は大川総裁を 信頼しているのであって、大川総裁が仏陀の生まれ変わりなのかどうか私にはとうてい判 断できかねることだが、大川総裁がそう仰るならばそれを信じるという立場を貫いている ということです。

麻原さんや文鮮明さんは、かれらのやっていることを見ても信頼できま せん。しかし、大川総裁や、幸福の科学は、その教えの内容や、その言動を見ても信頼で きます。その判断は、直感的なものであるが、それ以上に適切な判断は出来ないだろうと 思います。霊言集のなかの歴史の年代が多少ずれているかどうかなどで、あるいは些細な 表面上の言葉遣いの不正確さなどで、私は判断できないと思います。それにはおそらく何 かの事情があるのだろうと考えます。しかし、その内容がどういうものなのか、というこ とは私にも判断がつきます。私の、大川総裁や幸福の科学に対する判断は、こういったも のであり、佐倉さんの方法とは違う方法を使っている、ということです。


2.大川総裁が独裁者であるという見解に対して

もし、幸福の科学が、サリンをまいて人殺しを始めたり、常識的に見て明らかに異常であ ると思われる修行を信者に押しつけたり、献金を強要したりすることがあれば、私は即座 にそれを批判するでしょう。もし、大川総裁が、それらのことを直接言い始めたり、人間 としてちょっと異常で許されないような行為を常時されているとしたら、私は、幸福の科 学における信仰を放棄することでしょう。幸福の科学では、「常識的判断」というものを ある程度大切にしています。

また、各人の心の中にある「仏性(良心)」の存在を明確に 肯定しています。そして、幸福の科学の教えは仏から直接流れ出してきているものである から、自分の内にある「仏性(良心)」と呼応し、相容れないものとならないはずです。 従って、私たち信者にも充分に考える余地が残されている、いや逆に、盲信的であること が許されない宗教であると思います。自分の「仏性(良心)」を発掘していくことで、よ り正確に物事に判断をつけ、行動していくことが、ある意味では悟りへの道と言えるかも 知れません。幸福の科学では、悟りを求めることは、自分自身が仏そのものに近づいてい くことであり、また、それこそが人生の目的である、と教えられているのだから、自分で 考えるということを放棄してしまってはそれが果たせるはずもないと思います。

しかしな がら、それらの大前提として、仏に対する信仰がり、その仏の意志を伝えておられるとい う大川総裁に対する信仰があり、また、自分自身もその仏の一部であるという教えに対す る信仰があります。私は、信仰というものは一つの方法論だと思います。大川総裁は色々 な霊界の姿を含めた現実をみられて、人々は自由のままに好き勝手に放って置かれたとき に、間違うことが本当に多い、とつくづく感じられて、それでやむなく信仰という方法論 を採られたのだと思います。もし人間が、自由なままに生きてそしてまっすぐ成長し何の 間違いも犯さないのであれば、信仰も宗教も必要ないことになるが、現実はそうではない、 という判断が大川総裁によってなされたのだから、私のような認識の低い者は、それに謙 虚に従うことにします。

その私の大川総裁に対する信頼は上にも述べたとおり自分の判断 に依っているのだから、これは盲目的な判断ではないと思います。佐倉さんが幸福の科学 を批判されるときにいつも引用される「仏陀再誕」の中の文章は、人々を間違わせまいと する慈悲の心から出てきたものであると感じるし、それが単なる独裁的支配欲から出てき たようなものではないことは、この本のその他の教えを読んでも明らかなのではないでし ょうか。信仰の大切さを説く教祖をことごとく「独裁者」と決めつけるのであれば、全て の信仰による宗教は、独裁者とそれに支配される者達である、ということになってしまし ます。

要は、その信仰が教祖の独裁的支配欲から信者に対して要求されているものなのか どうか、また、信者に自分の良心に照らして考える余地があるのかどうかが、その宗教が どういうものなのかを分ける鍵なのではないかと私は考えています。また、私は確かに大 川総裁を信頼しているが、大川総裁がある一定の事柄に対して善悪を提示されるとき、私 は、それを吟味し、そして納得するというプロセスを必ず経ることにしています。そうし なければ、理解したとは言えないからです。したがって、何が善であり何が悪であるかを、 全て大川総裁の判断に任せているわけではないと言うことは言えると思います。

幸福の科 学においてある事柄に対してそれは悪であるとする場合、それは必ず説明を伴うことにな っているし、それが不十分な場合、それはまだ現時点で結論が出ないことということにな ります。幸福の科学においては、信者各人が考え自分で納得した上で行動に移すことは非 常に大切である、とされているように私は思っています。そして、大川総裁のお教えは、 その考えるための最良の材料であると言えます。例えば、「霊界がある」「霊界とはこう いう構造になっている」というような教えは、私が善悪の問題を考えるときに、最も重要 視する材料の一つになっています。しかし、この材料は他のものと違い、自分でそのこと を確認できない性質であるため、信仰という事が必要になります。

そもそも「霊界がある かないかそんなことは私には分からない」といっていては、確かにそれは考えるための材 料としては不的確であるが、私は大川総裁を信頼しているため、大川総裁が「霊界とはこ のようになっている」と仰れば、それは特に善悪の問題を考えるための重要な材料となり ます。幸福の科学では脳死者からの臓器移植に反対していますが、それは脳死者が霊的に 見てどのような状態であるのかという総裁からのご教示がまずあって、それを踏まえた上 で、「こういうことになるから、やめておいた方がよいのではないか」という、考えが出 てくる。信者である私たちは、「なるほど、そういうことなら確かに止めた方がよい」と 納得し、それを自分の意見としても発言し、そして行動に転化することも出来るのであっ て、大川総裁が「臓器移植は止めろ」指示されたからそれにただひたすら従うというよう なことは無いと思います。幸福の科学では、このように、信者にも、考える余地、そして 他の人とも議論する余地がしっかりあるのであって、「盲目的」とか「独裁者による支配」 というような見解は当たっていないと思う。


3.「(6)大川さんの間違い」「(7)結論」に対する反論

霊示集は大川総裁ではなくあの世におられる高級霊の方々が大川総裁の口を通して語られ ている内容です。そして、高級霊であろうと低級霊であろうと、人格を持った霊であって、 その語る言葉の端々にまで完全に誤謬がないとは限りません。また、高級霊は、相手にあ わせて「対機説法」をされるので、例えば、一般の日本人が12月25日はイエスキリス トが生まれた日であるということを通念として持っていて、さらに話をしておられる高級 霊ご自身に、その通念を訂正する、という関心がそれ程無い場合に、方便としてそれを言 われる可能性もあります。いずれにしよ、幸福の科学においては、神々と言われるような 高級霊の方々であっても、肉体を持ち地上に生まれたことがある人格霊であり、個性を持 ち、関心の領域も霊によって異なり、神々の間でも意見の対立があり得る、ということが 明らかにされています。多少の誤謬があろうと、それが真実でないことの証明にはなりま せん。 次に、「結論」の中で佐倉さんは

(ア)まず、大川さんは神(エル・カンターレ)が肉体を持って地上に現れた現人神であ り、モーゼやイエスやムハンマドやブッダを始めとして霊界の人々や神々や菩薩と自由に 交信することができる −−− と仮に想定してみます。

(イ)そうだとすると、大川さんは、霊界の事柄においてだけでなく、歴史的事実につい ても、間違ったりしないはずである。

(ウ)しかるに、調べてみると、キリスト教やイスラム教や仏教の歴史について大川さん は誤謬をおかしておられる。つまり、(イ)は事実ではない。

(エ)ということは、(イ)を導出したもともとの仮説(ア)が真実ではないことを意味 する。

[(オ)は省略します。]

(カ)よって、大川さんはうそつきであるか、あるいは、自分が神(エル・カンターレ) が肉体を持って地上に現れた現人神であり、モーゼやイエスやムハンマドやブッダを始め として霊界の人々や神々や菩薩と自由に交信することができる、と思い込んでいるに過ぎ ない。

という図式を提示されています。私は、もっと単純で卑近な例を挙げて、この図式が成り 立ち得るかどうか検証したいと思います。まず、仮説を、私(向)はあるお店(g)でし ょっちゅう買い物をする(まあこれはほんとうのことですが(^^;)),としましょう。 これを(ア)とすると、上記の図の(イ)に相当するのは、例えば、「それならば、向は gの内装がどのようなものか適切に表現できるはずだ」あるいは「gの店員の中で一人ぐ らいは向のことを知っているはずだ」あるいは「向は、その日のgにおける全商品、とま ではいかなくても、少なくとも彼が買った商品の値段ぐらいは言えるはずだ」というとこ ろでしょうか

すると、(ウ)は(イ)の検証であるから、実際に、gの内装を私の表現 したものと比べてみる、あるいはgの店員のなかで一人でも私のことを知っているか確か める,そして私が買った商品の値段を言うことが出来るか確かめる、などの作業をします。 すると、意外なことに、私はgの内装描写を殆どすることが出来ないし、かろうじてした ものも、実際に行ってみると随分違っている。二つ目のものは、やってみないと分からな いが、私は身長が高く、外国人で目立つので、これはおそらく大丈夫でしょう。しかし、 その日に買った商品の値段を私は言うことが出来ない。私の描写能力、記憶力は完全では ないし、興味がどこに向いているかということも関わってくるからです。

しかし、こうい った要素を考慮せず、以上のことから「(イ)は事実ではない」となり、さらに「(エ) ということは、(イ)を導出したもともとの仮説(ア)が真実ではないことを意味する」 と上記の図式通りにやればなります。そして、(オ)は省略して、「(カ)よって向はう そつきであるか、あるいは、自分はしょっちゅうgで買い物をしている、と思い込んでい るに過ぎない」となる。問題は(イ)にあることは明らかです。「その店にしょっちゅう 通っているのならば、最低内装ぐらい描写できるはず」という思いこみが間違いを生んで いるのです。

こんな例えを使うのは申し訳ないが、「そうだとすると、大川さんは、霊界 の事柄においてだけでなく、歴史的事実についても、間違ったりしないはず」というご意 見は、上の例えのなかでの思いこみと本質的に全く同じものであると私には思えます。幸 福の科学の教えをよく学んでみると、霊界の神々であっても、地上の歴史的事実について 間違いをおかすことは、充分にあり得る、ということが分かります。高級霊になればなる ほど、地上で過去に起きた出来事などどうでもよくなっていくだろうということも分かる。 そのように、関心の領域が霊によって異なるという事、関心のない領域に関して間違うこ ともあり得るという事が、あなたの主張が成り立たないことの最大の根拠だと思います。 それは、大川総裁に関しても言えることであって、大川総裁は昔の講演会の質疑応答のな かで、ある一定の質問に対し「その分野に関して私はあまり興味がない。だから、正確な ことは言えないかも知れない」ということを言われることがある。

さらにいうと、霊言集 はもちろんのこと、大川総裁の御書籍の大部分は口述筆記によるものであるため、表現が 精密さを欠くことがあり得る、と言えます。故に、初期に出版された書籍はその口述筆記 の内容をそのまま活字にしてあるが、それらの細かい不正確な表現に対して後になって修 正が加えられることもあります。お挙げになっている「永遠の法」もその一つで、新刊で は「・・・モーセ以前にも、メソポタミア地方においては「ハムラビ法典」がありました」 となっていました。以上のように、背景事情というものが結構あるのであって、それを知 らずに、自分なりのあるものが真実であるための条件などを設定して、それでもって幸福 の科学の書籍を読んで、デタラメであると断定するのは間違っているのではないでしょう か。


4.仏教の文献学的探求の限度 私はなにも、過去の仏典を幾ら読んでも無駄だ、などと言おうと思っているわけではあり ません。しかし、例えばアートマンの問題にしても

・・・仏教はこの問題について「無記」(沈黙)の立場をとったので、結果として、仏教 は、takapさんのような立場の人も、私のような立場の者も、仏教思想史を見ればわかる ように、どちらの立場をも惹きつけることになっています。

などとされているが、この見解(仏教が霊魂の存在などに対して沈黙を守ったという考え) 自体既にあなたの主観的解釈であって、確かな真実かどうか未だに分からないはずです。 その、確かでないものを持ってきて、他のもの(幸福の科学の教え)を批判するというよ うなことが、どうして出来るのか。さらに、前の部分でも述べたことの続きになりますが、 仏陀ご自身が生前に残されたお教えと違った考え方を現在されているということも、私た ち人間の考えが時間を経て、あるいは違う環境に接して変わることがあるのと同じように、 あり得ることだ、ということも付け加えておきたいと思います。人間は霊界に還った後も、 色々な体験をし、その中で思考活動を続けるからです。それは、仏陀におかれても例外で はありません。従って、もし、過去仏陀が永遠の生命などに関する言及を避けられたのが 事実であっても、それが今現在仏陀がそれらのことに関する教えを説かれることをもって 「それは仏陀ではない」との批判を正当化するための充分な根拠には必ずしもなり得ない ということになります。


5.その他の疑問点 その他、佐倉さんのご返答のなかに、事実認識として、納得できないものがあるのでそれ に対して、質問をします。

1.「・・・永遠の魂を信じなければ地獄に行く、という大川さんの排他的な教え・・・

このような短絡思考は私の知る限り大川総裁の御書籍のなかのどこにも見あたらないし、 むしろ「「神と、神よ」と言う人が、必ずしも天国に入るわけではありません。また、阿 弥陀仏の名号を称えている人が、必ずしも極楽浄土に往生するわけでもありません。・・ ・しかし、私は、こういう無信仰ぶりを非難するわけではありません。間違った宗教に身 を投じて、家庭の幸福、財産、健康、心の尊厳を失ってゆくくらいならば、むしろ、正し き職業観を持って、立派に人生を歩んでゆくことこそが、人間として賢明な生き方だと言 えるのでないとか思っております。実際、科学者や経営者、あるいは、芸術家のなかには、 本人が心霊の世界に気づいていなくても、高級霊界に属する人たちも多いのです。」(黄 金の法p.56−57)「・・・したがって、自分は天国に還りたいと思うならば、笑顔 を絶やさず、素直な心で生き、多くの人々に好かれ、多くの人々を愛することができる人 物になればよいのです。」(釈迦の本心p.213)「ある人が天国的であるか地獄的で あるかは、主として心の状態に依存しています。地上の人間がいま「天国」に属している のか、それとも「地獄」に属しているのかは、第一段階としては、心の在り方によって決 まるのです。」(ザ・伝道24号)などの教えで説かれているように、「信じれば救われ る」の類の教えと明らかに一線を画しています。ところが佐倉さんは、幸福の科学の教え は「永遠の魂を信じなければ地獄に行く」というような教えである、と思われているよう ですが、何故でしょうか。

2.「・・・大川さんの宗教がもともと、魂とか霊界とかを教義の中心に置くGLAという 新興宗教から派生したものであって、仏教の教義はあとから付け加えられたものだからで しょう。

このようなあなたの見解は、前回から気になっていました。佐倉さんは、いったい何をど のようにして調べた結果、「幸福の科学がGLAから派生した」宗教であるという結論に至 ったのかお教えいただきたい。

ちょっと長くなりましたが、私の反論は以上です。



1.論理的推論 その二

問題は(イ)にあることは明らかです。
これはおっしゃる通りであり、わたしが予想していたご返事でもあります。「大川さんは現人神である」(ア)という仮説は否定されなければならない、というわたしの論述は、おっしゃる通り「神は間違わない」という -- 多くの宗教では大前提となっている主張 -- を前提にしています。

つまり、

(1)神は間違わない        〔大前提)
(2)大川さんは現人神である    〔ア:小前提)
(3)ゆえに、大川さんは間違わない 〔イ:結論)
となっていたわけです。ということは、「大川さんは間違わない」(イ)が否定されても、実は、「大川さんは現人神である」(ア)を否定する必然性はなく、むしろ、「神は間違わない」〔大前提)の方を否定してもよいわけです。もし、おっしゃるように、多くの他の宗教の教えと異なって、幸福の科学の教えの通り、「神も間違う」(大前提は間違っている)のなら、「大川さんは間違わない」(イ)ということは言えないわけで、向さんのお答えは正解です。

他の宗教(立場A)のように「神は間違わない」〔大前提)を堅持すれば、「大川さんは現人神である」という信仰が否定され、向さん(立場B)のように「大川さんは現人神である」という信仰を堅持しようとすれば、「神は間違わない」〔大前提)を否定しなければなりません。しかし、どちらの立場をとっても、大川さんの教えだからというだけでそれが真実であることにはならない、ということには変りはありません。

立場Aでは「大川さんは現人神である」という信仰が否定されるわけですからこれは当然です。立場Bでも「神も間違う」ことになるわけですから、神は人間と同じように無条件に信頼はできないことになり、「大川さんは現人神である」ということが事実であったとしても、それだけでは大川さんの言うことが信頼できることにはならない、ということになるからです。

そうすると、

仏陀[わたし、大川隆法]はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀[わたし、大川隆法]である。・・・そうした代理人[わたし、大川隆法]が地上に降りてゆく時には、その者[わたし、大川隆法]の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。・・・ 疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀[わたし、大川隆法]の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰は、百パーセントを求める。それは、仏[わたし、大川隆法]はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

という大川さんの主張には根拠がないことになります。神(仏)でさえ間違うという立場を取れば、大川さんがたとえ神(仏)であっても、人間に無条件の信仰を要求することはもう出来ないからです。


2.「断見」と「常見」の両極端を否定する仏教の中道

この見解(仏教が霊魂の存在などに対して沈黙を守ったという考え) 自体既にあなたの主観的解釈であって、確かな真実かどうか未だに分からないはずです。
もちろんいかなる解釈も絶対的なものではありませんが、わたしの勝手な解釈でもありません。霊界に関する主張(資料のまったくない純粋な主観、心の疼き、直感=無制限)と違って歴史に関するものには、それなりの外的根拠(資料)があり、それによってその解釈は制限されるからです。また、「仏教が霊魂の存在などに対して沈黙を守った」という歴史解釈は、その資料の研究による一般的な解釈であって、わたしの特殊な解釈ではありません。
すべての仏教修行者について言えることではないが、仏教では霊魂[アートマン]の問題に深くかかずらおうとしはしなかった。霊魂[アートマン]が無い、と断言したわけではないが、霊魂というものが有るか無いかといことにかかわらずに、自分の死生観を確立しようとした。

(中村元、「死をいかに解するか?」『仏教思想 10 死』、平楽寺書店、24頁)

どんな資料か。たくさんありますが、二三あげておきます。
・・・ヴァッチャヤは、霊魂と身体は同一であるか別であるか、人は死後にもなお存在するか存在しないか等について、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見もとらない旨を答えた

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典72,漢訳雑阿含経34,24、増谷訳『仏教の根本聖典』、241頁)

ある時、世尊は、サーヴァッティーの祇園精舎にあらわれた。その時、ひとり離れて瞑想静座していたマールンクヤ比丘は、心の中でかように思った。「世尊は、このような問題について説かず、捨て置きて、問えば答えることを拒む。すなわち、世界は常住であるか、無常であるか、世界は辺限りがあるか、辺限りがないか。霊魂と身体は同じであるか、別であるか。人は死後も存するか、存せぬか。このような問題について、世尊は、なにごとも説いてはくださらぬ。」

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典6,3 漢訳中阿含経221、増谷訳『仏教の根本聖典』、236〜237頁)

「滅びてしまったそのひとは存在しないのでしょうか? あるいは常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者様、どうかそれをわたしに説明してください。・・・」 師[ブッダ]は答えた。「ウバシーヴァよ、滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすが[根拠]が、かれに[関して]はない。」

(『スッタニパータ』1075〜6、中村訳『ブッダのことば』、226頁)

こうして、仏教は、死後人間が無と化するという考えを「断見」と呼び、人間が永遠に生きるという考えを「常見」と呼び、そのどちらもとらないことを、自らの立場として、それを「中道」と呼んだのです。
【断見】世間および自己の断滅を主張して、因果の法則を認めず、またひとは一度死ねば断滅して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。

【常見】常住を主張する見解。断見の対。世界は常住不滅であるとともに、人は死んでも我(アートマン)が永久に不滅であると執着する誤った見解。

【中道】二つのものの対立を離れていること。断・常の二見・・・を離れた不偏にして中正なる道をいう。

(中村元著、『仏教語大辞典』、東京書籍)

したがって、「仏教では霊魂[アートマン]の問題に深くかかずらおうとしはしなかった」という解釈には、それを根拠づける、それなりの客観的な(世界中の誰もが自分で手に取って調べてみることのできる)資料があるわけです。

「主観的」という批判は、むしろ、

ちなみに、釈迦と同じ霊能力を有している著者[わたし、大川隆法]にとっては、こんなこと[人間には永遠の魂があること]は自明の理であり、釈迦没後の仏教系学者たちの皮相な解釈やこの世的解釈に、ただただあきれるのみである。

(大川隆法、『釈迦の本心』、153頁)

という姿勢、あるいはそれを盲目的に信頼する姿勢にこそ、向けられるべきでありましょう。大川さんがその主張の根拠としておられる「釈迦と同じ霊能力」など、だれも調べることは出来ず、「主観的に」信じることしかできない代物だからです。

3.唯物論者と地獄

佐倉さんは、幸福の科学の教え は「永遠の魂を信じなければ地獄に行く」というような教えである、と思われているよう ですが、何故でしょうか。
大川さんがそのように語られているからです。
たとえ、九十九年の人生を信仰に生きても、最後の一年において、間違いたる唯物論者となって生きたならば、その者、必ずや地獄におちん。(大川隆法、『仏陀再誕』、317頁)

・・・このような難しい理論を釈迦は説いたわけですが、弟子達の理解が及ばず、そこまではわかりませんでした。「無我であるというから、死んだらなくなるのだろう」という程度のことしかわからない弟子が多くいたわけです。・・・これが悪いほうに流れていくと、「仏教は無我を説いているのだから、死んだら魂はなくなるのだ」と言う人が出てくるのです。今、お寺の僧侶に訊いても、半分ぐらいはそう答えます。・・・地獄に行く可能性がかなり高い僧侶です。

(大川隆法、『悟りの挑戦 上』、154〜155頁)

このように、大川さんは、唯物論者(魂否定論者)と地獄を結びつけておられます。

4.GLAと幸福の科学

いったい何をどのようにして調べた結果、「幸福の科学がGLAから派生した」宗教であるという結論に至ったのかお教えいただきたい。
「GLAから派生した」ではなくて、「GLAから派生した・・・ものだからでしょう」と言っていますように、わたしの推測です。このわたしの推測の根拠は次の二つです。

(1)幸福の科学の教えから伝統的仏教の教えを差し引いたものと高橋信次の教えから伝統的仏教の教えを差し引いたものがほぼ一致する。

いくつか例を挙げますと、霊界中心主義(霊界が「実在界」とよばれ、この世は仮の世)、霊魂中心主義(永遠に存続する魂が人間の本質で、肉体は魂が着ているもの)、霊界の構造(何次元の高低の世界、大宇宙大神霊、守護・指導霊、魂の兄弟、世界の宗教家たち、イエスやマホメットや孔子など、みんなはそのなかに含有させて済ましている)、神と仏を一緒にする(「神仏」という奇妙な概念を使用する)、現代人を過去の偉人の生まれ変わりだと主張する(矢内原忠雄はペテロの生まれ変わり、など)、般若心経の「空」の解釈で、根底には何らかの微細な粒子・エネルギーがあるのだとする説、ユートピア主義、世界は神によって創造されたという説、人間は「神の子」であるという説、教祖を霊界の大指導者霊が地上に姿を取って現れた「主」として崇める信仰、等々。切りがありません。


(2)大川さんの(?)善川三郎はGLAと関わっていた。

「霊言」シリーズの善川三郎ご自身の著作の「紹介」によると、善川三郎氏は

戦後は、谷口雅春氏の思想に感化される。昭和51年、GLAの高橋信次氏の「正法」の指導を受けて神理探求の内容を深める。56年ある日突如として日蓮聖人より霊示を受け、以来、ハイ・スピリット[高級霊]の霊指導をうけて・・・・。
とあります。まずここで、大川さんの父(?)善川三郎氏がGLAの高橋信次氏の影響の下にあったこが明らかにされています。そして、地上の人間が「高級霊の霊指導をうけて」宗教活動をする、などという善川さんの(仏教とは無縁の)考え方は、GLAの教えでもあり、現在の大川さんの教えでもあります。さらに、ここには善川さんは「56年ある日突如として日蓮聖人より霊示を受け」た、と書いてありますが、その56年(1981年)は、幸福の科学のの公式見解(たとえば『釈迦の本心』)によれば、大川さんが「大悟し・・・エル・カンターレであることを自覚された」年でもあります。つまり、善川氏と大川さん二人の関係は離れ離れの関係ではなく、宗教的に密接に関わっておられることがわかります。そのことは、「霊言」シリーズを読めば、さらに明らかになります。善川三郎氏と大川さんは、宗教活動を共にし、たとえば霊に関する宗教思想を共有されていることが、たとえば、つぎのようなやり取りに見えるからです。
(このイエス・キリストの霊訓(一)は、1982年1月1日、招霊の際の霊言録。霊声者・大川隆法、対話者・善川三郎)

「イエス・キリスト、出て来てください。イエス・キリスト出て来てください。イエス・キリスト、インマヌエル、インマヌエル、イエス出て来てください。」

(暫くの間、大川隆法のキリストの招霊の声が続く。)

イエス:はい・・・。
大川 :あなたの名前を。
イエス:イエス・キリスト・・・。
善川 :イエス様、本日はわざわざお招びたてして恐縮しております。
イエス:はい・・・、なんでしょう・・・。
善川 :まず、私たちの勉学のために、旧、新約聖書に記述されている事柄についてお伺いしたいと思います。・・・

(善川三郎、『イエス・キリストの霊言』、14〜15頁)

といった具合です。つまり、GLAの教えが、高橋信次(師)から善川三郎(弟子)へ伝えらた。その善川三郎〔父?)と大川隆法〔子?)は宗教思想・活動を共有している。

以上が、幸福の科学の中の非仏教的要素の原因を「GLAであろう」とわたしが推測する理由です。それらは(二人が親子関係であるかどうかの問題を別にすれば)すべてわたしが近所の幸福の科学の支部でお借りした出版物に書かれているものばかりです。

もう一つ相似点を付け加えておきますと、高橋信次も、大川さんと同じように、結構デタラメを平気で話しています。例をひとつあげておきましょう。昭和45年8月におこなわれた「生い立ちより神光会発足まで」という講演のテープのなかで、高橋信次は次のように述べています。

今から2000年前、イエスキリスト、ナザレの丘において、この神理を説いたときも、パウロ、ペテロ、・・?たち、13人の弟子たちが、イエスの近くに寄って、過去の言葉、過去の国の言葉を喋ったという事実。使徒行伝第2章に書かれているように、私たちにもこのような事実が起こったのであります。

(「高橋信次先生講演テープ」より)

高橋信次氏はここで、使徒行伝第2章の、五旬節に弟子達が異なる言葉を突然語り始めたという記述について語っているわけですが、それが「イエスキリスト」が、「ナザレの丘」で、「パウロ・・・たち、13人の弟子たち」に教えていたとき起こった、と言っています。しかし、聖書をみれば明らかなように、〔ア)そのときイエスはもう殺され復活し天にあげられた後であり(使徒行伝1:9)、〔イ)その場所はナザレではなくエルサレムであり(使徒行伝1:4)、〔エ)パウロは(キリスト教を迫害するパリサイ派に所属しており)まだ弟子になっていなかった(使徒行伝8:1)のです。

よくもこんなデタラメが平気で言えるものだと感心しますが、「GLAの高橋信次氏の「正法」の指導を受けて神理探求の内容を深め」た善川三郎氏もつぎのようなデタラメを平気で言っているのは、その師の影響でしょうか。

旧約聖書第一章の創世記に出てくるアラーの神・・・

(善川三郎、『イエス・キリストの霊言』、39頁)

ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書のいったいどこに、イスラム教の神である「アラーの神」が出てくるのか、わたしには不思議でなりませんが、不思議と思わない人もいるようです。善川三郎氏の息子(?)大川さんも次のように言っているからです。
旧約聖書のなかには、アラーという神があり、天と地を分け、さまざまなものをつくられたことになっています・・・

(大川隆法、『内村鑑三霊示集』、109頁)

親子(?)二代にわたって同じ間違いをするのは、単なる「口述筆記」における偶然の過ちであるというより、誤った教えが誰かからこの二人に伝えられたか、あるいは一方の思い込みが他方に伝えられ、二人は、その事実性を調べることもなく、事実であると信じ込んでしまったと考えるのがより自然でしょう。もしかしたら、事実を調べるよりも霊者(や「心の疼き」)を信じたがる幸福の科学の信者の顕著な傾向は、大川さん以前の時代(父?善川三郎やその師高橋信次・・・生長の家?)までさかのぼることが出来るかもしれません。

わたしが幸福の科学を「GLAからの派生」というのは、善川三郎氏を間に挟んだGLAと幸福の科学との関係(高橋信次氏と善川三郎氏の師弟関係と善川三郎氏と大川隆法氏の親子関係)を指しています。それは、大川さんの霊界や魂に関する教えの出所は、霊界の神々(これは検証できない)ではなく、GLAとのこのような関係(これはある程度検証できる)ではないか、という一つの提案でもあります。