盲目に教条主義になっているのとは根本的に違うのです。詳細を気に入るかどうかで評価しているのではありません。自分ならどうするかなのです。自分以上にやれる人がいればその人を評価している。その人の言うことを評価しているということなんです。

理想を語る者がたとえ自分ひとりとなったとしても、いつでも白紙からやり直せるだけの気概、決意が必要なのです。仲間がいるから仲間とやる。適材適所の指導者がいる。でもそれは一人ひとりの決意から出発しているのです。

理想を語るときに、「これは私は理想だと思うが、他の人は異論を唱えるかもしれない」などといちいち注釈をいれて説明していたら、「結局何が言いたいの?よけいなことはいらないから本筋を話してよ」と言われかねません。また、そう言われてきたので、では本筋を話しましょうとなっているのです。幸福の科学が示す理想はこれです。基準はこれです。とズバリ示す時期となっているのです。

人は役割を担ってその役割を全うすることができます。役割として求められること。その役割を果たす実力を備えること。役割を遂行すること。

・イイシラセの霊示からはじまる「神の使者」宣言
・「人を愛し、人を生かし、人を許せ」の教えの述懐
・世に出る決意
・指導者としての宣言
・信仰の大切さを説く

これは10年以上の年月をかけてされたものです。まずはじめに役割ありきなのです。役割が「主」であり、「エル・カンターレ」なのです。人間が「主」や「エル・カンターレ」なのではありません。

その人が理想を語り、役割を語り、それに対して共感したときに、「同じ役割を自分が担うこととなったら、どうしますか?」それでこその総裁であり、会員です。役割なのです。

役割は適材適所です。自分ができなければだれかがやる。だれかができなければ自分がやる。その役割は仏神の代理なのです。人間の代理ではないのです。

重要なのは団体や個人ではないのです。その役割を果たすことが重要であって、他は重要ではないのです。

そして、人としての生き方、発想の仕方が重要であって、幸福の科学は教条至上主義ではありません。経典と仏神のどちらが重要ですかと言われたら、仏神です。種々の宗教が事実誤認で争ったようなことは幸福の科学でやろうとは思いません。いちいち正誤表をつくるつもりもありません。そんなもの表明しても何も意味はないと思います。人生観なら話をします。

疑問と批判は違うのです。疑問は出ることはあるでしょう。幸福の科学の会員はその教えを実践して実践に値する内容かどうか、常に試みています。実践において満足しているからこそ、安心して勧めることができます。

愛の教えと神の愛。

これを始めにやらなくては、何を語っても意味はありません。

「たくさんの教えがあってどれを選んだらいいかわからない、 そうであるならば、躊躇することなく愛の教えを選べ」

愛の教えが最初であって、最後です。

理想を理解するときは、理解する決意が必要なのです。理解する気がない人は理解できません。ただそれだけのことです。

仏神が私たちへ示す愛はどんな愛か、 誰かの意見と比較することなく自分で自分に問いかけ、 自分の役割は何か

諸宗教とは関係なく自分で考えることが最初にすることです。 ひとりの人間として。


確認できない事柄に関しても、幸福の科学の信者は、判断を保留しないで、積極的に 肯定していることを述べられているのではありませんか。

梅本さんのいう「判断保留」とは、「大川さんの教えに関して確認できないものは肯定も否定もしない」という立場ではなく、「大川さんの教えに関して確認できないものは肯定はするが、否定はしない」という立場ではないのか、と疑っているのです。

もし、幸福の科学の信者の方が大川さんに対して「思想的奴隷」でなければ、当然、膨大な量に上る大川さんの教えのなかには、「どう考えてもこれは間違っている」とか「確認は出来ないが、かなりあやしい」といったふうに、否定的に判断する部分もあるはずです。いままで大川さんの教えを学ばれてきて、梅本さんご自身が、「どう考えてもこれは間違っている」とか「確認は出来ないが、かなりあやしい」と判断されている大川さんの教えのいくつかを例に挙げて戴けたら、わたしの判断は間違っていることがあきらかになります。わたしはわたしの判断(独裁主義・思想的奴隷)が間違っていることを望むものです。

これはもしかして「踏み絵」を踏め!と言っているのですか?

幸福の科学は方針に問題が出ればすぐ修正する体質ですので、長期的には問題は解決されていきます。今後もそうだと思いますので、心配はしていません。

まさか、仏神は特別な存在だから間違えることなど絶対にないと思われているのではないでしょうね。そちらのほうが心配です。

些細なことで、総合的な見解を損なうつもりはありません。

死ぬまで確認できないことなら、事実は肯定も否定もできないというのはお分かりでしょう。文献との正誤なら関心はありませんので、何も言えることはありません。

私は幸福の科学に期待、希望を持っています。

教えの本質の内容なら、着眼点次第で発想は広がりますし、それはヒントを蓄積しているという感じでしょうか。それを応用していて矛盾をみつけるのは大変難しいのです。人生の解決策集というところですから。

自助努力が必要だということくらいです。御利益信仰ではありませんので。数年間を反省してみる習慣も必要ですし。人がみな善人にみえるという傾向もありますね。そのぶん、冷静に人を観察できるようになる工夫が必要です。

どうやら、わたしの判断が当たってしまったようです。