こんにちは。 お忙しい中、サイトの更新ご苦労様です。今年もよろしく。

さて、いつもサイトを面白く拝見させていただいておりますが、憚りながら、一つ意見があります。こういうことをすると、佐倉さんのサイトが、掲示板化しかねないので、やめようと思ったのですが、やっぱり言わせて下さい。

それは、幸福の科学及びその会員の方々についてです。

私は、幸福の科学の方々が信仰を持っているということは否定しません。つまり、その信仰の内容について異議を唱えようとは毛頭思いません。彼等は彼等なりに人生の意義や、絶対者等について考えている、そのこと自体は尊重しようと思っています。

しかし、文書の中にどうしていいのか分からなくなるようなものがあるのも事実です。例えば、私はギリシャラテンの哲学の研究者を一応していますが、『ソクラテスの霊言』という本はとても困ってしまいます。細かいことを言えばきりがないですが、「ソクラテスの霊訓1」はよいとしても、「霊訓2」はもうぞっとするようなことがソクラテスの名の下に書かれていて、嫌悪感なしには読めないほどです。(「カントの霊訓」に至ってはどこがカントだ!と怒りを覚えずにいられないほどです)

最初私は、こういうものはいわゆるビッグネームを引っぱり出してきて、そのこと自体に陶酔しているだけのものだから、まじめに考えるものではない、と(残念ながら専門の研究者にもこういうタイプの方は少なくないです)思っていましたが、よく分からなくなってきました。ひょっとして、これが真のソクラテス・カント等だと本当に思っているのではないかと心配になってきました

というのは、貴サイトへの反応で「資料主義の限界」云々ということが言われたからです、というのは、実は私もほぼ同じことを会員の方に言われたことがあるのです、その時は、腹が立つと共に、悲しくなったものです。

というわけで、私が幸福の科学に疑問を抱くのは、会員の方々は「○○の霊言」の内容を本当に○○の思想等と思っているのかどうかということです。

私個人は「別に、こういう権威を借りるようなことをしなくても、「これは幸福の科学の思想です」でいいではないか」と思っています。また、別にビッグネームを引っぱり出して色々なさるのは結構ですが、「これが真の○○だ!学者等の言うことは間違いだ!奴らは何も分かってない!!」というようなことを言ったり、現実に研究者を馬鹿にするようなことはよしていただけたらと思っています。いや、それでも構いません、少なくとも、教団の文書以外のものも是非読んで欲しい、教団の教義とかだけなら構いませんが、「仏教」とかその他の歴史上のものの名を借りるのであれば、そういう手間をしないですますことはしないか、さもなくば余計なことは言わないかにしていただきたい、と思っています。

長々とすいません。



「ソクラテスの霊訓1」はよいとしても、「霊訓2」はもうぞっとするようなことがソクラテスの名の下に書かれていて、嫌悪感なしには読めないほどです。(「カントの霊訓」に至ってはどこがカントだ!と怒りを覚えずにいられないほどです)・・・

教団の教義とかだけなら構いませんが、「仏教」とかその他の歴史上のものの名を借りるのであれば、そういう手間をしないですますことはしないか、さもなくば余計なことは言わないかにしていただきたい、と思っています。

shin1さんのフラストレーションはよくわかります。歴史的事実の判断に、資料を参考にするのではなく、「直感」とか「心の疼き」とか「内側からの確信」などという怪しげなものから断言してしまうわけですから、とてもたまりません。苦労して資料を調べる必要などまったくなく、確信さえできればよいのですから、かれらにとって、こんな楽なことはありません。仏典(ソクラテス、聖書、等々)を一度も読んだことがなくてもブッダ(ソクラテス、聖書、等々)の教えを語ることができると思い込める事態がいかに深刻な問題を含んでいるか、とてもかれらに理解していただくことはできないだろうと思っています。

というのは、このような姿勢はかれらの思想の本質的部分から来ていると思われるからです。その一つが魂主義です。かれらにとって、人間の本質は魂であって肉体ではありません。多くの宗教がそのようなことは説きますが、幸福の科学の場合はその度合いが極端で、まるで魂だけが人間存在のすべてであり、魂から(あるいは霊界から)すべての物事を見るべきだ、という考えがあるようです。こういうドグマがあるために、かれらは、「直感」とか「心の疼き」とか「内側からの確信」などという怪しげなものを持ち出して、歴史的事実よりも、むしろ、内面的なもの(魂)の言うことに耳を傾けるのだと思います。

もう一つは、幸福主義です。これは、「幸福感覚が強くなったなら、その人にとって正しい教えであったということです」といった投稿に見られます。すなわち、真理か否かが、自分に幸福感を与えてくれるかどうかで決まるわけですから、主張が事実に基づいているかどうかは本質的な問題にならないわけです。

さらに、もう一つは、教祖主義です。幸福の科学によれば、真理の教えというものが高次元の霊界〔「神仏」)からくるのですが、それはかれらの教祖である大川さんを通してくるわけです。そこで大川さんの言ったことが真理になるわけです。大川さんの教えを読んでみたり、ここに寄せられる信者の皆さんのご意見を聞いていますと、どうやら、大川さんを1%たりとも疑ってはいけない、ということになっているようです。そうすると、やはり、事実がどうなっているかを調べるよりも、大川さんが何を教えているかを調べることが大切なわけです。

こうして、かれらの教えにしたがえば、客観的事実よりも直感を優先する、真実を知ることよりも幸福感を得ること優先し、そして何よりも教祖の言葉を優先することになります。こういうかれらの人生観が、shin1さんがここに述べられているような問題を生みだしているのだ、とわたしは分析しています。