(1) 人が論破された時の典型的パターンとは

ある人が討論していて、自分が論破された(間違っていた)ということを明確に納得した時に取り得る態度は、大別して次の2つしかありません。

1. 自分の間違いを素直に認め、自分の考えを修正する。
2. 自我に邪魔されて決して自分の間違いを認めようとしない。

1.の場合には、その方にはより以上の成長が待っています。しかし2.の場合には、自分の知識に対する執着があるため、苦しむのと同時に自分の成長が止ります。しかし普通の人はなかなかこの道理が分からないために、自ら進んでこの苦の中へと入っていってしまいます。そして2.の状態でありながらまだ話が終了していない場合には、次には絶対に負けを認めない戦略として自分の意見を正当化するために、次の3点の手段をとらざるを得なくなります。

1. 相手の意見の無視 反論できない相手の指摘や意見は、これを徹底的に無視する。
2. 自己主張 ともかく自分の主張したいことのみを次々と言い続ける。
3. 人格攻撃 話の筋とは関係のないことで相手のアラを探してそこを攻撃する。

以上の1.〜3.のコンセプトを簡単にまとめると、「本筋には触れずに、徹底したゲリラ戦術をとる」ということになります。しかしこれらの戦術は基本的に勝つための戦略ではないために、いずれ相手に見破られるという宿命を負っています。そして相手に見破られたらそれまでです。なぜなら同じことを続けることは、自らそのことを証明するだけになるからです。さて、今まで佐倉さんが選択されたパターンがどのようなものかは、勘の良い人であればもうここまででお分かりのことでしょう。これを簡単に例えて言うならば、次のようになります。

「私が佐倉さんに、りんごってこんなに美味しいのですよと美味しいりんごを持っていっても、何故か佐倉さんはそのりんごを食べようとはしません。その代わりに自分の裏庭に転がっている半分腐ったりんごばかりをいつも持ってきて、ほらりんごってこんなにまずいんですよ、と言うだけです。」

以上のことを前提として、私が今まで提出した指摘に対して、佐倉さんがどのような具体的な反応を示したのか、その佐倉さんの選択した行為を以下簡単にまとめてみます。

(2) 私の指摘に対する佐倉さんの反応

 私の前回の投稿にはたくさんの指摘がありました。それに対する佐倉さんの反応を以下検証してみます。

[本当の「因果関係と縁起関係の違い」とは?

釈迦の説いた縁起とはPがQの必要十分条件ではないから縁起ではないと論理学的に解釈するような性格のものではなく、もっと簡単で簡潔な真理を表していたと思います。12因縁の場合でも、…・逆観は全く証明されていないのです。]

[矛盾の原因1. 佐倉さんによる逆観部分の公式の誤り  逆観の公式「もしPでなければ、Qでない」は、正しくは「PがなければQがない」とすべきなのです。]

[矛盾の原因2. 縁起の定義付け「順・逆観の証明が必要」の間違い  本当は釈迦の縁起の思想というのは、順・逆観が証明されないと成立しないというような哲学的なものではなく、順・逆観の「因果関係」を単純に説明しただけのことではないかと思います。・・・だから仏典を見る限り、佐倉さんのいうように、「仏典に残されている縁起の思想はこのように、かならず、順観と逆観のペアで成り立ってい」るわけではないことが分かります。]------これらの大切な問題提起には、初めから何の返答もありません。

[矛盾の原因3. 例文は縁起ではなく、実は「因果関係」の説明  佐倉さんが勘違いした最大の点が、仏典の縁起の例として出されている「これがある故に、これがある。・・・・これが滅する故に、これが滅する」という文を、先入観で縁起の文だと思っていたことです。しかしこの内容を如実観察すると、どう見ても因果の説明です。理由は簡単で、因と果はあるが「縁」がありません。だから縁起縁起というけれど、釈迦は簡単な因果の法(順逆)を説明していたのです。]

------この問題提起には、一応「縁起と因果の違い」というそれらしいものがありましたが、これについては後述します。また佐倉さんの縁起論の最大の根拠を確認するために、 

[ひょっとすると佐倉さんのいうように釈迦は「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立つ」とどこかで定義したのかもしれません。・・釈迦がどこでそのような縁起の定義付けをしていたのか教えていただけませんか。]

-----という根本的な質問にもやはり何の返答もありませんでした。おまけにここで私は二回も「釈迦」と念を押しておいたのですが、佐倉さんは故意か知らずにか釈迦の代わりにナーガールジュナの縁起論を載せていました。ということは、佐倉さんの縁起とは、やはり釈迦の縁起とは違っていたということになります。そしてもし後世の弟子たちの意見を根拠として良いならば、佐倉さんが原始仏典の釈迦の言葉に今までこだわって研究しているという意義そのものを再度疑う必要が出てくるのではないでしょうか。また

[653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いを熟知している。  註 縁起・・・因果関係のこと。道徳的な因果関係、すなわち善因善果、悪因悪果という関係を意味するのであろう。『ブッダのことば(中村元訳 岩波文庫)』より、以下同]

 ----「縁起とは、行為と報い」という仏典の記述を受けて始まる(A)仏典による検証として、

[上記653では「かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いを熟知している。」とありますので、その縁起が意味する内容を見てみると、続けてこうあります。654 〜人々は行為によって成り立つ。…・このように、縁起を見るとは「行いによってバラモンとなることを理解すること」です。・・・だからこの条件に合致した行為のできる人(果)を見ると法を実践している人であり、バラモン(正しい宗教者)(因)と判断できるというのが釈迦の結論です。]

-----行為からその人が判断できるという仏典に書かれている具体的縁起の証明に関しても、何の返答もありません。また

[それにしてもこれらの縁起関係の記述には、佐倉さんによれば「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立」っているはずの逆観が示されていませんが、逆観はどこに雲隠れしたのでしょうか。]

------矛盾の2で「仏典に残されている縁起の思想はこのように、かならず、順観と逆観のペアで成り立ってい」るわけではないことが分かります、と問題提起した部分をここで再度載せても、またまた佐倉さんは何も答えることができません。

[788 人がまったく清らかになるのは見解による。 註 見解・・・宗教や哲学の「教義」を意味する。789 煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。・・・このように仏典を検討してみると、やはり釈迦の結論も、「実を見ると・・・」というイエスの言葉と同じでした。・・・やはり釈迦・イエス・孔子は、同じように「行為を見て思想を判断」しており、実践の大切さを説かれていたのですね。]

 -----という仏典を検討した内容もやっぱりしっかりと無視されています。しかし何故か反論として、ここでの話の本筋とは全然関係のないニーチェが突然現われるというしかけです。しかし仏教の因果の話をしているのに「神は死んでいる」という無神論者を反論材料として持ってくるのは、どう見てもルール違反ではないですか??!!??。でも真理と道徳は別だと主張されている佐倉さんでも、哲学(しかも無神論)と宗教(仏教)だけは何故か同じ土俵に見えるのかもしれませんね?!!?。でも参考までに佐倉さんの同類であるニーチェは、実は「論文を書く際のこのような基本的な誤謬のために、分別ある人々はニーチェの哲学や無神論をまともに取り上げようとはしない」(哲学がわかる!p302知的生き方文庫/三笠書房)らしいですね。そして神と離れることで自分の存在意義が分からなくなったのでしょう、ニーチェは無神論者(ニヒリズム)のなれの果てとして発狂し精神病院に送られてしまいました。佐倉さんもこうならないように気をつけた方がよいのでは…。次に

[(B)佐倉さんの言う「縁起関係」での検証  1 <原因としての>正しい宗教(P)がある故に、<結果としての>行為(Q)ができる。<だから> 2 <原因としての>正しい宗教(P)が滅する故に、<結果としての>行為(Q)が滅する」] 

 -----この問題を<だから>ではなく<かつ>だと言葉の問題にされていますが、これについても後述します。次に

[(3)(4)「道徳(善悪)と認識(真偽)とは無関係」は、神理とは無関係 もし真理と道徳が別ならば、道徳は真理ではないことになりますが、それでは道徳は非真理(ウソ?)なのか、それとも真理と並列関係の何者かなのか、それとも全く別の次元のものなのか、]

 -------という道徳と真理との関係にも答えはありません。何なのか是非教えてください。

[もし佐倉さんの言う真理の定義が正しければ、私(神理の実践)と同じように仏典も真理の使い方を誤っていることになります、が、果たしてそうでしょうか?・・・この理由は佐倉さんの真理の定義があまりにも狭過ぎ、真理を矮小なものに閉じ込めてしまっていることにあります。]

 -----という重大な問題に対する答えもやっぱりありません。是非お聞かせください。

[四諦とは目には見えないが四つの真理です。…釈迦の説かれた法も真理です。そしてイエスや孔子や老子等の偉人が説かれた教えや思想も、すべて神理です。・・・この理念が様々な分野で具現化することでいろいろな学問の形をとります。・・・そして真理にも段階があります。・・・認識のレベルが最高の神の目(認識)には表面的な真偽・善悪・美醜を超えて(縁起・中道)、・・・すべてが神理であり、この宇宙は神理・法則・道理だけが自己展開しているように見えるのではないかと推測してしまいます。このようにすべての背後には真理があるため、道徳・宗教的善悪も学問的真偽も芸術的美醜も、真理の観点から本来は共通の価値判断が可能です。] 

[ある理念が、同時代に真理を求める人たちに現れた具体例を以下見てみましょう。p.283の註 144 足ることを知り・・・・老子の理想に一致するものがあったからであろう。・・・。日本でも古来理想とされてきた。・・・これはまたストアの哲人のめざす人生の理想でもあった。・・・p.285 ・・原始仏教、老子、ストアの哲人たちによって、古代のほぼ同時代・・・・に説かれたことは興味深い。]

[274 理法にかなった行い、清らかな行い、これが最上の宝であるという。註 すわわち、身、口、意の善行であると解したわけである。これは世俗的な善行であると解する。ここだけダンマパダ183  すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、…これが諸の仏の教えである。(中村元訳、岩波文庫)これが有名な七仏通誡偈]

 ------せっかく仏典からも上のように具体的例証まで出して真理と宗教等とが同じ価値判断できることを実証しても、日頃「実証主義」を掲げているはずの佐倉さんは何故か一切検証することがありません。佐倉さん?これではあまりにもさみしいと自分で感じませんか?しかしどうやらその理由は、私を「新たな新興宗教だ、偶像崇拝だ」と決めつけたところにあるようです。それにしても佐倉さんの言葉を借りると、「批判する相手が主張してもいない立場を勝手に想定して、それを批判するのはさぞ容易いことでしょう」・・・とでもなるのでしょうか。しかしご期待に添えずに申し訳ありませんが、私は別に「新たな新興宗教」の信者でも何でもありません。私がどのような「偶像」を崇拝しているのか、是非具体的にご指摘していただけますか。また私がいつどこで「キリスト教も仏教もなにもかも一緒くた」にしたのか、是非具体的にご指摘願えますか?またついでに余力がありましたら、「幸福の科学やオウム真理教も統一教会もキリスト教と仏教を一緒くたにしてい」ると信じ込んでいるようですので、是非一つでもよいので具体的にその「一緒くたにしている教義」を示していただけますか?

 しかしせっかくですから、佐倉さんがいかに検証もせずに簡単に人を決め付けてしまうのかという点を明らかにすることで、言ってることとやってることが全然違っている(言行不一致)とはどういうものかという典型的な例を、佐倉さんをサンプルとして学習してみたいと思います。 佐倉さんの日頃の主張とは、縁起とは「Pならば、Qである」(かつ)「もしPでなければ、Qでない」である、だから逆観が証明されなければQだからPであるとは限らない。-----というものです。ではここにPに新たな新興宗教、Qに私の説を代入してみましょう。すると

1. 新たな新興宗教(P)である故に、私の説(Q)がある。
  <かつ> 
2. 新たな新興宗教(P)でなければ、私の説(Q)でない。
ということですから、逆観部分が成り立たないことが証明できれば、「QだからPであるとは限らない」つまり私の説だからといって新興宗教とは限らないとなります。では「新たな新興宗教(P)でなければ、私の説(Q)でない」かどうかは、新たな新興宗教以外に私と同じ様な内容の説があるかどうかを検証すればよいわけです。もし一つでも他にあれば逆観は成り立たず、従って私の説を見て新たな新興宗教と決め付けた佐倉さんは間違っていたことになります。では私の説と同類の思想を簡単に列挙します。

1. 生長の家 万教帰一、唯神実相哲学が根本教義。この世界は光のみ実在であり、闇は光の不在。すべては光が展開している世界である。----生長の家を「新たな新興宗教」と呼ぶ人はいないでしょう。

2. GLA すべての宗教の根本は、大宇宙の神とつながっている(同根である)。ブッダとモーセとイエスが大指導霊である。菩薩とは光の天使。----GLAを「新たな新興宗教」と呼ぶ人もいないでしょう。

3. ソクラテス 時間や場所によって変化しない絶対的な真・善・美という真の知識(エピステーメー)こそ人を幸福にする。永遠に変わらない絶対的価値は「自体的存在」である。----ソクラテスを「新たな新興宗教」と呼ぶ人もいないでしょう(・・・以下同じ繰り返し)。

4. プラトン 絶対的価値「自体的存在」がイディア。実在界のイディアの投影でこの世はできている。最も多くのイディアを見た人は哲学者となり、次は芸術家、以下王者、政治家、経済人となり、最低は暴君となる。

5. プロティノス 万物は絶対的一者(神)から流出し生まれた。だからすべては善であり、悪はない。

6. カント 人間に内在する良心、万人に共通の普遍的・先天的格律を道徳律という。理性とは個人の心に宿りながら個人を超えた精神存在、最大の知性を持った原理。

7. ヘーゲル 知のレベルによって、世界のあり方が変わって見える。世界を支配している理性を世界精神といい、世界精神が個人レベルでは主観的精神(人間学・心理学など)となり、社会的レベルでは客観的精神(法・道徳・倫理)となり、さらに上のレベルでは絶対的精神(芸術・宗教・哲学)となる。この絶対精神が自己展開しているものが世界の歴史である。

8. 西田幾太郎 宇宙にはただひとつの実在のみ存在する。これを神と名づける。精神の根底には不変的或者がある。一般的或者が人間を媒介として自己発展している。

9. 中村天風 思考が人生の一切を創る。現象界に存在する一切の物質は、宇宙本体のエネルギーから創られた。この宇宙エネルギーを「宇宙霊」と名付け、人々は天御中主神といい、如来と呼び、アラーという。つまり神仏と名付けた。

10. 日本神道 神とは、一神即多神即汎神。 吉田神道では「天地に在りては之を神と云ひ、万物に在りては之を霊と云ひ、人倫に在りては之を心と云ふ。心とは神なり」 天理教では「神の身体は、この世万物の一切となって現れている」

11. 仏教 山川草木国土(一切衆生)悉有仏性

 佐倉さんにかかると、例えばヘーゲルや中村天風なども「キリスト教も仏教もなにもかも一緒くたの新たな新興宗教」にされてしまいます。でも目に見えないものは認められない佐倉さんとは裏腹に、世界の偉大な哲学者は皆目に見えない世界の中にこそ本質を求め続け、その中に何らかの共通因子を発見してきたのですね。そして哲学のみならず宗教こそが、この目に見えない世界の本質を神や仏の名でするどく求めてきたのです。それから比較すると、目に見える部分のみですべてを推し量ろうとする佐倉さんらの唯物論者が、いかに偏狭で視野の狭い考えであるかがお分かりでしょう。でも佐倉さんがいくら「唯物論信仰」を持っていたとしても、「イワシの頭も・・・」というように、それは個人(信仰ではない)の自由だから構いませんが、しかし自由には責任が伴います。人に害を与える悪い信仰を持ったその責任は、やがて自分でとることになるでしょうから(縁起による自業自得)・・・。

 いずれにせよ、私の説が「新たな新興宗教」ではないことの証明はこれで十分でしょう。このように、「私に対する決めつけ」という具体的行為を見る限り、佐倉さんは人には厳密なことを求めるが、自分ではその内容が全く実践できていないということが判明しました。これが言ってることとやってることが全然違っている(言行不一致)ということの典型的な例です。

 また「神理」という言葉に過剰反応しているようですが、佐倉さんは自分の真理という言葉の矮小な扱いを指摘されても全く無視するのに、人が少しでも変わったことをすると思ったときには、鬼の首でも取ったように過剰反応するようですね。でも「神理」の意味を知れば誰でも納得できるはずです。古くは明治時代の神理教によって使われた言葉です。また最近では先のGLAの教祖、高橋信次氏によって使われていました。また一時期幸福の科学でも使用していました。小学館マルチメディア統合辞典には、「人知をこえてすぐれた道理。不測不可思議な道理。また、神の定めた道理」と載っています。神を信じる私にとっては「真=神」であり、真とは「(神の創られた)道理」を意味しています。だから「真理と神理」とは同じ「道理」を意味する同義語です。違いがあるとすれば、道理の成り立ちに神を認めるか否かの立場の違いがあるだけです。前回は佐倉さんに合わせて敢えてそのように使い分けていたつもりですが、違いが分かりましたか??

[(5)釈迦とイエスは否定された?・・・本当の否定とは、その人のすべての言動の基準となる価値観(世界観・人生観・宗教観など)の思想内容の間違いを証明され否定された場合・・・今だに釈迦とキリストの本質(教え)をきちんと否定できた人はいないのではないでしょうか。] ------これにも何も返答がありませんが、佐倉さんなら釈迦・キリストを否定できるのでしょうか。是非意見をお聞かせください。また、

[(6)「批判」の「本当の」公平さとは 等しく批判することは「平等」・・・どうでも良いところは捨てておき、影響の大きそうなところには力を入れる、これが本当の「公平さ」というものです。]

 ------どうも旗色が悪くなると直ぐに沈黙されるようですが、佐倉さんはどう考えますか。だって私がここまで力を入れているのですから、人ごとではないと思うのですが・・・・。

[補足説明 非真理(ウソ)が善行(幸福)に導く場合?? 佐倉さんの「ガンではないというウソが人を幸福にする」という場合には、・・・現実から一時逃避する一時しのぎの麻薬と同じです。・・・このような生への執着を助長するような「幸福」とは、釈迦が真っ先に否定した無明による渇愛そのものではありませんか。・・・この例から分かるように、一見このように「非真理(ウソ)が幸福に導く」ように見える場合とは、すべて真理とは正反対の無明の観点(有我の立場)から幸福を見てしまった場合です。だから、最終的には本当の意味では「非真理(ウソ)が幸福に導く」ことはありえません。] ------ここなどは仏教を勉強する上では、避けては通れないとても大切な部分だと思いますが、なぜ佐倉さんは触れずに沈黙するのでしょうか。他の質問には答えなくても構いませんが、ここだけは佐倉さんはどう考えているのか答えてほしいですね。ここにこそ佐倉さんの「仏教」研究の姿勢が表われていると思います。

[<一番大切なこと> 前回の「時代によって価値が逆転する例(無明の立場)」も今回と同様でしたが、佐倉さんのこのような「理法に反した例を使ったり、また縁起をドグマ化するなどの具体的行為」を見ていると、佐倉さんは仏典をたくさん研究して空や無我などの高度な仏教理論を誰よりも「認識」しているはずなのに、なんだか釈迦の教えの一番基本的で大切な部分を理解されていないのではないかと不遜にも感じてしまいました。・・・いくら無我や空の理論(文字の並び方?)だけを「認識」しても、自分で教えを実践しなければ決して無我や空の意味を本当に知ることはできないということを自ら証明していることになってしまいます。]

 ------一つ上の質問とも関連していますが、実はここが佐倉さんの最大の問題点のはずです。しかしというかやっぱりこれも沈黙しています。しかし佐倉さんは仏教の核心に対して無関心でその本当の教えを身に付けていないと思われるのに、なぜわざわざ「無我と空」などを一生懸命に研究しているのでしょうか。・・・・ しかしこのような、答えることで自分を否定せざるを得ない質問に対しては、佐倉さんの自我がじゃまするために沈黙せざるを得ないと推測されます。だから私が何度もこう質問しても、きっと佐倉さんは返事をしてくれないことでしょう。では答えるのをいやがる佐倉さんの代わりに、私が後程(4で)その謎解きにチャレンジしてみましょう。そして最後の、

[また前回の私の主張(2)善悪は(真理)は普遍である、に対しての感想がありませんでしたが、佐倉さんはすべてに賛成できないとおっしゃっていますので、是非どのあたりが納得されないのかをまた教えていただければありがたいと思います。]

 ------に対しても、やっぱり何の返事もないことは予測できました。なぜなら上に書いてあるように「時代によって価値が逆転する例」とは無明の立場に他ならず、これに答えることは自ら仏教に対する無明を認めることになるからです。でも、無明の自覚をしないと、今のままでは永遠に四諦(苦・集・滅・道)を実践することができませんよ・・・・・。(でも佐倉さんはそれでも構 わないみたいですね・・)

 さて、これでようやく佐倉さんの反応の分析が終わりました。最初の「(1)人が論破された時の典型的パターンとは」と比較すると、結果は明らかです。しかしこれは何も私に対してだけではなく、前の佐倉さんの文を読むと、例えばtaka pさんや他の人に対する時も同様の反応をしていることが分かります。つまり「相手の言うことは聞かず、自分のことのみを主張する」・・・これは佐倉さんのもともとの性格だったのかもしれません。だから佐倉さんはそもそも菩薩(そう勘違いした人もいた)であるはずもなく、また実証主義者でも何でもなかったのです。このように、具体的な行為を見ることで、その人の本来の思想内容の正邪が簡単に判別できるわけです。ではなぜ佐倉さんは無我を「研究」するのか、この謎は(4)で言及します。

(3) 「佐倉縁起説」の間違いを正す

[佐倉さんのいうように釈迦は「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立つ」とどこかで定義したのかもしれません。・・釈迦がどこでそのような縁起の定義付けをしていたのか教えていただけませんか。]

 ------という釈迦の説かれた縁起の根本に関わる私の質問(疑問)に対して、佐倉さんは見当違いの回答を寄せています。だから佐倉さん流の言い方を真似て、「私の文のどこでナーガールジュナの縁起を聞きたいと言っているのでしょうか」と再度同じ質問をしても良いのですが、時間の無駄でありまたついでですのでおまけとして「佐倉流縁起論」の誤りを簡単に指摘しておきます。

佐倉流「縁起と因果」の間違い

総論的疑問

そもそもこの「論文」自体の位置付けが「空の思想・ナーガールジュナの思想・第3章」となっていることでも分かるように、「縁起と因果」の文の本質とは、私への回答のふりをした佐倉さんの単なるお勉強発表会に過ぎないということです。だから先にも指摘したように、私の問題提起に対しての直接的な回答がどこにもないというのが根本的な問題点です。次にこの内容は、全体を通して一体何を主張したいのかが良く分かりません。敢えて好意的にまとめると以下のようになります。

 「縁起とは常に順観と逆観のペアで表現されるので、単なる因果ではない。そして順観と逆観の関係は必ず<かつ>でなければならない。ナーガールジュナは縁起を相依関係ととらえた。しかし初期仏教は縁起を相依関係とは意識していなかったかもしれない。しかしサーリプッタによると相依になる。中村氏は、ナーガールジュナは縁起の相依性を拡張解釈したという。しかしこれはナーガールジュナの文の分析をしていないからで、縁起とは順観と逆観のペアで語られているゆえに、すべて必然的に相依関係となる。ナーガールジュナが縁起・相依性で示したかったのは自性論批判であり、誤った縁起解釈(時間的成起)を批判してブッダの説いた縁起(無自性・空)に帰れと主張した。」・・・・となります。

 しかしここに書かれている佐倉さんの主旨(言いたいこと)をすんなり理解できる人が、果たしてどれほどいるでしょうか??ひょっとするとこれは私に対する「縁起と因果は同じではない」という回答かもしれません。しかし、そうであれば私は一度も「縁起と因果は同じだ」とは言っていないのに、変ですね。それはさておき、ナーガールジュナの解釈は別として、だから佐倉さんの結論は一体何なのでしょうか?素朴な質問を出させてもらいます。

1.「縁起は単なる因果ではない」のであれば、何なのでしょうか。「誤った縁起解釈(時間的成起)」とありますので、縁起と因果は無関係で、縁起とは「相依関係」だけを意味しているということでしょうか?

2.ブッダは時間的成起の縁起を説かずに、無自性・空の縁起だけを説いたというのでしょうか??

以上の根本的疑問を提起して、あとは個別に検討していきます。

各論の分析

(1)順観・逆観のペアの縁起

「縁起は常に順観・逆観のペアで表現されている」

 -----そうでない場合もあるという私の前回の指摘に答えられない限り、ここは無意味となります。

(2)順観と逆観の関係(だからではなくかつだ)

「順観と逆観の関係を<だから>で結ぶと、仏教の縁起思想は間違っていることになる」

 -------この文も意味がよく分かりませんが、ここでの例文(松坂と西武)などがなぜ成立しないかというと、ここの欄の話はすべて「結論(Y)が誤りとなる可能性がある場合には」ということを前提として話しているからに過ぎません。そもそも真理でもない(誤りとなる可能性がある)事例を結論として使い、だから結果は間違っていると言っても、それでは縁起が成り立たないのは当り前ではありませんか(かつ、に言い替えても同じです)。このようなやり方をマッチポンプと言い、自分で火をつけながら火の用心と口で言うようなものです。しかし前提の「結論(Y)が誤りとなる可能性がある場合には、誤りとなる」は、言葉を変えると「結論(Y)が真理である場合には、正しい」となりますので、どうせ例文を考えるなら、本当の真理(縁起)に該当するような例文を出してくれませんか。といっても佐倉さんはまた無視するかもしれないので、私が代わりに出しましよう。正しい真理「直立二本足歩行をするから人間(類人猿)である」を代入すると、(老人や赤ちゃんは・・、などという反論はやめましょうね)

前提(X) 直立二本足歩行をするから、人間(類人猿)である。
 <だから、かつ> 

結論(Y) 直立二本足歩行ををしないので、人間(類人猿)ではない。

 と正しい例文を当てはめると「だから」でもちゃんと成立します。これをナーガールジュナ流に言い替えても

前提(X) もし人間(類人猿)でなければ、直立二本足歩行をしない。
 <だから、かつ> 

結論(Y) もし直立二本足歩行をしなければ、人間(類人猿)ではない。・・とちゃんと成立します。

このように縁起が成り立たないのは「だから」という言葉の問題ではなく、そもそもの佐倉さんの例題の設定の仕方に問題があっただけのことです。このように「順観を理由に逆観を主張するような縁起は非真理となる」わけでは全くありません。

 でもそもそも「だから」でも良いことは、縁起を元にした四諦の理論を考えると始めから明らかなのですね。つまり「今苦しいのには(苦)原因がある(集)。 <だから> 苦しみを無くして幸せな状態に至ろう(滅)、そのために八正道を実践しよう(道)」という四諦の原理は、<だから>という縁起の考えによって支えられているのです。このように正しい縁起関係は「だから」でも「かつ」でも成立します。(実はあまりにも当然のことを言っているのですが…)

(3)因果関係と相依関係・(4)順観と逆観の縁起、相依性の縁起 ここはナーガールジュナの縁起論ですので、本筋とは無関係のために割愛します。

(5)結論

すべて他で指摘してあります。

このように「縁起と因果」と題した佐倉さんの私に対する回答(?)は、ほとんど(2)のみの、ささいな言葉の使い方(しかも間違ったもの)でしかなかったことが分かります。ご苦労様でした。

 せっかくですので、本来の縁起を簡単にまとめてみました。

 本当の縁起の意味とは

 釈迦の説かれた本当の縁起とは、以下のようなものではないでしょうか。 縁起とはすべての法(存在)の根底にある世界観(世界を成立させている道理)を表したものであり、すべての理法の基礎となっているものです。縁起の本質とは、すべてはお互いに関係し合って存在しているということ(無自性・依他起性)であり、大別すると1.時間的縁起と2.空間的縁起の2つから成り立ちます。

1. 時間的縁起 「諸行無常」のことです。時間を軸とした縁起関係であり、直接的には因果の法として表現されます。

2. 空間的縁起 「諸法無我」のことです。空間を軸とした縁起関係であり、直接的には(非我・空の思想)として表現されます。

 この時間と空間(すべての世界)の縁起関係を悟り、修行によって(因)、自分の執着を滅することで(縁)、涅槃の境地「涅槃寂静」に至ることができる(果)、というのが仏の教えの中心です。このように三宝印の根底も、ちゃんと縁起が支えている訳です。そして釈迦の縁起とは仏典を調べると明らかですが、「因・縁・果・報」で代表される1. 時間的縁起である「因果の法」が主体であったのです。

 このように縁起(空・非我)を知る目的はあくまでこのような世界を成り立たせている道理を知り、それを修行(実践)によって自分の身につけること(非我になること)にあります。だから「順・逆が証明されなければ縁起ではない」などとしてしまうと、それは縁起をドグマ化してしまい、釈迦の真意から大きくかけ離れてしまうことになります。仏教では、このような悟りと救済に結び付かない単なる思弁論を「戲論(けろん)」と呼んでいます。戲とは知識の遊戯、たわむれ、趣味の世界のことです。しかし釈迦の説かれた縁起とは、そのような複雑怪奇な世迷言ではありません。本来誰でも簡単に理解できるものであり、実践によって心の平安を得るためのものなのです。だから「毒矢の喩え」とは、このような「戲論(けろん)である佐倉流縁議論」に対してこそ適用すべき話なのです。しかしいつの世でも先生の説かれた分かりやすい法を、より複雑にして本来の意味を分からなくしてしまうのが後生の弟子たちの仕事なのですね。

(4) 佐倉さんが「無我・空」などを研究する理由

[<一番大切なこと> 佐倉さんのこのような「理法に反した例を使ったり、また縁起をドグマ化するなどの具体的行為」を見ていると、・・・なんだか釈迦の教えの一番基本的で大切な部分を理解されていないのではないかと不遜にも感じてしまいました。・・・いくら無我や空の理論(文字の並び方?)だけを「認識」しても、自分で教えを実践しなければ決して無我や空の意味を本当に知ることはできないということを自ら証明していることになってしまいます。]

 -----前回私が指摘したように、佐倉さんははっきり言って仏教の核の部分を全然理解されていません。その理由を簡単にまとめてみます。

1. 無明(理法を知らない) 有我の立場からの執着に囚われた価値判断をして、理法に反した例を使う。  <だから次に無明にとらわれた「行」が生じる>

2. 貪(むさぼる) 人には厳しく、自分にはとても甘い論理の運びで、言いたいことだけを言う。

3. 瞋(いかる) 気にさわるとすぐに立腹し、日頃の冷静さを見失い、ささいなミスを犯してしまう。

4. 痴(愚かさ) 言葉の遊びをしているだけで、理法が身についていない。

5. 慢(増上慢) 人の言うことを無視して、自分のことだけ主張する。

6. 疑(信仰を疑う) 神や仏などの大きな力が信じられない。宗教に対する異常な偏見が感じられる。

7. 悪見(理法を信じない) 理法を元に検証するのではなく、自分の信仰(信念)にこだわっている。 <この六大煩悩の「行」から「識」が生じる>

8. 邪見(正見の反対) よく確かめもせずに人を決め付ける。何事も如実観察する気(意識)がない。

 行為を見ると、その人の本質が分かります。だから普通に佐倉さんの行為を見ていると、上のような人間像が浮かんでくるのですが、これは果たして私だけの偏見でしょうか??

 さてここから先は、あまりにも少ない情報からの推論ですのでかなり危険かもしれませんが、これは私の勝手な推測であることをお断りしておきます。違っていたらごめんなさい。

 佐倉さんが今のようになった理由は、きっと6.の、「宗教に対する異常な偏見」ではないかと思います。きっと佐倉さんはかつてはまじめに宗教を学んでいたのではないか、しかし何らかの事情によってその宗教とトラブルが生じて離れることになった。しかし、その時のトラブルが自分の中では円満に解決されていないため、一生懸命だった分だけ反対に憎しみに近い感情として現われてしまい、トラウマとなっているのではないか、と推測します。だからtaka pさんなどがすでに指摘しているように、今は徹底的な唯物論者となっています。

 では、こうなった理由は別としても、何故「無我や空」などを「研究」しているのでしょうか。それは「無我の思想」とは、一歩間違えると唯物論となりやすい性質を持っているからです。そして佐倉さんのひかれている「無我」とは釈迦の説かれた非我ではなく、「唯物論としての無我」なのです。だから佐倉さんは仏教を勉強しているのではなく、自分の信念である唯物論(反宗教)を援護・補強する手段として「無我」を「研究」しているだけではないのでしょうか。その証拠は以下です。

佐倉さんが唯物論者(無神論者)である証拠

1. 釈迦はあの世などに関しては「無記」なのに、佐倉さんは「アートマンはない」という断見の立場です。

2. 無我の本当の意味が身についていない。無我を違う理由(あの世なし)で学んでいるということの証明。

3. 無神論者の二ーチェのファンです。信仰を毛嫌いするはずです。

4. 唯物論の増谷文雄(ひろさちや)のファンです。あの世はない、生存は無目的など、影響されている。

5. 目に見える物のみに真理を限定している。見える物は真理。見えないものは非真理となる。

6. 信仰の否定と宗教に対する異常なまでの偏見。…・これくらいでよろしいでしょうか?

でももし違うというのであれば、どうか自分の裏庭に転がっている半分腐ったりんごばかりをいつも持ち出してくるのではなく、少しは私の持ってきたりんごを食べてみてくださいね…・・。

(5) どうか、盲信者たちへの「活かす剣」へ

 最後に私は決して佐倉さんを非難しているわけではありません。それどころか、実は大いに期待しているのです。佐倉さんのするどい知性は私も認めるところであり、とても私には真似の出来ないものです。しかし知性を鋭い剣に例えると、佐倉さんの剣は人と自分をも殺してしまう「殺人剣」となろうとしています。知識は道具と同じです。使い方を誤ると自分をも傷つけることになります。その鋭い知性をどうか人と自分を活かす方向に、つまり「活人剣」とされることを願ってやみません。そしてその剣を活かす方向とは「宗教・信仰の世界」にあるのではないでしょうか。

 正しい信仰には、正しい知性が欠かせません。だから佐倉さんの鋭い知性を通して、その奥にある世の道理を見通す理性と、その道理が支配するこの世界と人々が存在する意義を見通すことの出来る悟性を、より輝かせることが出来るようになることを願ってやみません。そして信仰と言えば、ただやみくもに主体性を放棄して教祖と組織の言うことを鵜呑みにすることが信心深いことだと勘違いしている世の多くの「善良で素直な」盲信者の方たちに、その知性の光で彼らの蒙を啓いていただきたいと思います。

 神理の敵は、「唯物論と盲信」にあります。この両極端を離れたところに、永遠の中道である神理の世界が広がっています。一言で言うと「理性ある信仰」の世界です。しかし残念ながらこの神理の世界は、「招かれるものは多いが選ばれるものは少ない」(イエス)世界となっています。私の投稿が、この「理性ある信仰」を成就できるための、一服の薬となれれば幸いです。ありがとうございました。

神理の番人さんのご主張に、わたしが十分に応えないことについて、ご不満のようですが、前々回のおたよりでも、すでに指摘しましたように、あまりにも沢山のことが語られていて、しかも、番人さんの場合には、批判すべきこと(それも多いのですが)というよりむしろ、コメントする気にもなれない主張(「イエスや孔子や老子等の偉人が説かれた教えや思想も、すべて神理です」といった類いの主張)が、もう卒倒しそうなほど多くて、申し訳ないとは思うのですが、その全てにくわしくお応えするわけにはいかないのです。このような場合、わたしにできることは、おおまかな印象を述べるか、あるいは、問題のいくつか選択して取り上げてお応えするか、そのどちらかです。わたしは、「イエスや孔子や老子等の偉人が説かれた教えや思想も、すべて神理です」といった類いの主張にコメントするより、どちらかといえば、わたしの身の丈に合った、一つか二つの問題を深く切り下げる方を好みます。そこで、番人さんへの応答としては、本サイトに直接関連していること(縁起の思想)や、最初に提起された問題(行動と思想の関係)についてのみお応えしました。

「新興宗教云々・・・」というわたしの言及は、番人さんの書かれたことから、わたしが感じたおおまかな印象です。上記に述べたように、わたしが取り上げた二つの問題以外は、一つ一つ応えられないので、おおまかな印象を述べたのです。番人さんの「神理」なるものは、仏教でもないし(仏教は「神」を必要としない)、キリスト教でもない(キリストの死による贖罪の教えが欠如している)し、ましてや、イスラム教でもユダヤ教でもありません(コーランやユダヤ教典の教えへの言及が皆無である)。むしろ、「イエスや孔子や老子等の偉人が説かれた教えや思想も、すべて神理です」という教えである。(今回はそれがもっとエスカレートして、ヘーゲルやソクラテスやプラトンやさまざまな新興宗教の教祖たちが含まれています!)これは、仏教でもなくキリスト教でもなく神道でもなくユダヤ教でもなくイスラム教でもなく、ただいろいろな宗教や思想から自分の好みにあう「神理」をよせ集めてきてそれを教義にした、あたらしい新興宗教である -- それが、番人さんの書かれたことから受けた、わたしのおおまかな印象でした。

「新興宗教」とか「新宗教」というのは相対的な概念であって、仏教やキリスト教も、バラモン教やユダヤ教に比べれば新興宗教です。しかし、こんにち、一般に、「新興宗教」といわれているのは、維新以後うまれた新宗教(大本教、天理教、生長の家、創価学会、・・・)のことをさしており、また、戦後生まれた新興宗教(統一教会、阿含宗、GLA、幸福の科学、オウム真理教、・・・)の場合は、「新・新興宗教」などと呼ばれて、それ以前の新興宗教と区別する場合があるようです。『新宗教ガイドブック』(ベストブック出版)では、これらは全て一括して「新宗教」と呼ばれています。

わたしは、真理には興味があるけれど、「神理」なるものにはあまり興味がないのです。ある主張が真理であるかどうかを吟味するのではなく、自分の好みに合わせて寄せ集めてきたドグマと一致するかどうかで判断を下すような「神理」(新興宗教)の宣伝なら、ご自分のホームページを作って、そこで自由にやってください、わたしは自分のサイト・スペースを新興宗教の宣伝のために使用するつもりはありません -- ということでした。

こういうことですので、今回も、同じように、本サイトに直接関連していること(縁起の思想など)についてのみ、考察を続けたいと思います。


順観と逆観の関係

縁起が、単純に、時間的な生起関係(因果関係)としては捉えられないことについては、納得していただいたようですので、今回は、順観と逆観の関係について、ふたたび述べてみます。つまり、順観と逆観の関係は、「〜だから〜」というふうに、前提と結論の関係として解釈すべきではなく、「〜かつ〜」というふうに、連言語で結ばれたものと解釈とすべきである、というのがわたしの主張でした。

その理由として、まず、(1)仏典そのものの記述は「だから」で結んでおらず、順観と逆観は並列にならべられている。そして、(2)「だから」で結べば論理的誤謬に陥る。(3)「だから」で結べば、その後の歴史的発展(ナーガールジュナの縁起解釈)が説明できなくなる。この三つの理由を挙げました。このうち、「だから」で結べば論理的誤謬に陥ることについては、

	前提: 松坂が投げれば(原因)西武が勝つ(結果)。
	結論: だから、松坂が投げなければ(原因)西武は勝たない(結果)。 
という例をあげることで示しました。しかし、それは、わたしが、わざわざ誤謬に陥るような特殊な例をつかっているから、そうなるのであって、たとえば、
	前提: 直立二本足歩行をすれば、人間(類人猿)である。
	結論: だから、直立二本足歩行をしなければ、人間(類人猿)ではない。 
というような、「正しい例文を当てはめると『だから』でもちゃんと成立します」、というのが、番人さんの反論でした。

しかし、論理的誤謬というのは、命題(Proposition)の内容に関係なく、命題と命題の真理値の関係に関する形式的なものですから、どんな例を使っても同じことです。つまり、

	前提: PならばQである。
	結論: だから、PでなければQでない。
という形式に誤謬があるのですから、命題P=「松坂が投げる」、命題Q=「西武が勝つ」、としても、あるいは、命題P=「直立二本足歩行をする」、命題Q=「人間(類人猿)である」、としても、その他何をその命題の内容としても、必ず誤謬になります。

論理に例外はありません。直立二本足歩行の例も例外ではありません。つまり、たとえ、「直立二本足歩行をすれば人間である」という前提が永遠の真理であるとしても、そこから、「だから、直立二本足歩行をしなければ人間ではない」という結論は導出できません。なぜなら、「直立二本足歩行をすれば人間である」という前提には、「直立二本足歩行しなくても人間である」という可能性が否定されていないからです。そのような可能性としては、たとえば、事故で両足を喪失した人の場合などが考えられるでしょう。奇形で三本足の人もいるかもしれません。宇宙ステーションで生まれ、生涯、宇宙で生活をするかもしれないわたしたちの子孫は、まったく「直立二本足歩行」をしないかもしれません。未来の人間は進化が進んで「二本足」とは別の移動する方法を発達させるかもしれません。つまり、たとえ「直立二本足歩行をすれば人間である」のが永遠の真理であるとしても、だからといって、「直立二本足歩行をしないから人間をではない」とは言えないのです。

実は、「老人や赤ちゃんは・・、などという反論はやめましょうね」などという例外を設けなければ番人さんの主張が成立しないところに重要な鍵があるのです。論理的に言えば、例外とは隠された前提に他なりません。番人さんの例を、厳密に記すと、そのごまかしがあらわになります。

 前提: 直立二本足歩行をすれば、人間である。ただし、ここでいう「人間」には、
     直立二本足歩行しない人間(赤ちゃん、老人、けが人、宇宙飛行士、等々)は数えない。
 結論: だから、直立二本足歩行をしなければ、人間ではない。 
これが、実は、番人さんの本当の主張だったわけです。これをすこし簡略にすると、つぎのようになるでしょう。
 前提: 直立二本足歩行をすれば人間である。
     ただし、直立二本足歩行しない人間は人間ではないこととする。
 結論: だから、直立二本足歩行をしなければ人間ではない。 
さらに、これを論理式でしめせば、その論理の構造がもっとよく見えます。命題P=「直立二本足歩行する」、命題Q=「人間である」とします。すると、番人さんの主張は、つぎのような論理形式を持っていることわかります。
 前提: PならばQ。かつ(ただし)、PでなければQでない。
 結論: だから、PでなければQでない。
あきらかに、「だから、直立二本足歩行をしなければ、人間ではない」(PでなければQでない)という結論は、「直立二本足歩行をすれば人間である」(PならばQ)という前提の前半ではなく、「ただし、直立二本足歩行しない人間は人間ではないこととする」(PでなければQでない)という隠された前提に直接依存していることがわかります。この隠された前提こそが「直立二本足歩行しなくても人間である」という可能性を否定しているからです。そして、このように詳しく分析してみますと、番人さんにしてみればつついてほしくなかった例外(隠された前提)こそが、実は、縁起でいえば、逆観(PでなければQでない)に相当する部分であることがわかります。

論理学としては初歩的な常識ですが、一般に、「PならばQ」という前提からだけでは、「だから、PでなければQでない」という結論を導きだすことは出来ません。「PならばQ」という前提には、「PでなくてもQ」という可能性が否定されていないからです。命題Pや命題Qの内容が何であろうと同じです。この誤謬は内容(事実)に関する誤謬ではなく、形式における誤謬(論理的誤謬)だからです。

こうして、もし、縁起の順観(PならばQ)と逆観(PでなければQでない)を「〜だから〜」で結べば、必然的に誤謬となるので、それらは「〜かつ〜」という連言語で結ばねばならない、というわたしの縁起思想の解釈になっているわけです。

 神理の番人: PならばQ。だから、PでなければQでない。(誤謬となってしまう縁起解釈)
 佐倉解釈 : PならばQ。かつ、PでなければQでない。 (誤謬とならない縁起解釈)
しかも、すでに指摘しましたように、順観と逆観を連言語(〜かつ〜)で結ぶ縁起解釈は、仏典の記述とも一致し、仏教思想史の展開にも合理的な説明を与えることにもなりますから、それは、論理的、文献的、歴史的に納得できる解釈だと思います。

そして、このように、縁起では順観と逆観が連言語(〜かつ〜)で結ばれてなければならない論理的必然のことを、「縁起では、順観の部分だけでなく、逆観の部分も成立しなければならない」と説明しておいたことは、いまさら言うまでもありません。


その他(少し時間がありますので)


(1)「釈迦はあの世などに関しては「無記」なのに、佐倉さんは「アートマンはない」という断見の立場です・・・

すでに明確に表明していますように、そもそも、わたしは自分が仏教徒であるなどと思っていません。したがって、たとえ、わたしの立場がブッダの立場と異っていても、そのことだけでは、わたしの立場を批判することにはなりません。しかし、わたしは、自分自身の立場として、「アートマンはない」などという主張はしていません。また、「あの世」の存在についても、肯定も否定もしていません。


(2)「神理の敵は、「唯物論と盲信」にあります。この両極端を離れたところに、永遠の中道である神理の世界が広がっています・・・」

仏教の中道は、番人さんの中道とは異なっています。仏教の中道は「常見」(死後、永遠の魂が生き残るという主張)と「断見」(死後、何も残らないという主張)を否定したものです。死後生き残るかどうかというような形而上学的空想的問題は仏教の実践に必要ない、というのがブッダの教えでした。

[ブッダは言った。]マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

(「毒矢の譬え」)

「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」

(マッジマニカーヤ 22)

唯物論も永遠の魂主義も、どちらも、仏教の実践に必要のない「死後生き残るかどうか」というような形而上学的空想的問題に関して独断的見解に陥っているために、ブッダから退けられたのです。


(3)「目に見える物のみに真理を限定している。見える物は真理。見えないものは非真理となる・・・

「見える物は真理、見えないものは非真理」などという主張は、わたしのまったくあずかり知らない主張です。真理に関するわたしの見解はこちらです。


(*)最後に

あとは、機会があるときに、そのつどお応えできればと思っています。もし、どうしても、わたしからのコメントがほしいと思われるようなことがありましたら、問題を一つか二つに絞っていただき、それが終わったら、つぎの問題、それが終わったらつぎの問題、というふうな方法をとっていただければ、わたしももっと番人さんのご要望に応えられるようになれるのではないかと思います。どんなにわたしにとって興味を持てない問題であっても、ご質問やご主張がひとつだけなら、わたしもそれについて考え、なんらかのコメントをせざるを得ないだろうからです。