(1)本当の「因果関係と縁起関係の違い」とは? 

 佐倉さんは「仏教の縁起はしばしば因果律と混同されますが………」と言いますが、私は別に縁起と因果は同じだとは言っていませんが………、けれども申し訳ないことに「順観と逆観が同時に示されなければならないという縁起の定義・特質」は知りませんでした。しかし私の主旨はあくまで「行為と思想の因果関係」を言うことにあるので、仮に縁起が言えなくなったとしても論旨に変わりはありません。しかし私の縁起理解とは「因が縁を得て果を結び報を生じる、そして果は因となり、因果因果・・・と連鎖していく(因果の法)、つまりあらゆるものは相互依存関係にあるという真理(法・教え)を表したものである」というものです。つまり因果関係は縁起関係に含まれているため、縁起は因果ではないが「因果は縁起」なのです。前回で私はこれをただ小原則(因果)から大原則(縁起)へと導いただけです。例えば鯨は魚だと思っている人に対し、「鯨は肺呼吸してますね。だから哺乳類ですね。」と説明したのと同じです。そして縁起の法とは、この世の基本的仕組(成り立ち)を理解することを目的に説かれたのではないかと思います。だから釈迦の説いた縁起とはPがQの必要十分条件ではないから縁起ではないと論理学的に解釈するような性格のものではなく、もっと簡単で簡潔な真理を表していたと思います。だからあまり細部のみにこだわり過ぎると木を見て森を見ずの例えのように、縁起の本来の意味を見失う恐れがあるのではないでしょうか。

 次に、仏典の縁起の例として出されている「これがある故に、これがある。・・・・これが滅する故に、これが滅する」という文の内容は、

1 <原因としての>これ(P)がある故に、<結果としての>これ(Q)が生じる。(生成の因果関係・順観)

<だから>

2 <原因としての>これ(P)が滅する故に、<結果としての>これ(Q)が滅する。(消滅の因果関係・逆観)

というように、原因Pと結果Qの間に生じる単純な二つの因果関係(順・逆観)を説明しているだけのことではないのでしょうか。順・逆観を説明する時の代表例としての12因縁の場合も「<原因としての>無明がある故に、<結果としての>行がある。・・・<だから原因としての>無明が滅する故に、<結果としての>行が滅する」と、同じように無明と行(など)を対象とした順・逆観の単純な因果関係で説明されています。しかし12因縁の場合でも、私は今まで佐倉さんの言う「縁起の条件である逆観の証明」を一度も見たことがありません。仕方がないので自分で試してみるかと「無明と行」を例に取り、佐倉さんの縁起の公式「もしPならば、Qである。もしPでなければ、Qでない」に当てはめて検証してみると、「もし<原因としての>無明があれば、<結果としての>(無明の)行がある。」とは言えます。しかし「もし<原因としての>無明の滅脚でなければ、<結果としての>(無明の)行が滅しない」とは言えません。何故なら行は無明以外にも、本能や本人の資質・習慣・慣例・親からのしつけなどの内的外的条件で左右されるからです。このようにいろいろな抽象的可能性の中で「無明と行の逆観を証明」するのは至難の技(不可能)であり、他の識以下との関係も同様です。つまり縁起の関係の代表例としての12因縁の場合でも、逆観は全く証明されていないのです。にもかかわらず普通12因縁は縁起・順観逆観の説明として通用しています。果たしてこの矛盾はどこから生じるのでしょうか。実は矛盾の原因が3点あります。では以下にその矛盾の原因(苦)を発見して滅却(正見)してみましょう。

 矛盾の原因1.  佐倉さんによる逆観部分の公式の誤り 

 逆観の公式「もしPでなければ、Qでない」は、正しくは「PがなければQがない」とすべきなのです。本来の逆観「Pがなければ」というのは、Pだけを対象としています。しかし「Pでなければ」としてしまうと、佐倉さんが説明しているようにP以外の可能性も対象としてしまうのです。だから本来の逆観の公式に「この液につけること」と「衣は青く染まること」を正しく当てはめると、実は逆観が証明されて佐倉さんの言う「縁起関係」となります。

1 <原因としての>この液につけること(P)がある故に、<結果としての>衣は青く染まること(Q)が生じる。

<だから> 

2 <原因としての>この液につけること(P)が起こらないと、<結果としての>衣は青く染まること(Q)も起こらない。

 このように正しく引用すると、ちゃんと順・逆観も成り立ちます。

[矛盾の滅却1(正見)]言葉は正しく引用しましょう。


矛盾の原因2. 縁起の定義付け「順・逆観の証明が必要」の間違い 先ほども述べましたが、佐倉さんの公式「PでなければQでない」を用いて厳密に(一般論として)「無明と行との逆観を証明」しようとすると、先ほどのように至難の技(不可能)となるわけです。しかし釈迦がそのような言葉遊びにも似た複雑なことを本当に説いたのでしょうか。本当は釈迦の縁起の思想というのは、順・逆観が証明されないと成立しないというような哲学的なものではなく、順・逆観の「因果関係」を単純に説明しただけのことではないかと思います。つまり本来の釈迦の縁起は「PがあればQがある、(だから)PがなければQがない」という「PとQの関係のみを対象とした、非常に単純な因果の説明」であったということです。この場合には対象を限定しているために、黙っていても(証明しなくても)自動的に順・逆観が成立するようになっています。というよりむしろ、「因果の順・逆を言うこと」が目的だったのです。だから仏典を見る限り、佐倉さんのいうように、「仏典に残されている縁起の思想はこのように、かならず、順観と逆観のペアで成り立ってい」るわけではないことが分かります。[矛盾の滅却2(正見)]文はその意図するところ(目的)を正しくつかみましょう。


矛盾の原因3. 例文は縁起ではなく、実は「因果関係」の説明

 佐倉さんが勘違いした最大の点が、仏典の縁起の例として出されている「これがある故に、これがある。・・・・これが滅する故に、これが滅する」という文を、先入観で縁起の文だと思っていたことです。しかしこの内容を如実観察すると、どう見ても因果の説明です。理由は簡単で、因と果はあるが「縁」がありません。だから縁起縁起というけれど、釈迦は簡単な因果の法(順逆)を説明していたのです。[矛盾の滅却3(正見)]何事も先入観にとらわれず、心を白紙に戻して(如実観察)見るようにしましょう。

 しかし以上のことはあくまで私の考えであり、また私は仏典をあまり学習していませんので、ひょっとすると佐倉さんのいうように釈迦は「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立つ」とどこかで定義したのかもしれません。もしそうであれば今までの私の説明は根底から崩れてしまいます。是非後学のために、釈迦がどこでそのような縁起の定義付けをしていたのか教えていただけませんか。  以上のことを念頭において、以下私なりに仏典を検証してみました。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いを熟知している。註 縁起・・・因果関係のこと。道徳的な因果関係、すなわち善因善果、悪因悪果という関係を意味するのであろう。『ブッダのことば(中村元訳 岩波文庫)』より、以下同

(2)「行動を見て思想は判断できない」わけがない

(A)仏典による検証

 上記653では「かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いを熟知している。」とありますので、その縁起が意味する内容を見てみると、続けてこうあります。

654 〜人々は行為によって成り立つ。 655 〜熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、・・・・これによっ て(バラモン)となる。これが最上のバラモンの境地である。
 このように、縁起を見るとは「行いによってバラモンとなることを理解すること」です。そしてその行いの具体的内容は何かということをたくさんの例を上げて説明しています。

612〜619では、「牧牛や技能や売買などで生活する人」は、バラモンではない。そして620〜647では、「怒ることなく、とらわれなく、殺さず、・・・幸せな人」をバラモンと呼ぶとしており、バラモンと認定するための行為の条件を詳しく挙げています。そしてこの条件をよく見ると、どれも釈迦の悟り(教え、理法)が差し示すあるべき人間の姿であり、理法を実践(因)することで到達できる境地(果)です。だからこの条件に合致した行為のできる人(果)を見ると法を実践している人であり、バラモン(正しい宗教者)(因)と判断できるというのが釈迦の結論です。そしてこのような記述(〜する人(果)は・・だ(因))は他にも沢山見つけられます。それにしてもこれらの縁起関係の記述には、佐倉さんによれば「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立」っているはずの逆観が示されていませんが、逆観はどこに雲隠れしたのでしょうか。でももう一度念のために、前提として本当に教義がよければ人が良くなるのかを検討しておきましょう。

788 人がまったく清らかになるのは見解による。
註 見解・・・宗教や哲学の「教義」を意味する。
789 煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
 ここを読む限り「人が清められるのは、教義(正しい道の実践)しかない」ので、「清められた(行為をする)人」は必ず正しい道を実践していたという事が判断できます。しかしそれにもかからわず「善人だからといってその人の世界観が正しいとはかぎらない(なぜなら他の方法によっても清められるかもしれない)」と意義を申し立てる人がもしいたとすれば、そのような人は釈迦から「偏見ある人」と呼ばれてしまうらしいですね。

 このように仏典を検討してみると、やはり釈迦の結論も、「実を見ると・・・」というイエスの言葉と同じでした。そしてあえて付け加えると、孔子の教えでも「実践こそ学問で、実践行為のできる人が本当に学問をした人だという」(論語・学而第一7)という同じような教えがあります。やはり釈迦・イエス・孔子は、同じように「行為を見て思想を判断」しており、実践の大切さを説かれていたのですね。

(B)佐倉さんの言う「縁起関係」での検証

では次に正しい宗教教義と行為との関係が、果たして佐倉さんの言う「縁起関係」に合致しないのかどうか検証してみます。「これがある故に、これがある。・・・・これが滅する故に、これが滅する」という文に、原因としての「正しい宗教」と結果としての「行為」を当てはめます。すると

1 <原因としての>正しい宗教(P)がある故に、<結果としての>行為(Q)ができる。

<だから> 

2 <原因としての>正しい宗教(P)が滅する故に、<結果としての>行為(Q)が滅する」

 このように、先に説明したように限定された対象のもとでは、必ず順逆が成り立つのは因果の法からして当然です。つまり正しく当てはめると順観・逆観が成り立つために、「正しい宗教教義と行為との関係」は佐倉さんの言う「縁起関係」であることが証明されます。でも普通に考えれば、正しい教え(の実践)があるから悟りを得て、悟りを得たのは正しい教え(の実践)だからだと考えるのはごくごく当り前のことではないのでしょうか。この当り前のことに反対する(正しい教え以外を考える)ほどの人がいれば、なるほど世間解を大切にする釈迦から見ると「偏見ある人」と呼ばれても仕方ないですね。

(3)(4)「道徳(善悪)と認識(真偽)とは無関係」は、神理とは無関係

 もし真理と道徳が別ならば、道徳は真理ではないことになりますが、それでは道徳は非真理(ウソ?)なのか、それとも真理と並列関係の何者かなのか、それとも全く別の次元のものなのか、道徳の名誉(?)を考えると我ながら心配になります・・・。でも仏典を見ると答えがあるかもしれません。引き続き先の仏典の散文を読むと、行為によってバラモンとなるという法を聞かされた青年たちは感激して、最後に「いまわたしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつ」った訳です。「真理に帰依」したのです。佐倉さんが言うように真理が単なる認識(真偽)にしか過ぎないのであれば、「真理に帰依」とはなりません。しかし仏典では他にも「92 理法を愛する」「186 理法を信じ」「224 真理によって幸せであれ」「323 真理を理解」「327 真理を喜び、真理を楽しみ」などなど、同様の記述はいくらでも出てきます。もし佐倉さんの言う真理の定義が正しければ、私(神理の実践)と同じように仏典も真理の使い方を誤っていることになります、が、果たしてそうでしょうか?

 もし単なる認識の区別(真偽)が真理だとすると、真理とはなんとつまらないものでしょうか。「昨日雨が降ったこと」を確認(認識・理解?)することは、単なる事実の確認であり、誰にも分かることです。そしてごみをいくら溜めてもごみの山にしかならないように、誰にも見えることをいくら認めても、それは単なる唯物論にしか過ぎません。そして例えば猫のお尻の先の毛を一本抜いて「これは猫である」とは言わないように、「猫があくびした」ことを確認したからといって、いくら何でもそれを真理とは普通は言いません。もちろん唯物論も真理のごく一部であることは確かですが、このレベルの真理を本来の真理とされるようでは、これこそ「真理の危機」であり、自称神理の番人の本来の出番となるわけです。

 仮に毎日のご飯のおかずを見たから真理を認識できたとするならば、もうすでに人類全員ブッダです。しかし釈迦の見つけた真理とは、そのような低レベルの真理だったのでしょうか。これも当り前のことですが、実際に仏典での真理(理法)は、佐倉さんの真理の定義よりもっと幅広い使われ方をしています。この理由は、佐倉さんの真理の定義があまりにも狭過ぎ、真理を矮小なものに閉じ込めてしまっていることにあります。

 UFO(!)を目撃した(真理の確認)からといって、ブッダにはなれません。しかしブッダはそれまで誰にも分からなかった(見えなかった)真理を確認できました。そして釈迦の確認できた真理とは、「この世界を成り立たせている道理・理法・縁起の法」ではなかったのでしょうか。そして理法を理解することで苦を滅却する(幸せになる)方法(四諦八正道)を説いたのではなかったのでしょうか。このように誰にも見えない(認識できない)理法を発見したからこそ、「真理に目覚めた人」なのです。だから本来の真理は目に見えませんが、「天網魁魁、疎にして失わず」と老子が看破したように、法であるゆえに世界に充満しているはずです。だからあらゆる場面に真理は存在し、あらゆる段階に応じた真理が存在します。その意味では、目に見える現実を確認すること、「ハムスターのおしっこは臭い」ことを認めるのも最低限の真理であるでしょう。でも目に見えない部分にこそ真理の本来の価値があります。私たちが人にやさしくしたくなるのも真理です。悲しんでいる人を慰めたくなるのも真理です。感動するとうれしいのも真理です。良いことをすると気持ちが良いのも真理です。両親を大切にしたいのも真理です。四諦とは目には見えないが四つの真理です。八正道は目に見えませんが真理です。目には見えないが三宝印も真理です。また釈迦の説かれた法も真理です。そしてイエスや孔子や老子等の偉人が説かれた教えや思想も、すべて神理です。

 神理はあらゆるものの中に存在しています。真理を理念と言い換えても良いのですが、この理念が様々な分野で具現化することでいろいろな学問の形をとります。真理が学問の分野で表現されると哲学などとなり、真理が倫理の分野で表現されると道徳となり、真理が精神の分野で表現されると宗教となり、真理が感性の分野で表現されると芸術となります。具体的に言うと、例えば人にやさしくすることは道理に合っている(真理)ので、その「人にやさしく」という理念は、例えば道徳的には「親孝行」となり、宗教的には「汝の隣人を愛せ」「慈悲」となり、学問的には種々の「人間学」となり、芸術的には安らぎの曲や心暖まる絵画となって具現化されるでしょう。そして真理には、世の道理に従うという方向性(価値基準)があります。だから学問的な判断は真偽となり、倫理的・精神的な判断は善悪となり、感性的な判断は美醜という形を取りますが、その背後には真理としての共通理念(方向性)があります。例を挙げると、先ほどの「やさしく」という理念に反した「乱暴さの肯定」という価値観に対しては、学問的には偽となり、倫理的・精神的には悪となり、感性的には醜という判断の形をとる事でしょう。そして真理にも段階があります。今まで述べた真理はあくまで人間の目から把握できる真理であり、認識のレベルが最高の神の目(認識)には表面的な真偽・善悪・美醜を超えて(縁起・中道)、敵も神理、嵐の日も神理、悪魔も神理、地獄も神理、すべてが神理であり、この宇宙は神理・法則・道理だけが自己展開しているように見えるのではないかと推測してしまいます。このようにすべての背後には真理があるため、道徳・宗教的善悪も学問的真偽も芸術的美醜も、真理の観点から本来は共通の価値判断が可能です(当り前のことです)。

 ある理念が、同時代に真理を求める人たちに現れた具体例を以下見てみましょう。

p.283の註 144 足ることを知り・・・わずかなもので満足することを足るを知るという。・・・老子の理想に一致するものがあったからであろう。・・・。日本でも古来理想とされてきた。・・・これはまたストアの哲人のめざす人生の理想でもあった。・・・p.285 ・・・考えてみれば、足るを知ること、すなわち自分の持ち分に満足して喜びを見い出すということは、だれにでも可能な(幸せへの道)であると言えよう。原始仏教、老子、ストアの哲人たちによって、古代のほぼ同時代・・・多少の年代的な前後のずれはあるが・・・・に説かれたことは興味深い。 
他にも真理と善の関係について、抜粋します。
274 理法にかなった行い、清らかな行い、これが最上の宝であるという。 註 すわわち、身、口、意の善行であると解したわけである。これは世俗的な 善行であると解する。 ここだけダンマパダ183  すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自 己の心を浄めること、…これが諸の仏の教えである。(中村元訳、岩波文庫)
これが有名な七仏通誡偈

 真理とは物事の道理のことであり、この道理をわきまえて生きることで人は幸せになります。だから仏の説く真理(教え)とは道理に即して生きること、道理を生活レベルで実践すること、つまり善行の実践の勧めであり、これを簡単に言うと「神理の実践」です。以上のように「道徳的カテゴリーと認識的カテゴリー」とは真理という共通の土台を持っているため、「真なる思想(理念・真理)が、人をして善なる行為に導」くことは当然のことです。 

(5)釈迦とイエスは否定された?

 例えば世界中の幼稚園児が全員佐倉さんの論文を見て、「難しすぎてわかんないから佐倉さん嫌い!」と言ったとします。果たして佐倉さんは、自分が否定されたと思いますか?また欧米人すべてが日本の着物やお辞儀を見て「不合理だ」と言ったとすると、佐倉さんは日本が否定されたと思いますか?どちらも普通の感覚であれば、そんなことでは否定にならないと思うはずです。しかし戦後の日本のように、思想内容とそれにまつわる政治や教育などの行動様式が否定されると、まさしく日本が否定されたと誰もが思う訳です。だから認識力が低い人達がいくらあることを多数決で決めたとしても、あるものを否定することにはなりません。民主主義などはこの点で愚民政治となりやすい訳です。また政治的利害関係に基づいた人たちの批判や文化や習俗などの形だけの批判も、あるものの本当の否定にはなりません。本当の否定とは、その人のすべての言動の基準となる価値観(世界観・人生観・宗教観など)の思想内容の間違いを証明され否定された場合です。人間の本質は思考にあるため、思考内容を否定することが、その人の本質を否定することとなります。この意味で、人類2000年の歴史で、今だに釈迦とキリストの本質(教え)をきちんと否定できた人はいないのではないでしょうか。

(6)「批判」の「本当の」公平さとは

 佐倉さんが「(イエス、ブッダ、空海、親鸞、道元、日蓮、等々)の宗教を批判する勇気が必要」と書かれていましたが、これらを等しく批判することは「平等」と言います。しかし私もそこまで暇ではありません。私が一言言いたい(批判ではなく薬です)対象は、前回も書いたとおりに誰が見ても変だという所ではなく、一見正しそうで実は間違っている場合です。単なるスリ傷は黙っていても治るけれど、病気が重いと薬が必要なように、どうでも良いところは捨てておき、影響の大きそうなところには力を入れる、これが本当の「公平さ」というものです。

補足説明

非真理(ウソ)が善行(幸福)に導く場合?? 

 釈迦の目的は人から苦を除くことにある  釈迦が真理を説いたのは人を救うためであり、真理を暗記させるためではありませんでした。真理と人とを比べると、「自燈明、法燈明の例え」や「筏の例え」でも分かるように、当然人の救済に重点が置かれています。だから釈迦は万人に分かる真理の公式だけを述べたのではありません。「人を見て法を説く」対機説法を行い、そのために八万四千とも言われる膨大な法が残されました。つまり真理は人を救って初めて意義があるものとなります。人を絶望させるのが真理ではなく、人を絶望から救うのが真理の役割です。その目的からすると、相手の機根に合わせて「非真理」を説くことは「方便」と呼ばれています。この場合の「方便」とは佐倉さんが言うような「ウソ」ではありません。ウソか本当かという断見を滅した中道の状態「ウソ即真理、真理即ウソ」というものではないかと思います。以上は「相手を真に救う方便」の場合です。

 しかし佐倉さんの「ガンではないというウソが人を幸福にする」という場合には、一時期その「非真理(ウソ)」で幸福になったように見えても、やがて現実を突きつけられる時が必ず来ます。この場合の「非真理(ウソ)」は、現実から一時逃避する一時しのぎの麻薬と同じです。オウムがいくら薬で恍惚状態を感じたとしてもそれは決して悟りではないのと同じく、一時しのぎの麻薬ではその人の本当の救済(幸福)にはなりません。そしてこのような生への執着を助長するような「幸福」とは、釈迦が真っ先に否定した無明による渇愛そのものではありませんか。リアリストの釈迦ならば、ガン患者には多分三宝印を説き、「生への執着を取り去り、癌なら癌を直視することでそこから残された余世をどう有意義に生ききるか」ということを諭したのではないかと推測されます。だから佐倉さんの例は、真の幸福につながらないためふさわしくありません。もう一つ(閻魔様に舌抜かれる)も同様です。この例から分かるように、一見このように「非真理(ウソ)が幸福に導く」ように見える場合とは、すべて真理とは正反対の無明の観点(有我の立場)から幸福を見てしまった場合です。だから、最終的には本当の意味では「非真理(ウソ)が幸福に導く」ことはありえません。でもこのような偽の幸福(執着)から自由になるために、私たちは仏典の無我や空を研究しているのではなかったのでしょうか?? ?

<一番大切なこと>

 前回の「時代によって価値が逆転する例(無明の立場)」も今回と同様でしたが、佐倉さんのこのような「理法に反した例を使ったり、また縁起をドグマ化するなどの具体的行為」を見ていると、佐倉さんは仏典をたくさん研究して空や無我などの高度な仏教理論を誰よりも「認識」しているはずなのに、なんだか釈迦の教えの一番基本的で大切な部分を理解されていないのではないかと不遜にも感じてしまいました。もしそうであるならば、例えばいくら料理のレシピを見て料理の作り方だけを学んでも、自分で料理を作って食べてみなければ決して料理の味が分からないように、いくら無我や空の理論(文字の並び方?)だけを「認識」しても、自分で教えを実践しなければ決して無我や空の意味を本当に知ることはできないということを自ら証明していることになってしまいます。でもこれが私の早とちりと勘違い、また理解(洞察)不足でありましたらお許しください。

注 実践とは体を動かすことだけではなく、学んだことを身につけることを意味しています。そして学びを身に付けるための基本は、深く(素直に)考えることです。(参考例)「子日く、学びて思わざれば、即ち罔し、思いて学ばざれば、即ち殆うし」(論語より)

また前回の私の主張(2)善悪は(真理)は普遍である、に対しての感想がありませんでしたが、佐倉さんはすべてに賛成できないとおっしゃっていますので、是非どのあたりが納得されないのかをまた教えていただければありがたいと思います。

 最後になりますが、釈迦の教え(真理)を実践するには、現実の直視・如実観察(如実知見)による正しい見解を得ること、具体的には自己客観視(反省)による自分の苦の発見から始まります。是非自分をより成長させるためにも、私たちは学んだ神理を実践していきたいものです。ありがとうございました。

(1)縁起と因果は別のもの

私は仏典をあまり学習していませんので、ひょっとすると佐倉さんのいうように釈迦は「縁起は必ず順観と逆観のペアで成り立つ」とどこかで定義したのかもしれません。もしそうであれば今までの私の説明は根底から崩れてしまいます。是非後学のために、釈迦がどこでそのような縁起の定義付けをしていたのか教えていただけませんか。
縁起については「縁起と因果」として別にまとめました。そちらをごらんください。


(2)行動を見て、その人の信念が真理であるか誤謬であるか決めることはできない

ある人が自分は救われると信じているために幸福だとしても、「だから、かれの信じている内容は真理である」、と決定することはできません。あるひとが自分は病気で死んでしまうと信じているためにひどく不幸になったとしても、「だから、かれの信じていた内容(かれが病気であったこと)は間違っている」、と決定することはできません。結果からその人の信じている内容が真理であるかどうかは決定できません。

ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。(ニーチェ、『善悪の彼岸』、竹山道雄訳)


(3)新しい偶像崇拝

認識のレベルが最高の神の目(認識)には表面的な真偽・善悪・美醜を超えて(縁起・中道)、敵も神理、嵐の日も神理、悪魔も神理、地獄も神理、すべてが神理であり、この宇宙は神理・法則・道理だけが自己展開しているように見えるのではないかと推測してしまいます。このようにすべての背後には真理があるため、道徳・宗教的善悪も学問的真偽も芸術的美醜も、真理の観点から本来は共通の価値判断が可能です(当り前のことです)・・・
どうやら、これはあたらしい新興宗教のようですね。キリスト教も仏教も科学もなにもかも一緒くた。そういえば、幸福の科学やオウム真理教や統一教会もキリスト教や仏教や科学を一緒くたにしていますね。うすうす感づいていたのですが、やっと「神理」などという変な言葉が使われている事情がよくわかりました。ここで語られている「真理」とは、真理のことではなく、「神理」のことだったのですね。「神理の番人」さんは「神理」の番人なのであって、真理の番人でなかったことに、いま世界中が感謝することでしょう。頑張って「神理」を守護してください。イワシの頭を拝もうが、なにを拝もうが、信仰は個人の自由なのです。