前回の私の意見「宗教の正邪は行為を見ると判断できる」に対して、佐倉さんは同意できなかったようです。あれから大分時間が経ってしまいましたが、佐倉さんの感想に対して検討を加えてみます。

 佐倉さんが同意できないと判断された主な理由の一つ目は、「人の信念・主張と生き方、真理と人の幸不幸とは関係があるとは限らない」というものですが、これは言葉を変えると「人生観(真理)と生き方(幸不幸)の間には、何の因果関係もない」ということを意味しています。また次の「善悪は社会的通念に過ぎない」というのも言葉を変えると「私たちは誰も善悪の区別はつけられない」となります。一見すると「様々な可能性や条件が関係してくるので、そんなに簡単に価値判断はできない」というような論法はとても慎重なように聞こえますが、この行き着く先には何でもありの無政府主義(混沌)しかありません。確かにそこではあらゆる思想が何かにとらわれることなく混在していますが、まさかそれが佐倉さんの言う「無我(とらわれない?)」の状態であるはずもありません。そして何よりこの考えが正しくないことは、何も難しく考える必要はなく、ただ素直に考えるだけで良いと思います。すると私たちに共通の正しい価値判断をもたらしてくれる、自分の良心が教えてくれます。「何か変だなア」と・・・・。

(1)思いと行いは因果関係にある

 何故子供たちは学習するのでしょうか。それは学習をすれば自分が成長するということを全員が理解しているからこそ学ぶのではないのでしょうか。また何故私たちはこうして過去の釈迦の言葉を研究するのでしょうか。それは子供たちと同様に、釈迦の言葉を学び大切な事に気付き(直接原因)、それを自分のものに出来るように努力することで(間接原因)、教えを自分の習慣・性格の一部とすることができ(結果)、そのため非常に満足する状態になれる(効果)ことを目指しているから学ぶのではないのでしょうか。もっと簡単に言うと、学ぶことで(原因)、何かを得ること(結果)を目的としています。何も難しいことはありません。この「原因と結果の法則」は日常私たちが経験的にも知っていることです。この「原因と結果の法則」を認めるからこそ、学習や努力や日々の日常生活やその他すべての人間の行動が可能となります。言わばこれが、私たち人類が認識できる共通の法則です。この「原因と結果の法則」とは「因果の法」であり、これが釈迦の思想の中心概念である「縁起の理法」であることはみなさんご存じのとおりです。

 縁起の理法とは善因善果・悪因悪果の世界であり、この理法を普通に認められるのであれば、思考(思想)と行為とは因果関係にあること、そして「人生観(神理)と生き方(幸不幸)の関係」にも例外はありえないことが分かるはずです。私たちはまず正しい見解(神理)を知り、それに沿った生き方を実践し神理を自分のものとすること(信念・主張となる)で、良い生き方(幸せな状態)ができるようになります。正しい修行をすればこそ涅槃の境地(幸せな状態)を目指せるのであり、間違った修行では迷いの生存(不幸な状態)を繰り返すのみです。このように、原因としての自分の思い(信念・主張)と結果としての行為とは、密接な関係があります。

(2)善悪は普遍である

 仮に善悪は社会通念に過ぎないとしても、現実に今の社会で生きている以上私たちは日々善悪の区別をつけることを要求され、実際に区別しながら生活しています。その時にどのような区別をつけられるか、いかに神仏の立場に近い判断ができるかということは、私たちの今まで生きてきて作り上げた自分の悟り(認識)にかかっています。

 さて釈迦は中道で悟りを得ることができ、また「世間解」を説き、また自然や身の回りのこと(常識的内容)を用いて沢山の例え話をしました。そして釈迦の説かれた話や修行の内容(八正道など)は、現代の私たちが見てもどのくらい常識的かは誰が見ても分かるはずです。これらのことから分かることは、「神理とこの世の社会的常識(規範)とは異なるものではない。むしろ社会的常識(規範)の延長上に宗教的境地(規範)がある」ということです。仏教の五戒の内容は驚くほど常識的です。しかし2000年以上たった今でも、未だに五戒が守れない人がたくさんいます。本来神理とは時代によって変わるものではありません。例えその表現が変わることがあったとしても、善悪の本質が逆転することはありません。神仏の目には、善悪は明確です。仮に「いつでもひっくり返」る善悪の基準があったように見えたとしても、それは人間の欲望(執着)に基づくこの世的立場(無明)を基準として考えているだけのことで、それは本来の正しい基準ではありません。

 では神でもない人間が、本当の正しさを知ることができるでしょうか。それに対して釈迦は、中道と八正道の実践を説きました。しかし何も八正道を持ち出さなくても、自我をなくして素直に(無我で)考えると何が良いか悪いのか位は自分で分かるはずです。なぜなら私たちには良心(仏性・神性)という善悪の判断基準が生まれながらにして備わっているからです。自分の内部に正しい判断基準があるからこそ、外部の物事の正邪も見分けることができます。

 以上(1)思いと行いは因果関係がある、(2)善悪は普遍である、という理由でイエスの言葉は正しく、信者の行いによって宗教の正邪が判別できます。


補足説明

(A)真理と行為が一致しない場合?

 「悪い信念なのに善人だ」という人を私は末だ見たことがないですが、「真理を知ったのに悪くなる人」という、確かに「一見」佐倉さんの指摘する状況が起こる場合があります。しかしそれは以下の3点のどれかに該当しています。

(1)真理をただ知識としてのみ利用している場合

 真理は実践しなければ自分のもの(信念・主張)とはなりません。だから真理をいくら研究し暗記したとしても、それだけでは真理は何の影響も及ぼしません。職業や趣味の立場(自我)からの仏教研究などはその典型です。

(2)真理を都合良く解釈している場合

 自分の都合(自我)で真理を解釈してしまった場合には、その人の中で真理は既に真理とは似て異なるものにすり変わっています。一見真理を知っているように見えて、実は実践ができない盲信者などはその典型です。

(3)真理を薬とせずに拒否した場合

 真理とは「良薬」と同じです。真理を知ることで自分の本性に目覚め、時には苦い思いをすることもあるかもしれません。しかしその体験を薬とすることで、やがて自分の病気も全快していきます。しかし薬をいくら出されても、肥大した病巣(自我)の大きさゆえにこれを拒否した場合にはどうしようもありません。

 以上の3点に共通していることが、真理よりも自分の立場(自我)に重きを置いていること、つまり無明であることです。この場合にはいくら耳で真理を聞いたとしても、真理は自分のものとはなりません。そしてそれでは本当の意味で真理を「知った」とは言えません。真理は実践することで、はじめてその味を知ることができます。釈迦は涅槃へ至る修行として、自我の滅却(無我)と八正道の実践を説きました。だからいくら「無我」を研究しても、その内容を実践できなければ同じことです。しかしあくまで正しい行為の前提はまず「正しい見解」にあります。正しい行為の方法が分からなければ、実践もできません。この意味でまず無我とは何かを解明することはとても有意義なことでもあると思います。無我の正体を知ることは、自分の信念を正しい方向に導き、幸せな生活を送るための原因とすることができるからです。

(B)神理の番人の出番とは

 このコーナーを見ている位の人ならば、例えば既成の宗教団体や釈迦の弟子筋の宗祖が、いかに釈迦の悟りとかけ離れているかということ位は自明の理でしょう。神理の世界で一番危険なのは、誰が見ても変だと思うことではなく「一見正しいのだが実は間違っている場合」だと思います。それに対して意義を申し立てることで神理を明らかにすること、それが番人の役目と心得ています。だから番人の目的はバッシングなどという非生産的なものではなく、神理の取り違えに対する「薬」であり、神理との相違点を明らかにする「リトマス試験紙」の役割ではないかと思います。

 また、釈迦やイエスの思想(イエス、ブッダの宗教?)に対しては、私の知る限り別に真理と矛盾しているとは思いません。しかし佐倉さんは私に批判を勧めるくらいですから、どうやらご自分では問題点を発見しているようです。もしそうであれば、これはすごいことです!!ひょっとすると人類2000年の歴史でも否定されることのなかった釈迦・キリストの説かれた神理を超える素晴しい神理を、佐倉さんは発見したのかもしれません!!この日本から、今までの宗教を凌駕する大世界宗教(哲学)が生まれる可能性もあります。私たちはその歴史的な瞬間に、今いるのかも知れません。そうであるならば、是非聞きたいです。釈迦・キリストの言葉を鵜呑みにしないで検討した結果、一体どのような発見があったのでしょうか。

 佐倉さんにはまた日を改めて、無我の効用を是非お聞きしてみたいと思っていましたが、それは後回しです。まず世界的宗教(哲学)となるであろう真理の具体的内容を、是非教えてください。多分他の方も期待されていると思いますので、心待ちにしています。ありがとうございました。

ここで述べられているほとんどすべてのご主張にまったく同意することができません。批判すべきことが多すぎて、すべてに言及することはできませんが、いくつかの点についてのみわたしのコメントをしたいと思います。

(1)因果関係と縁起関係の違い

この「原因と結果の法則」とは「因果の法」であり、これが釈迦の思想の中心概念である「縁起の理法」であることはみなさんご存じのとおりです。
仏教の「縁起」はしばしば因果律と混同されますが、縁起関係は因果関係と同じではありません。縁起の関係は、かならず、「順観」と呼ばれる部分と「逆観」と呼ばれる部分の二つの部分から成り立っていて、その一つがなくても縁起の関係は成立しません。
これがある故に、これがある。これが生ずる故に、これが生ずる。これがない故に、これがない。これが滅する故に、これが滅する。

(サンユッタ・ニカーヤ 12:37 増谷文雄訳)

「もしPならば、Qである」の部分が「順観」と呼ばれている部分で、「もしPでなければ、Qでない」が「逆観」と呼ばれている部分です。仏典に残されている縁起の思想はこのように、かならず、順観と逆観のペアで成り立っています。それが縁起関係の特質です。

ところが、因果関係は、そのどちらか一方だけで、因果関係と言えます。「もしPならば、Qである」も因果関係であると言えるし、「もしPでなければ、Qでない」も因果関係であると言えます。たとえば、

この液につければ、衣は青く染まる。
という言明は、「この液につけること」と「衣が青く染まること」が因果関係にあることを示しています。しかし、「この液につけること」と「衣が青く染まること」は縁起の関係にはありません。なぜなら、逆観が成立しないからです。
この液につけなければ、衣は青く染まらない。
は成立しません。衣はその液に浸けなくても、別の条件(日に当てる、別の液に浸ける、など)で青く染まるかもしれないのですから、「この液につけない」というだけでは、「衣が青く染まらない」とは言えないのです。

つまり、因果関係は順観と逆観のどちらかが成立すればよいのに比べて、縁起の関係はかならず順観と逆観の両方が成立しなければなりません。したがって、因果関係と縁起関係は同じではありません。


(2)思想と行動の関係

思いと行いは因果関係にある・・・
それはそのとおりでしょう。しかし、
前提1 AならばXである。(Aという思いはXという行動を促す。因果関係)
前提2 しかるにXである。(Xという行動が見える)
結論  ゆえに、Aである。(だから、Aという思いを持っているに違いない)
は論理的誤謬です。Aとは別の思いもXというおなじ行動を促すかもしれないからです。
前提1 AならばXであり、かつ、AでなけれXでない。(Aという思いだけがXという行動を促す。縁起関係)
前提2 しかるにXである。(Xという行動が見える)
結論  ゆえに、Aである。(だから、Aという思いを持っているに違いない)
は論理的に正しい推論です。

つまり、ある思い(A)とある行動(X)が因果関係にあるだけで、縁起関係にあること(順観と逆観の両方が成立すること)が立証されていない場合は、その行動(X)からその思い(A)を結論づけることはできません。たとえ「AならばX」であっても、「XならばA」(AでなければXでない)とは限りません。「逆は必ずしも真ならず」です。したがって、「思いと行いは因果関係にある」ということから、「その木が良い木かどうかは、実を見ると分かる」という(結果を見て原因を決定できるという)結論はでてきません。


(3)道徳的カテゴリー(善悪)と認識的カテゴリー(真偽)の区別

「悪い信念なのに善人だ」という人を私は末だ見たことがないですが・・・
わたしが問題としたのは主張や思想の真偽性と行動との関係です。「悪い信念なのに善人だ」などと主張したのではありません。道徳的カテゴリー(善悪)と認識的カテゴリー(真偽)は別々であることを言ったまでです。善人だからといって、その人の数学の答えや世界観が「正しい」とは限らず、悪人だからといって、その人の数学の答えや世界観が「間違っている」とは限らない、ということを述べたのです。

つまり、良い結果(善なる行動や幸福)を生むからといって、そういう結果を生んだ思想や信念が真理であるとは限りません。「ウソを言う人は閻魔様に舌を抜かれる」という非真理(ウソ)がひとを正直者にしたり、「あなたはガンではない」という非真理(ウソ)が病人を幸福にしたりします。つまり、良い結果(善なる行動や幸福)は、必ずしも、その人の信念や思想が真理であることを保証しません。

この意味でも、「その木が良い木かどうかは、実を見ると分かる」というイエスの教えは間違っています。行動と思想は関係していますが、行動を見てその人の思想のが真理であるかどうかは判別できません。


(4)真理の実践?

真理は実践しなければ自分のもの(信念・主張)とはなりません・・・
真理は、実践するものではなく、理解するものです。真理は実践することなどできません。真理は「〜である」とか「〜ではない」というような形の文で表すものだからです。もし、昨日、東京で雨が降ったのが事実だとすると、
昨日、東京で雨が降った。
という文(主張)は真理です。この真理(昨日、東京で雨が降った)をどのように「実践」するのでしょうか。もし、わたしが、鉛筆を三本持っているとすると、
わたしは鉛筆を三本持っている。
というわたしの主張は真理です。この真理(わたしは鉛筆を三本持っている)をどのように「実践」するのでしょうか。真理はただ理解するものです。


実践することができるのは、「〜せよ」とか「〜すべきである」という命令を示す文だけです。それは善悪や快楽などを問題とするものかもしれませんが、真誤を問題とする真理とは無関係です。

買い物に行け。(個人の命令)
人殺しは死刑にせよ。(道徳律・倫理規範・法律=社会の支配者の命令)
などは命令文です。このような道徳律や倫理規範などの命令文だけが、従うか従わないかという実践の問題になります。真理はただ真実を述べるものですから、理解するか否かという問題になります。真理は、実践するものではなく、実践できるものでもありません。


(5)釈迦とイエス

人類2000年の歴史でも否定されることのなかった釈迦・キリストの説かれた神理・・・
インド宗教史・思想史における諸学派のブッダ批判はひとつもめずらしくありません。釈迦の思想はインドでは否定されました。また、イエスはごく初期の時代のごく少数のユダヤ人達を除いて、ユダヤ人達に「キリスト」(救世主たる王)として受け入れられることはありませんでした。イエスはユダヤ人達に否定されました。近代ヨーロッパでもニーチェはイエスを否定しました。このニーチェの思想は今でもヨーロッパで大きな影響力をもっています。日本では、キリスト教が伝えられて450年がたちましたが、日本でのクリスチャンの数は総人口の1%にもなりません。日本人もイエスの思想を否定したと言えるでしょう。

ブッダは神への信仰を否定しましたが、イエスにとっては神こそが救いをもたらすものでした。それゆえ、本質的なところで、ブッダの思想はイエスの思想を否定し、イエスの思想はブッダの思想を否定しています。イスラム教徒はブッダの思想もイエスの思想も受け入れていません。ヒンズー教徒はイスラムの思想もブッダの思想もイエスの思想も受け入れていません。ブッダもイエスも「人類2000年の歴史でも否定されることのなかった」などとは、とても言えないと思います。


(6)批判の公平さ

釈迦・キリストの説かれた神理を超える素晴しい神理を、佐倉さんは発見したのかもしれません!!この日本から、今までの宗教を凌駕する大世界宗教(哲学)が生まれる可能性もあります。・・・
批判をするなら例外を設けるべきではないことを勧めただけです。