はじめまして。自称「神理の番人」です。最近このコーナーを発見し、取り急ぎ中を読ませていただきました。佐倉さんはとても実証主義の方らしく、その大変な仏教文献に対する研究ぶりに感心してしまいました。まだじっくりと詠んでいないのであまり偉そうなことは言えませんが、その中で一つだけ言及しておきたいと思ったことがあります。本筋から少しはずれるかもしれませんが、それは高橋俊彦さんという信者に代表される幸福の科学という団体について、また「信仰」の持つ危険な点に関してです。(勿論高橋さん御自身にも詠んでいただきたいのですが・・・・)

 実は私は幸福の科学の信者と職員をたくさん知っており、また会の昔からの活動内容も十分に知っています。しかしこの会の実態を知るにつけ、いわゆる宗教団体の持つ危険さと大きな矛盾点に気がつきました。そしてこの部分をある程度明らかにしておくことで未だ実態を知らない人たちへのワクチンとすべきではないか、それが少なくとも実態を知った者の義務ではないかと強く感じています。「義を見てせざるは勇なきなり」・・・・私は神理を守る立場から、幸福の科学に対してはきちんとした態度を示さなければならないと考えています。そこで取り急ぎ佐倉さんや他の方々の何かの参考になればとこのメールを送らせてもらいました。

(1)会員の姿  幸福の科学の会員には、他の宗教団体同様にまず悪い人はいないでしょう。皆さん熱心に「仏のため」にそれなりに頑張っているように見えます。しかしその実態は「金太郎飴」になっていると云わざるを得ません。佐倉さんは以前高橋さんの言われているところをもっと理解するために、幸福の科学の支部長さんとも何回かお話を交わし、その結果として「(1)幸福の科学の信者は、いわゆる伝統的な仏典はあまり読まない(2)幸福の科学の信者の仏教理解は、大川さんの仏教理解をそのまま仏教の教えであると考えておられるらしい」と結論づけておられましたが、慧眼恐るべし!実態はまさしくその通りなのです。

熱心な信者はともかく大川総裁の著書を丸暗記するほど詠み、それ以外の本はほとんど読まないのではないでしょうか。だから例えば仏教のある論点に対する解釈も、すべて大川総裁の話とおりに解釈しますので、結局どの信者もしゃべる内容は同じ(大川総裁のコピー)になります。そして本来個性あふれる人たちの集まりのはずなのに、全員大川総裁の話の内容をただ繰り返すだけの、主体性を放棄した金太郎飴集団となっているようです。したがって大川総裁の本を読んでいれば、幸福の科学の信者はこの問題にはこう答えるだろうなということが、容易に推測できてしまいます。しかし残念ながら総裁の本に書かれてあること以外の質問などには、まったく太刀打ちできないはずです。「教義を鵜呑みにして頑張っている真面目だが頭の固い人達」・・・・、これが私の会員に対する印象です。(しかし内容が良ければ金太郎飴でも構わないのでは、という意見もあるかもしれませんが、事はそう単純ではありません。これについては後述します。)

(2)信仰の形  幸福の科学では、大川総裁に対する三宝帰依が最高の信仰形態であると説かれています。そして「素直な」会員たちは、それを信じ切っています。それ自体は別に構わないのですが、問題はそれが中道を外れて行き過ぎると簡単に盲信となり、もはや大川総裁(=幸福の科学=自分)以外には真実の教えはないと思い込んでしまうことです。こうなるとキリスト教さえもカルトにしてしまうように、幸福の科学の教え以外の宗教は皆間違いであり、邪教は悪魔に憑依されていると信者の皆さんは単純に思ってしまい、異なる意見の人にはまったく耳を貸さなくなります。だから私も体験させられましたが、幸福の科学以外にも神理はあるという人は、悪魔に見入られているとまで決め付けられてしまい、信者は自分からは二度と会おうともしなくなります。しかしこれではどう見てもただのカルト教団と同じではないのでしょうか。しかしこのような行為が幸福の科学の信者にとってはごく普通の行為であることを、高橋俊彦さんの選択した行動を具体例として見てみましょう。

(例)高橋俊彦さんは「もし将来佐倉氏が『仏教から得るものが沢山あります。』という見解に変わったならまた議論をしたいと思います。そのときはメールください。」という言葉を最後に突然話の中断を宣言しました。しかもおまけに「私のように『仏教は学び尽くせないほどの智慧の宝庫である』と思っている人と『仏教からは何も得るものがない』と思っている人との議論が成り立つか…・・不毛な議論になる可能性が高い」と、悪いのはすべて相手のせいにしています。佐倉さんの「どこでそのようなことを言ったのか」という質問にもその後答えることなく(と思う)、一方的に無視の姿勢を決め込んでいるようです。しかし私の印象では「高橋さんは初めは自分が学んだ仏法真理で打ち負かせると自信満々で出てきたが、幸福の科学以外の仏教に関する文献の学習をしていないために佐倉さんの論点を崩すことができなかった。仕方ないので取り敢えず悪いのは佐倉さんのせいにしてブライドを保ち、一方的に対話を中断せざるを得なかったのだ」と受け取れました。

この高橋さんの行動に端的に表されているように、幸福の科学の信者は自分の方が不利になったり話が分からなくなった場合には、自分の立場を守るために対話を自ら拒否してしまいます。しかし高橋さんの立場からすれば、本来佐倉さんのような「無霊魂説という無明に陥っている人」を救うのが幸福の科学でいう伝道(最大の愛の実践)のはずです。また悪魔に見入られた人がいるのであれば、仏法真理と知恵の力で正しい道に導いてあげるのが伝道の使命ではなかったのでしょうか。大川総裁は、難しい相手や悪魔からは逃げよとでも教えているのでしょうか・・・・?このように熱心な信者は日頃「愛の実践の大切さ」を学び、人に対しては口に出して言っていますが、そういう信者に限って自分では愛の行為ができず、それどころか相手を拒否するという全く正反対の行為をしているという矛盾に全く気がついていません。 この原因はすべて信仰形態にあります。幸福の科学の三宝帰依とは言葉を変えると仏に対する「一仏教」であるため、必然的に他の神は信じないという邪見の要素がセットになっています。そして現在仏(大川総裁)が出ているので、「仏=仏法真理=幸福の科学=自分=絶対に正しい」という恐ろしく単純かつ傲慢な考え方の虜となってしまいます。だから高橋さんがいくら「私はブッダを信仰している、・・・アビダルマは無霊魂説を信じ、・・・・そこから一体どのような自分作りができたのでしょうか。私には疑問です。」などと書いたとしても、それは自分の行動と矛盾しているとても身勝手な口先だけの話ではないかと感じてしまいます。 イエス=キリストが「その木が良い木であるかどうかは実を見ると分かる」といみじくも喝破したごとく、幸福の科学が本当に仏の教えか否かは、信者たちの思いと行いを観察していると分かります。残念ながら信者の実態は、愛の行為とは大きくかけ離れているようです・・・・。

(3)宗教判別の最大のポイント  宗教を判別するための最大のポイントは、「何を信じるかではなく、何を行っているか」にあるのではないでしょうか。世の宗教者が変に思われる原因は、口では良いことを言うのにその行動が常識はずれで変だからです。だからこれは渡部昇一氏も指摘していることですが、日常生活でその人が本当によくなるのであれば、その信じている教えは正しいと判断できます。まさしく二千年前のイエス=キリストは、宗教の本質をするどく認識していたのです。だからいちいちその宗教の教義を調べなくとも、宗教の信者の言動を観察することでその宗教の正邪を判別することができます。(これが内容が良ければ金太郎飴でも構わないのでは、という意見に対する解答です)

このことは釈迦の八正道を基にして考えても理解できます。つまり人の悟りの修行とは「正見→正思→正語→正業→正命→正精進→正念→正定」とつながっていますので、他人からも容易に判別できる「正語→正業→正命」の部分で何か常識をはずれた所などがあれば、それは本人がどう思おうとも「正見→正思」の部分で既に勘違いをしているということの論理的な証明となります。そしてその行き着くところは、そもそも出発点である「正見」が、実は「邪見」であったということになり、邪見を基盤とした「信仰や三宝帰依」とは、単なる「盲信」にしか過ぎなかったのだという結論が論理的必然として導かれます。このように、「信仰」とはその中味が見えないだけに大変に難しい問題と思えますが、その人の言動を観察することで「信仰」の中味が簡単に分かります。

幸福の科学では信者に対して、仏(大川総裁)に対する信仰を強調しています。だから信者たちはささいな疑問などに対しては「マイナスの発想、信仰に反する」ということで見て見ぬふりをし、くさいものに蓋をして自分の思考と判断を放棄・停止し、だんまりを決め込みます。そしてどんな問題が起きようとも、「ブッダが指導しているから失敗するはずがない、すべて承知の上で行っている。」と自分に言い聞かせます。しかしこのような「信仰」が果たして本物の信仰であるかどうかは、常識のある人から見れば一目瞭然だと思います。

◎宗教や信仰は素晴しいものだと私も思います。しかし中道をはずれると信仰も盲信となります。究極の神は宗教など作りませんでした。この点を良く考えて、あらゆるこの世に表われる宗教はすべて「方便」として表われている、そして絶対化できる宗教などはどこにもないという点を幸福の科学やその他の宗教の信者は良く認識して、謙虚に神の望まれる生き方を求めて努力していく必要があるのではないでしょうか。特に幸福の科学と信者たちは今のような考え方を早く改めないと、縁起の理法からしてそのうちに反作用が来ると知るべきではないでしょうか。

最後に、宗教の判別方法は、宗教以外の人達にも同じように有効です。どんな思想を「信じ」ようとも、それによってどのような生き方ができるようになるのかという点が大切だと思います。釈迦は「どんなに祈っても、石は沈み、油は浮く」と言いました。同じように、どんなに「神や仏」を深く信じても自分勝手な人は地獄へ行き、「あの世」など信じなくても誠実に生きた人は天国へ行くことでしょう。是非佐倉さんには「無我」を学んだ結果としてどのように生きようと思ったのかという点を、いつか日を改めておうかがいしたいと思います。ありがとうございました。

イエス=キリストが「その木が良い木であるかどうかは実を見ると分かる」といみじくも喝破したごとく、幸福の科学が本当に仏の教えか否かは、信者たちの思いと行いを観察していると分かります。残念ながら信者の実態は、愛の行為とは大きくかけ離れているようです・・・・宗教を判別するための最大のポイントは、「何を信じるかではなく、何を行っているか」にあるのではないでしょうか。世の宗教者が変に思われる原因は、口では良いことを言うのにその行動が常識はずれで変だからです。だからこれは渡部昇一氏も指摘していることですが、日常生活でその人が本当によくなるのであれば、その信じている教えは正しいと判断できます。まさしく二千年前のイエス=キリストは、宗教の本質をするどく認識していたのです。だからいちいちその宗教の教義を調べなくとも、宗教の信者の言動を観察することでその宗教の正邪を判別することができます。
わたしは、このような考えに同意することはできません。悪人であるからといって、かれの信念や主張が間違っているとは限りません。善人であるからといって、その信念や主張が正しいとは限りません。ある教えが人を善人にしたり幸福にしたりするからといって、その教えが真理だとは限りません。ある教えが人を悪人にしたり不幸にしたりするからといって、その教えがまちがっているとは限りません。

真理でもない嘘が、人をして善行に向かわせたり、幸福にさせたりします。真理を知ることが、人をして悪行に向かわせたり、不幸にさせたりします。真理は美しいものとは限りません。非真理は醜いとは限りません。真理を知ることは、しばしば人をして絶望や落胆をもたらします。非真理はしばしば、人に希望と夢を与えます。いや、人に希望と夢を与えるために、あるいは人を幸福にするために、非真理が真理であるとしばしば説かれます。それだけでなく、自らの信念が真理であると自分にも他人にも説得させるために、人はあたかもその信念がその人を善人にしたかのように、また幸福にしたかのように、振る舞おうとさえします。だから、人を善人にする、人を幸福にする、というだけで、その人の信じている内容が真理であるとは断定はできません。病院や学校を建て、貧者を救い、弱きものを助ける、穏健な善人活動を行う善人であるが故に、その思想の虚偽性が疑われることを免れている、というのが人間社会の現実です。

さらにまた、善と悪、幸福と不幸の判断は、単なる社会的通念に過ぎず、絶対的なものでもありません。たとえば、オウム真理教が殺人を犯しても、それはわたしたちの社会通念における善悪の基準からみて「悪い」だけであって、絶対的に悪いかどうかは定かではありません。信仰の観点から見れば、宗教的規範は社会的規範の上位にあるはずだからです。世間の目からどのように思われようと、宗教的規範に従って行動するのが、信仰の観点から見れば、正しいはずです。

社会通念における善悪の基準など、いつでも、ひっくり返ります。ほんの少し前までは、朝鮮半島や中国大陸を日本の支配下におくための殺人に協力することは善だったのです。したがって、わたしたちは、社会的通念にもとずいた善悪や幸不幸の判断を絶対化することはできません。もし、わたしたちの善悪・幸不幸の判断が絶対的なものでないとすると、「日常生活でその人が本当によくなるのであれば、その信じている教えは正しいと判断」することなど、できないことになるはずです。

このように、(1)ある教義が人を善人にするとか幸福にするというようなことは、その教義が真理であることの証明にはならないこと、(2)人の行動の善悪・幸不幸の判断は、たよりにならないわたしたちの社会的通念に過ぎないこと -- この二つの理由で、

「その木が良い木であるかどうかは実を見ると分かる」・・・宗教の信者の言動を観察することでその宗教の正邪を判別することができます。
というご意見には、同意できません。

また、ナザレ村のイエスやシャカ族のゴータマ・シッダールタの言ったことがすべて正しかったかどうかは疑問です。イエスを「キリスト(救済主)」あるいは「神の子」としたり、ブッダを「如来(完成した人)」としたのは、信者です。しかし、わたしの知る限り、人間はだれでも不完全なものであり、イエスやブッダが例外だと信ずべき根拠はどこにもありません。信者はいつでも教祖をはなはだしく過大評価するものです。それは幸福の科学に限ったことではないと思います。イエスの言葉だから、というだけで多くのクリスチャンは盲目的にそれを真理だと思い込んでいます。ブッダの言葉だから、というだけで多くの仏教徒は盲目的にそれを真理だと思い込んでいます。もし、幸福の科学の信者たちの大川教祖への過大な思いこみが批判されるのなら、クリスチャンのイエスへの過大な思いこみも、仏教徒のブッダに対する過大な思いこみも、同じように批判されるべきだと思います。

たしかに、人間の様々な主張の中で、それが、ある特定の人間やその言葉を、絶対化したり神聖化するとき、そしてその主張が人々を動かし、社会を動かす大きな力を持つようになるとき、その主張を吟味することなく無視することは、歴史を振り返るとき、決して賢哲な判断とは思えません。そのため「番人」の仕事も大切だと思います。ただ、それが、新興宗教バッシングにならないように気をつけなければ、たんなる既成宗教団体の道具にすぎません。「番人」が公平さを欠くとき、それはもう「番人」ではなくなります。世間に認められている人々(イエス、ブッダ、空海、親鸞、道元、日蓮、等々)の宗教さえも批判する勇気が必用だと思います。

おたより、ありがとうございました。