笠原 祥です。ご回答ありがとうございました。


(1)事実問題(魂の有無)と実存的決断(信仰)

わたしは誤解しているのでしょうか。むしろ、わたしが理解しているように、笠原さんは「霊魂の有無」といった事実問題に関して、「有り」という個人的判断を下しておられるのではないでしょうか。

これは、事実の読み違えなどという生易しい認識上のあやまちではなく、根本的なあやまち(笠原さんの言葉で言えば「愚の骨頂」)です。

誤解されていると思います。 私は、どの宗教団体にも入っておらず、信仰ももっておりません。宗教の最大の過ちは、自分たちの教祖を神格化したり、教義を絶対的な真理と位置づけるところにあります。ですから、ものみの塔や幸福の科学には批判的な立場です。また、その裏返しである共産主義も典型的な宗教のひとつだと思っており、同様に批判的な立場をとります。 私は、佐倉様があまりに断定的な表現をされるので、それは一つの視座であって、それのみを正しいとすることも同じ過ちを犯すことになりますよと、申し上げたいのです。

私は「わからない」ものに対して、絶対にそうだとか、絶対に違うとかという断定することをよしとしません。断定することは無限にある視座をひとつに絞ることであり、教義を絶対的な真理と位置づける宗教と何ら変わりがありません。 繰り返しになりますが、私の欲求は単に「より善く生きたい」というものであり、「在って欲しい、在って欲しくない」という類のものではありません。在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。

これは形而上学の問題であり、事実問題ではありませんから、答えは誰にもわからないのです。わからないものを判断することなど出来ませんが、仮定することは可能です。私にとって仮定とは、可能性が高いということであり、100%そうだと判断しているわけではありません(他の視座を否定するわけではありません)。そして、何故そのように仮定するのかという理由をこれまで述べてきたのであり、その理由もまた正誤の判断は不可能です。 しかし、正誤の判断は不可能でも「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないというのが私の主張です。 私がそのように仮定すること(佐倉様によれば判断を下すこと)により、私自身にどのような問題が生じているのでしょうか?佐倉様から「これは、事実の読み違えなどという生易しい認識上のあやまちではなく、根本的なあやまち(笠原さんの言葉で言えば「愚の骨頂」)です」と批判されなければならないほどの問題とは、具体的に何でしょうか?

逆に、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、「まったく愚かな教え」と断定することこそ、証明不可の形而上学問題に対する何の根拠も無い判断であり、体温を体重計で測ることに他ならない行為ではないでしょうか。


(2)心の正体

われわれは、親にとっての子であり、妹にとっての兄であり、女にとっての男であり、患者にとっての医者であり、家主にとっての借家人である。これらの「子」とか「兄」とか「男」とか「医者」とか「借家人」とかの属性の総合がすなわち自我なのであって、自我という芯が別のところに実体として存在していて、これらの属性を付加的にもっているというのではない。これらの属性を一つ一つ剥いでいけば、玉ねぎの皮をむくように、自我はなくなってしまう。

全く理解出来ません。関係性が無くなるのはわかりますが、何故心(自我?)が無くなってしまうと断定できるのでしょうか? これらの属性を一つ一つ剥いでいけば、何もなくなってしまうのですか?この世に生を受けた人間の心が、肉体を残したまま消滅してしまうことなど想像すら出来ません。それをどのように証明したのでしょうか?


心がその人に内在しておらず、関係性によって生起するならば、一人一人が有する個性はどのように考えればよいのでしょうか?

人はだれも、一卵性双生児でさえも、同じ時に同じ場所を占めるわけにはいかないのですから、すべての人の世界との関わり方は必然的に異なっています。似ることはできても、同じであることは不可能です。関係性は個性の相違と相似の両方を同じ原理のもとで説明することができます。

つまり、同じ時に同じ場所を占めて同じ関係性を有すれば、同じ心(同じ個性)になるというわけですね?しかし、人の遺伝子情報は一人一人異なっております。同じような環境にあっても、うつ病になる人もいれば、全く平気な人もいます。人の心を関係性だけで論じようというのは無理があり、とても説明することなど出来ないと思いますが?


他人との関係を持たない状態、例えば部屋でひとり思索している時の自分の心はどのように説明されるのでしょうか?

交渉を絶っていることは、関係がなくなることではなく、世界との関わり方のある特殊な一形態にすぎません。それに、他者との関係をまったく築いたことがなければ(たとえば生まれつき、独房に放り込まれているだけなら)、人は言葉を知らず、言葉を知らなければ、思索することなどできません。他人と語り合うことを経験したものだけが、自問自答(思索)をおこなうことができるからです。

部屋でひとり思索している時の自分は、属性を一つ一つ剥いでいった裸の状態です。この時には、玉ねぎの皮をむくように心も無くなってしまうのではないのですか?矛盾しているように思えますが?


前にも指摘しましたが、わたしたちがよくわからない現象X(心)を説明するために、それ(現象X)についてよりもわたしたちがもっと知らない(実は何も知らない)Y(心の実体、魂)を持ってきて「説明」しても、知らない現象X(心)についてのわたしたちの知識を何ひとつ増やすことにはなりません。無知によって「説明」された事柄は、まだ何も説明されていないからです。

わたしたちがよくわからない実体X(心)を説明するために、それ(実体X)についてよりもわたしたちがもっと知らない(実は何も知らない)Y(心の現象)を持ってきて「説明」しても、知らない実体X(心)についてのわたしたちの知識を何ひとつ増やすことにはなりません。無知によって「説明」された事柄は、まだ何も説明されていないからです。

とも書けます。心は、実体なのか現象なのかは証明出来ませんし、私の心の現象は、佐倉様には把握することが出来ません。何故なら心の現象を定量的に測るものがないからです。


「なぜこんな性格をしているのか、こころがそんな性格をしているからだ」というのは説明ではありません。 それに比べて、人の世界との関係というものは、もちろん複雑ですべてを知るわけにはいきませんが、わたしたちはそのいくつかを観察したり、比べたりすることができます。雷の正体は、雲の上の住人が太鼓を叩いているのではなく、物質と物質の相互関係から生じる放電現象にすぎないことを、科学が見破ったように、心の正体は、内在する住人(実体)ではなく、さまざまな依存関係による生起(現象)であることを、ブッダや現代の精神分析学は見破ったのだと思います。

そのいくつかを観察したり、比べたりすることだけで、「心の正体は、内在する住人(実体)ではなく、さまざまな依存関係による生起(現象)である」と断定することこそ、愚かなことに思えませんか?見破ったなどというのは妄想であり、「わからないことはわからないとする」ことこそが、真摯な態度だと思いますが?


(3)価値の関係性

一切の主体者が存在しないのであれば、価値を失うことも、価値が無に帰すこともありません。価値の主体があって初めて価値を云々することに意味があるからです。

価値にはいかなる実体もありません。主体者と対象物との間で絶えず変化する相互関係によって生じる一つの現象(仮の存在)にすぎません。価値の正体が実体ではなく関係であることをしっかりつかんでおられたら、価値の主体者が存在しないところで価値を云々するという、大きなあやまちを犯されることはなかっただろうと思います。

残念ながら、「人生の価値」を「物の価値」で説明されようとしているところに致命的な誤りがあります。 「人生の価値」は人間の内的価値であり、「物の価値」は外的価値です。 外的価値は、主体者が消滅した時点で「その主体者にとって、対象物の価値を云々すること」はナンセンスなことになります。何故ならば、「物の価値」では、その人とぬいぐるみというように、価値の主体者と対象物とが独立して存在しています。この場合には、主体者が消滅しても、外的価値である「ぬいぐるみ」は残ります。つまり、「ぬいぐるみ」は存在しているのですから、その価値が消滅したのではなく、主体者との関係性が消滅したのです。関係性が消滅したから、それについて云々することはナンセンスなのです。 しかし、「人生の価値」の場合は異なります。人生は主体者の行為であり、経験であり、努力の結果であり、懸命に生きてきた軌跡でもあります。このように人生は、主体者と独立して存在しているものではありませんし、主体者と対象物の間の相互関係によって生じた価値でもありません。主体者が存在している限り、主体者の人生も存在していますが、主体者が消滅すると人生も一緒に消滅します。つまり、主体者の消滅とともに、その人の人生での懸命な努力も消えてしまい、その人の人生が意味を失ってしまうのです。これは、たいへん重要な命題であり、ナンセンスだと思考停止して誤魔化す類の問題ではありません。


(4)自我の思想と死後の世界

「自我の思想」と「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」の間には、それを結びつける必然性は何もありません。

「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」こそが「自我(霊魂)の思想」を生んだのだと思います。死後における自分の運命を心配しなければ「自我の思想」など生まれるはずはなく、いったん生まれた「自我の思想」も、それを必要とする動機が人間の内側から消滅するとき、自然消滅します。

これも佐倉様の勝手な思い込みであって、万人に当てはまるものではありません。 全体を通して感じることですが、何故そのように決め付けようとされるのでしょうか?人はそれぞれ異なった個性を持っており、異なった考え方をするものです。それを無理やり自分の思考の枠の中に入れようとされるところに無理を感じます。 人は、今という一瞬しか生きることが出来ません。従って、今を如何に生きるかということが、重要な命題となりますが、それはまた私にとって、人生の意味を問うことでもあります。つまり、私は人生の意味を問うことによって「自我(霊魂)の思想」に思いを馳せたのであり、「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」をしたのではありません。また、「自我(霊魂)の思想」によって導かれるのは、「死後における自分の運命がどうなるかを心配する生き方」ではなく、後述するように「自分を高めようとする生き方」です。


自己というものを内在する実体と捉える者にとっては、自己の死とは「自己が無と帰すかどうか」という問題にしかなり得ないでしょう。

これもまた、独断であり何の根拠も無い決め付けにすぎません。 「自己が無と帰すかどうか」は、人間である限り誰もが一度は考える問題であり、自然にわいてくる疑問です。 自己というものを内在する実体と捉える者にとっての最大の問題は、如何に自分自身を成長させるかであり、死は問題になりません。永遠に存続すると仮定すれば、永遠に成長できる喜びがあり、死は単なる通過点にすぎないのです。今という一点は、その成長曲線の一点であり、その曲線の微分値(傾き)が問題となります。今をより善く(良く)生きることが右肩上がりの傾きを保つことであり、一度右肩下がりの傾きをもってしまうと、もとのレベルに戻すことさえたいへんなエネルギーと時間が必要になります。 「死後における自分の運命がどうなるかを心配する」ことは、自己というものを内在する実体と捉える者にとっても、愚の骨頂なのです。



(1)事実問題と実存的要請

誤解されていると思います。

それでは、この問題をすこし分けて、わたしの理解するところを述べてみますので、それぞれの部分において、どこでわたしが笠原さんを誤解しているのか、示していただけたら幸いです。わたしの理解が間違っていましたら訂正いたします。

(ア)まず第一に、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、一方では「どちらかわからない」(証明できない)といわれながら、他方では「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。

「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して・・・「死して無に帰する」と考えること[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日

[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。(8月14日

[人間は死後も生き残る]可能性が高い・・・(今回)

つまり、笠原さんは、「人間は死後も生き残るのか」という問いに対して、個人的には、「人間は死後も生き残る」と思っておられます。(この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)

このように、笠原さんは、一方では、「どちらかわからない」と大々的に表明しておられますが、この「どちらかわからない」という立場と、一見矛盾しないように見える巧妙な言い方(「仮定」)を駆使して、実は、一つの答え(「人間は死後も生き残る」)をちゃんと選択しておられます。この笠原さんの二重の立場はひじょうに興味深く、さらなる解明を必要とします。

「わからないけれど、信じる」という立場は宗教ではめずらしいものではなく、人間には知識だけでなく信仰も大切であるというのが伝統的に宗教の主張です。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人は、この信仰の故に神に認められました。

(新約聖書、ヘブライ人への手紙 11:1)

解し得ざることを信ずる。これを信仰という。・・・解し得ることを信ずるは知識にして信仰にあらず。

(『内村鑑三 文明評論集(三)』15頁)

すなわち、宗教は、信仰そのものを知識とは別の価値として、「信じる」ことの価値を積極的に認めてきました。笠原さんは「信じる」という言葉の代りに「仮定する」という言葉を使われますが、わたしは、笠原さんの立場も、やはり、「わからなくても、信じる」という信仰の立場である、と理解しています。「人間は死後も生き残るのか、生き残らないのか」、どちらかわからない、ということを認めながら、「生き残る」という答えを選択しておられるからです。

仮定と信仰はどちらも、真実かどうかわからないことがらを課題とすることにおいて共通するところがありますが、仮定と信仰は次の点で根本的に異なるものです。すなわち、仮定は推論のためのさまざまな可能性にすぎませんが、信仰はコミットメント(実存的決断、選択、賭け)を伴います。たとえば、無神論者でも神が存在することを仮定します。「もし神がいると(仮定)すると、なぜ神は人間の不幸をほっておくのか理解できない」という具合に。また、有神論者も神が存在しないことを仮定します。「もし神がいないと(仮定)すると、宇宙はどうしてこんなにうまくできているのか説明できない」といった具合に。このように、無神論者が神の存在を仮定したり、有神論者が神の非存在を仮定したりすることが可能なのは、仮定というものにはコミットメント(実存的決断、選択、賭け)が伴わないからです。「仮定」とは、読んで字のごとく、仮に想定してみるだけのこと、だからです。

それでは、笠原さんの立場はどうなのでしょうか。笠原さんの立場はコミットメント(実存的決断、選択、賭け)を伴うものなのでしょうか。この答えは明らかでしょう。繰り返し、繰り返し、笠原さんは、「より良い人生を生きるため」と言っておられるからです。「人間は死後も生き残るのか、生き残らないのか」という問いに対して、より良い人生を生きることができるような一つの答え、すなわち「人間は死後も生き残る」という答えを、笠原さんは選択されておられるからです。だから、笠原さんの言う「仮定」とは、その内実、信仰であると解釈せざるを得ません。

伝統的宗教の立場と笠原さんの立場の違いは、信仰に対する評価でしょう。伝統的宗教は信仰を高く評価してきました。ところが、笠原さんはどうやら信仰を低く評価されておられるようです。そのため、

私にとって仮定とは、可能性が高いということ[です]。
というような文章が返ってきます。こんな文章を読みますと、どんなデータを根拠に、どんな確率計算で、「人間は死後も生き残る」可能性が高いと判断されたのか聞きたくもなりますが、笠原さんは、言葉の普通の意味とは違う意味で言葉を使用しておられるので、これは、要するに、
本当のことはまったくわからないけど、それにもかかわらず、わたしは「人間は死後も生き残る」と信じる。100パーセントの確信はないけれど。
ということだろうと勝手に想像しなければなりません。明確に言ってしまえば、これが笠原さんの立場なのではないでしょうか。(それとも、わたしは誤解しているのでしょうか。)



(イ)次に、笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。

「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (前回

「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来る・・・。(今回)

私は人生の意味を問うことによって「自我(霊魂)の思想」に思いを馳せた・・・。(今回)

「自我(霊魂)の思想」によって導かれるのは、・・・「自分を高めようとする生き方」です。(今回)

つまり、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るので、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えを、事実はわからないと認めつつ、選択されているということでしょう。(どうでしょうか。この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)



(ウ)ところで、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることができるようにといった理由で、「明日の休日は晴天である」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。(これについて笠原さんはどうおもわれますか。)わたしが根本的な過ちを犯していると思うのは、たとえば、

在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。
と、笠原さんも言われるように、事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、落ち込みたくないとか、今日を前向きに生きたいというような理由で、「明日は晴天になる」と予報しているからです。

もし、誤りが、気象データの読み違いから生じたものなら、それはおなじ過ちではあっても、「根本的な」過ちとは言えないでしょうが、「明日は晴天になる」という予報が、個人の実存的要請(そう考えれば今日を前向きに生きることができる、というような理由)からおこなわれたのなら、まさに、体重を量るのに体温計をもってするような、根本的な取り違えの過ちだと言わねばならないでしょう。



(エ)同じように、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択するのは、大きな過ちと思われます。事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択しているからです。

もし、誤りが、たとえば死後の世界に関するデータ(そんなものがあればの話ですが)の読み違いから生じたものなら、それはおなじ過ちではあっても、「根本的な」過ちとは言えないでしょうが、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えが、個人の実存的要請(そう考えれば人生を前向きに生きることができる、というような理由)から出されているとしたら、それは、まさに、体重を量るのに体温計をもってするような、根本的な取り違えの過ちだと言わねばならないでしょう。



以上、いままでも述べてきたことを、今回はいくつかに分けて順番に、わたしの理解するところを述べました。どの点においてわたしが誤解をしているのかを指摘していただいて、もし誤解が明らかになれば、わたしも自分の誤解を正したいと思います。

(補足)なお、以上のことに関して、一つだけ補足してみたいと思います。もし、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、「明日は晴天であって欲しい」と強く願ったり、「明日を晴天にしてください」と祈願するだけなら、それはほほえましい人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「わたしの人生が無駄になってよいはずはない、だから、明日は晴天になるはずである」、というふうに言い張るとき、つまり、個人の実存的要請を理由に事実問題の選択を行うとき、この根本的な過ちが生まれるのだとも言えるでしょう。

同様に、もし人間が死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きることができないので、「人間は死後も生き残る存在であって欲しい」という願いをもつだけなら、それは納得できる人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「人間は死後も生き残ると考えなければ人生を前向きに生きることができない。だから、人間は死後も生き残るに違いない、あるいは、その可能性が高い」、というふうに言い張るとき、つまり、個人の実存的要請を理由に事実問題の選択を行うとき、この根本的な過ちが生まれるのだとも言えるでしょう。


(2)価値の関係性と価値の歴史性

「人生の価値」は人間の内的価値であり、「物の価値」は外的価値です。・・・主体者の消滅とともに、その人の人生での懸命な努力も消えてしまい、その人の人生が意味を失ってしまうのです。

価値の評価者たる価値の主体者が消滅している場で、人生の価値評価は不可能でしょう。一体誰にとって無価値(無意味)なのでしょうか。一体誰が無価値(無意味)であると評価するのでしょうか。「ぬいぐるみ」の価値も「人生」の価値も、やはり、誰か(自分や他人や後代の人々)にとっての価値です。価値の評価者たる価値の主体者がなければ、「ぬいぐるみ」であろうが「人生」であろうが、いかなる価値評価も成立しません。したがって、誰もいなくなれば、「ぬいぐるみ」や「人生」の価値が無くなること(誰かがその価値がゼロであると評価をすること)はありえず、そのときの価値は云々すること事態が無意味になると言わねばならないでしょう。これは、「思考停止」ではなく、価値評価者が存在せず、よって、価値評価が不可能となれば、ものや人生の価値を云々するための価値文が成立しない(意味をなさない、ナンセンス)、という明々白々な論理的必然です。

言うまでもないことだと思いますが、自分の人生が自分にとって無価値であっても、他人にとって無価値であるとは限りません。その逆も真です。そして、個々の人生というものは(衣食住から思想や芸術やレジャーやにいたるまでの)文化の遺産や、さまざまな人間関係を通して、その人々が亡くなった後々まで、後の世の人々にとっての価値となりえます。

さらに、価値が成立するためには、価値の主体者とその対象だけでなく、価値の期間(t>0)が必要です。

あるものaは、ある期間tにおいて、ある価値主体者Aにとって、X量の価値がある。
人生であろうがぬいぐるみであろうが、ものの価値とは、あるとき(t1)はその価値があがり、他の時は(t2)その価値が下がる、といった具合のものであって、未来に(t3)価値がなくなるとしても、他の時(t1、t2)に価値があったという事実が消えるわけではありません。短い出会いも、小さな努力も、それぞれの時に、それぞれの人々にとって、それぞれの価値があるのであって、その事実はひとつとして消えることはありません。価値とは歴史的出来事のことだからです。


(3)その他

人はだれも、一卵性双生児でさえも、同じ時に同じ場所を占めるわけにはいかないのですから、すべての人の世界との関わり方は必然的に異なっています。似ることはできても、同じであることは不可能です。関係性は個性の相違と相似の両方を同じ原理のもとで説明することができます。

つまり、同じ時に同じ場所を占めて同じ関係性を有すれば、同じ心(同じ個性)になるというわけですね?しかし、人の遺伝子情報は一人一人異なっております。同じような環境にあっても、うつ病になる人もいれば、全く平気な人もいます。

「同じような」(相似)ではありません。「同じ時に同じ場所」(同一)です。「同じ時に同じ場所を占めて同じ関係性を有すれば、同じ心(同じ個性)になる」でしょう。もし、二つの人物やものが、完全に、同時に同じ場所を占め続けることができるとしたら、わたしたちは、それらを二つのものとして区別することができず、同一人物、同一個性、同一物として取り扱う以外にないからです。

人であっても、ものであっても、遺伝子であっても、精子であっても、卵子であっても、原子であっても、素粒子であっても、何であろうと、二つのものが同じときに同じ場所を占めることは不可能です。したがって、いかなるものであっても、他のすべてと異なった仕方で、世界と関わりを持たざるを得ません。二つのものが同じ関係性を持つことは不可能です。したがって、個性が違っているの当たり前であって、説明の必要がありません。

問題は、なぜ、人の性格や行動の間に、相違だけでなく、相似があるのかということです。関係性は、個性の相違だけでなく相似も同じ原理の基で説明します。たとえば、対人恐怖症は日本人に特徴的な神経症と言われていますが、なぜ、欧米では対人恐怖症が少なく、日本にだけそれが著しいのでしょうか。そのような(異なる文化圏や時代の間の)相違と(同一文化圏や時代内の)相似は、関係性によってしか説明することはできないでしょう。


部屋でひとり思索している時の自分は、属性を一つ一つ剥いでいった裸の状態です。この時には、玉ねぎの皮をむくように心も無くなってしまうのではないのですか?

繰り返しますが、交際を絶っているということと、世界との関係が無くなること(そんなことは不可能です)は同じではありません。交際を絶っているというのは、そのようなしかたで、世界と向き合っているというだけです。部屋でひとり思索している時、誰かにとっての「父である」とか「兄である」とか「男である」とか「息子である」とか「生徒である」とか「恋人である」とか「日本人である」とかいう、自分と世界との関係がなくなるわけではありません。とくに思索するというのは、はなはだ社会的な行為(言語使用)であって、日本語を使って思索しているのか、他の言語を使って思索しているのか知りませんが、彼がどっぷりと人間関係の中に浸かっていることを示しています。

わたしは精神分析の専門でも何でもありませんから彼らの立場を代弁することはできませんが、「属性を一つ一つ剥いでいった裸の状態」というのは、ものの例えであって、人間が生まれて通常の人間関係をもつことがなければ自我の成立ができない、という臨床学的事実から推論された状態のことを指すものでしょう。すでに成立した関係(とくに自我の形成に本質的な役割をする家族関係)を変えるのは困難あるいは不可能なことだからです。例え兄が死んでも、死んだ兄に対しての「弟である」という関係は、兄が死んだ後にも、残ります。それは自我(自分とは何であるか)の一部としてずって引きずっていくに違いありません。また、自分が長男として生まれてしまったら、「弟である」という関係を自分の自我を形成する一部として、後から新しく加えることはできません。


そのいくつかを観察したり、比べたりすることだけで、「心の正体は、内在する住人(実体)ではなく、さまざまな依存関係による生起(現象)である」と断定することこそ、愚かなことに思えませんか?

もちろん、放電の原理によって雷という現象が説明できても、「だからといって、雲の上の雷様がいないことは証明できない、雷様は人間の目には見えないのだ」、などと頑張ることもできます。しかし、放電の原理の発見によって、雲の上の住人によって雷現象を説明する必要がなくなるように、仏教の人間分析や現代の精神分析からみれば、人間の中に内在すると空想されている住人(霊魂)でもって、人間の心を説明する必要はまったくなくなるわけです。そして、そのことによって、あるかどうかさっぱりわからないあやしげなものの存在を前提にしてものごとを考えるという愚かなことをする必要がなくなります。



(4)個人的な感想ですが・・・

永遠に存続すると仮定すれば、永遠に成長できる喜びがあり、死は単なる通過点にすぎないのです。今という一点は、その成長曲線の一点であり、その曲線の微分値(傾き)が問題となります。今をより善く(良く)生きることが右肩上がりの傾きを保つことであり、一度右肩下がりの傾きをもってしまうと、もとのレベルに戻すことさえたいへんなエネルギーと時間が必要になります。

これは、ずいぶん、さみしく(他者の欠落)、みすぼらしく(おっそろしく観念的)、しんどく(余裕の欠如)、おもしろみもなく(冒険心や遊び心の欠如)、はなはだ心もとない(無知なる前提)、人生観のように見えます。

なぜ霊魂主義の人生観というものはこんなものになってしまうのでしょうか。想像してみるに、人生の意味や価値を論じるなかで、他者の存在が登場してこないのは、他に依存しないで永遠に自立自存する霊魂を自分の本質と考えるからでしょう。また、人生の意味や価値を論じるなかで、話が「今をより善く(良く)生きることが右肩上がりの傾きを保つこと」というような、おそろしく観念的になるのは、霊魂というものが、「これ」と指し示すことのできるような実在ではなく、単に永遠に存続するということ以外には具体的な内容を全く持たない形而上学的空想の産物にすぎないからでしょう。

人生の意味や価値のすべてを、あるかどうかさっぱりわからないあやしげなものの存在の前提(無知)の上に建てるというのは、はなはだ心もとない人生観のように思えます。 P>