佐倉さんへ

返事、どうも、ありがとう。 先達ては、「同じ味噌ラーメン」ごちそうさまでした。

佐倉さんが、私に返事を書きながら、ある事に気が付かれていないのが私には不思議で為りません。

単刀直入に述べます。

「同じ」ものについて語ることは、「同一性」について語ることに他なりません。

龍樹的に言えば、今現在のラーメンの、一秒前のラーメンは、もはや存在しませんし、一秒後のラーメンは未だ存在しません。

そして同一性は、設定されたものだから、前提とすることも出来るのです。

故に、佐倉さんが、

したがって、味噌ラーメンの同一性は、「絵に描いた『同じ味噌ラーメン』」以上の何ものかである、とわたしは思います。
と、言っているのは、 佐倉さん御自身、釈尊や龍樹が否定したり無意味であると言っていると、引用した、アートマン的なるもの(または実体的なるもの)、そのもの(あるいは、そのバリエーション)への信仰であるとしか私には思えません。

そこで、そのような、ものへの思い込み(信仰)は捨たら如何がしょうか。そうすれば、無常と縁起そして無我、すなわち「空」を識ることが出来るかもしれません。では、失礼。

佐々木 ぴょん吉郎より Eメール cak23720@pop16.odn.ne.jp
ページURL http://www1.odn.ne.jp/‾cak23720/

テーブルの上に置かれた二つのラーメンの間にある関係(似ているが全く別のもの)と、一秒前のラーメンとそのラーメンが少し冷めてのびた今のラーメンとの間にある関係(同じラーメンが変化した)とは、全く異なった「別」の関係です。前者の場合は、たとえその属性(二つのラーメンの質や量)がまったく同じものだとしても、同一のラーメンとは言いません。しかし、後者の場合は、十分経って姿かたちがまったくかわっても(その属性が別のものになっていても)、わたしたちは、同一のラーメンであると言います。だから、わたしたちはラーメン一杯分しか料金を払いません。

同様に、双子はどんなに似ていても、別々の人物です。しかし、一秒前の「わたし」も、一年前の「わたし」も、十年前の若き「わたし」も、やっぱり、同じわたしです。だから、五年前に借金したわたしは、まだ払っていなかったら、五年後の今のわたしが払わなければなりません。借金を借りたときのわたしは、いまのわたしとは別の人物である、と逃げるわけにはいきません。

このように、同一性は、わたしたちが勝手に作り上げたもの(設定したもの、前提にしたもの)ではなく、わたしたちの意図に関係なく、わたしたちが変えることができないように仕方で、一方的に決められているものです。わたしたちは、そこから逃げることができません。これは哲学ではなくわたしたちの日常的経験です。

ナーガールジュナは、このような事実について、次のように述べています。

原因と結果が同一であるということは、決してあり得ない。原因と結果が別異であるということも、決してあり得ない。もしも原因と結果とが一つであるならば、生ずるものと生ぜられるものとが一体となってしまうであろう。また原因と結果とが別異であるならば、原因は原因ならざるものと等しくなってしまうであろう。(中論 20:19、20)
すなわち、一秒前のラーメン(原因)と今のラーメン(結果)をまったく同一のものであるとしても、まったく別々のものとしても、因果関係が成立しなくなる、とナーガールジュナは言います。つまり、ナーガールジュナにとっては、一秒前のラーメン(原因)と今のラーメン(結果)の間には、同一存在でもなく別異存在でもない、ある特殊な依存関係がある、というわけです。それがまさに彼の言う縁起の関係です。

この縁起関係があるために、五年前のわたしと今のわたしは(いろいろな面で異なっているにもかかわらず)「(日常的言い回しで言うところの)同一人物」として結ばれており、そのために、五年前のわたしの借金を現在のわたしが払う義務があるのです。また、わたしたちが、ラーメンの代金を、一秒ごとに払う必要はなく、一杯分だけ払えばよいのも、この縁起関係のおかげです。一秒前のラーメンと今のラーメンがまったく別々のものではなく、(いろいろな面で異なっているにもかかわらず)縁起関係によって「(日常的言い回しで言うところの)同一のラーメン」として結ばれているからです。

わたしはそのように理解しています。

おたより、ありがとうございました。