久しぶりにインターネットを立ち上げ゛ると、私の数回文のメールとそのコメントがホームページに掲載されていたのでうれしくなりました。何度かメールを出しても掲載されなくなったので、もう私のメールは掲載してもらえないのかと思いさびしい気持ちで、インターネットを見なくなっていました。私のメールのコメントを書くためにしばらくいろいろと研究しており掲載するのが遅れたとのこと、恐縮しています。

さて、数回分のメールのコメントがいっぺんに乗り、もちろん納得できないところが多々あるので反論をしたいと思います。また、今までのコメントにも論理の矛盾や勘違い、そしてまだ答えをいただいていない見解が沢山あるので(私から見てのことですので悪しからず)、それも出したくてうずうずしています。しかし、何せそれを全部出すことにすると十数回分のメールになりそうなのでやつぎ早に出してもよいかどうか思案中です。

思案していると、以前佐倉氏が述べていた言葉をふっと思い出し、この議論自体を考え直さなければならないかなあと思いはじめました。佐倉氏の「私は仏教から何も得るものがなかった」というような言葉です。つまり、私のように「仏教は学び尽くせないほどの智慧の宝庫である」と思っている人と「仏教からは何も得るものがない」と思っている人との議論が成り立つかということです。議論は成り立つでしょう。しかし、不毛な議論になる可能性が高いと思います。

そこで少し論点を変えたいと思います。もし将来佐倉氏が「仏教から得るものが沢山あります。」という見解に変わったならまた議論をしたいと思います。そのときはメールをください。そのときはお互いが得たものを共有できるかもしれません。

仏教の大勉強をし、その結果仏教から得るものが何もなかったと結論し、それでもなお仏教を大勉強する人がいるということ。これは私の今回の発見でした。いつもコメントで付き合っていただきありがとうございました。

高橋俊彦

思案していると、以前佐倉氏が述べていた言葉をふっと思い出し、この議論自体を考え直さなければならないかなあと思いはじめました。佐倉氏の「私は仏教から何も得るものがなかった」というような言葉です。

・・・仏教の大勉強をし、その結果仏教から得るものが何もなかったと結論し、それでもなお仏教を大勉強する人がいるということ。これは私の今回の発見でした。

わたしには、「仏教から何も得るものがなかった」などというような言葉を語った覚えは、まったくありません。なんだか、ものすごい誤解をされているような気がします。

誤解は日常茶飯事ですが、意図していることと正反対に解釈されることはめったにあるものではありません。これはわたしにとっては初めての経験です。いったい、わたしのどこのどんな表現から、「仏教から得るものが何もなかったと結論し」た、と高橋さんは断定されたのでしょうか。ものを書く側としては、これはとても興味があります。是非教えてください。

おたより、お待ちしています。