なお、以下のご投稿は渡辺さんからの次の一連のおたよりとわたしの応答の続きです
「自分で悟ること」
「分別思考」
「分別思考2」

(1)鈴木大拙の思想と渡辺さんのご意見

もちろん、渡辺さんは、禅とか哲学とか「一切棚の上に上げて」ご自分の経験を語られているのでしょうが、たとえば、鈴木大拙は、

普通の意識の働きというものは、二元的にできている。われわれの意識の自覚ということは、覚するものと覚されるものと対立している。ここに意識というものが実際に行われるのである。しかしこの覚するものと覚されるものが、一つになった世界に入らないと、神秘的体験というものができないのである。そこで、これに追い込む方便として、この二つになっているものを、二つにならないようにする方法を考えなければならぬ。この方法が公案というものである。その公案の初めの作り方は論理の働きが出来ないようになっているのである。(鈴木大拙『禅とはなにか』)
といっています。それは、渡辺さんが、語られているところとほとんど同じものです。したがって、わたしは渡辺さんのご意見を、この思想の系列のもとにある思想であると捉えています。つまり、ご自分の経験を(たぶん無意識的に)この思想で解釈されているのだろうと思います。
御指摘の通り全く一緒です。彼の言う通りだと思います。

(2)事実の探求ではなく、思想の研究

・・・同じ味噌ラーメンをすすりながら、わたしたちは、その味について、何の困難もなく、いろいろ語り合うことができますが、言語や思考が働き出す以前の状態については、すでに、渡辺さんとわたしのこのやり取りがしめすように、困難を究めています。それは、言語や思考以前には「わたし」と「あなた」は一つであった、という主張が、(ラーメンを食べるというような)経験報告ではなく、神に関する神学上の論議のように、わたしたちの経験のとどかない領域に関する形而上学的な見解にすぎないからだと思います。一方は「神が人間を造った」と主張し、他方は「人間が神を造った」と言い合うような困難が、渡辺さんとわたしとの間には横たわっています。

なるほど。

(3)西田哲学と鈴木禅学

・・・このような思想ができあがったその歴史的な系譜を、わたしたちはある程度探ることができます。この思想が、禅、とくに臨済宗の禅と深く関わっていることは明らかですが、臨済宗から、この思想が直接出てくるわけではありません。この思想は、西田や鈴木らによる、臨済宗の禅のあるひとつの特殊な解釈として生まれてきたものであって、臨済宗の禅者ならば、だれでもこのような思想を持つようになるというわけではないだろうと思います。

私の知っている限りの話ですが、禅と呼ばれている宗派は全て、思考の起きる前を分かってもらおうと必死な努力を続けてきたのだと了解しております。

この思想のもう一つの歴史的系譜は、「西洋思想」に対する「東洋思想」を確立しようとした試みにあります。・・・つまり、彼らの、「論理的・分析的」な西洋思想に対する対抗意識が、極度に非論理的・直感的なものを重視する解釈を臨済禅に対して施す結果とになり、それによってできあがった思想が、西田や鈴木の思想といえるでしょう。
確かに、政治的な問題等が禅にあったことは事実です。それについては、ややっこしくなるのでここでは触れません。(もしよろしければ別に意見交換してもいいと思います。というのは、禅と社会性というのは私にとっても結構悩ましい問題だからです)。ですが、お分かりいただきたいのは、確かに表現としてはそのようなものになったのでしょうが、その背後に流れているものは1000年変わっていないと思います。
西洋的な考え方のなかには見あたらぬ、しかも東洋人はそれ自身も忘れ果ててしまっている、東洋的な見方をはっきり西洋的なものと区別して、これを自覚的に今日の世界に向かって宣揚したところに、鈴木禅学の世界思想史的功績があります。 (秋月龍みん著『鈴木大拙の言葉と思想』)
そう言えると思います。
(4)わたしに経験がない

西田や鈴木の思想はそれなりに一貫していますが、問題は、この思想を構成している主張がどれをとっても、ひとつも明白な事実ではないということです。つまり、言語や思考が「わたし」と「あなた」を分けたのだ、という主張も、言語や思考以前の純粋な世界は「一つである」という主張も、事実としての客観的な根拠がないのです。また、彼らはそれを「純粋経験」とか「神秘的経験」と呼びますが、わたしは彼らがいうような経験をしたことは一度もありません。したがって、彼らの主張は、わたしにとっては、一つのドグマにすぎません。

困ったことです。純粋経験だとか神秘的経験などといわれると、何か特別なもののように思えてしまうのですが、今この瞬間の佐倉さんの体験と紛れもなく同じものであります。違いは、通常思考がそれを認知できないということです。それを認知した時を仮に純粋経験等と呼んでいるだけです。そういう意味では仰々しい名前で人を困惑させていると言えなくもありません。禅者(仏教者)の悩みはここにあります。特別の経験なら、トレーニングのしようもあり、こうすればこうなると言えます。ところが現実には既に体験しっぱなしなのに、それに気づいていないだけです。あまりに当たり前過ぎて気づかないだけです。ある意味では手のつけようがありません。そこで、思考の停止などという、面倒な手段を使わねばなりません。 思考自体は何の問題もないのですが、思考が作り上げたものと、あるがままとの区別が明確についていないので、混乱を起こしているだけなのです。悟り悟りと大騒ぎしても、その区別がはっきりとついて、日常生活で、思考が思考の持ち場を守っていられるかというだけの話です。

しかも、このドグマは、単に客観的な根拠がないだけでなく、おそらく間違っています。先回も指摘したように、思考の存在は言語の存在を前提とし、言語の存在はコミュニケーションの必要性を前提とし、コミュニケーションの必要性は、「わたし」と「あなた」が別々の存在であることを前提としているからです。つまり、言語や思考が「わたし」と「あなた」を別々にしたのではなく、「わたし」と「あなた」が別々の存在である事実が言語と思考を生み出したのだと考えねばならないと思われるからです。
肉体的には別々の存在です。その区別は有用です。しかし、その区別されたものに実体として<私>と<あなた>があることには同意しかねます。バカヤローといわれて腹が立つのは変です。

(5)最後に

わたしに経験がないから他人も経験してない、などと断言することは出来ませんが、わたしの生涯のすべての経験は、一貫して、西田・鈴木の(もろもろのものの真実の姿はひとつであるという)主張に反しており、彼らの主張を支持する経験はわたしにはまったくありません。したがって、渡辺さんの主張が、単に彼らの思想に影響されたものではなく、渡辺さんの独立した経験であり、かつ、だれでも知ることの出来る普遍的な事実であることを、何らかの方法で示して下さると、わたしとしても、たいへんうれしいと思います。

今、その方法はないかと、西洋哲学から接続できぬかとか、個人的に悪戦苦闘しているところです。なんとかしたいのですが力不足のようです。個人的には禅により、随分はっきりとしたのですが(勿論終わりはありませんが)、普通の忙しい人に時間を使ってお寺に通い、合宿して、根気よく続けるようにという訳にはいきません。(逆に佐倉さんみたいな方にはかえってお勧めです。その気になったら御連絡下さい。私の知る範囲でお寺のアドバイスができると思います)

だれでも体験できる普遍的な事実です。理屈でいえば、無分別がなければ分別は生まれる事ができないのです。別の言い方をすれば、迷いが有るのは悟りがあるからです。けっして逆ではありません。そこが素晴らしい処なのです。知的な人々の独占物ではありません。特定の個人の物ではありません。全人類の物です。個人的にしか保証できませんが、心より謙虚に申し上げます。人生というものはそれに気づくか気づかぬかでえらく違ってきます。損得でいうのもなんですが、その方が得です。保証します。今後とも、自分の境涯も深めながら、なんとか工夫して、社会常識となるよう、働きかけの方法を試行錯誤してみようと思っています。


もし、すべてのものは一つである、というような西田・鈴木の思想の主張が、本当に「だれでも体験できる普遍的な事実」ならば、それがなぜ、禅者(のなかのごく一部の人々)という人類全体から見ればきわめて限られたグループの人々によってしか主張されていないのでしょうか。特殊な思想を持った人だけが気づくことのできる「事実」などというものに対しては、わたしは、はなはだ懐疑的にならざるを得ません。

もし神の存在が本当に「だれでも体験できる普遍的な事実」ならば、人がどんな思想もっていようが、否応なしに受け入れざるを得ないはずです。ところが、神の存在を信じる思想を持った人々だけが、「神の存在は事実」であると思いこんでいるに過ぎないのであって、そのような思想を持たない人はそれが事実であるなどとは思いせん。このことは、「神の存在」などというものが客観的な根拠のある事実ではなく、ある特殊な思想に影響された個人的な思いこみに過ぎないことを示しています。

わたしは、「言語や思考以前には<わたし>と<あなた>は一つであった」などという主張も、おなじようなものだと思っています。きわめて特殊な思想を持ったグループに所属する人たちだけが主張している「事実」だからです。それは、「神」と同じように、思想の中にしか存在しない形而上学的な観念に過ぎないだろうと思います。

目や鼻や舌や手の感触の対象とならないものは、心が作り上げたものに過ぎず、それを事実と思いこむことこそ「迷い」である、というのが仏典から学んだわたしの理解するブッダの立場であり、わたしの経験とも一致するものです。

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と 眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(ブッダ、Sanyutta-Nikaya 33.1.3)