思考以外に自己があると思っている…

1)まさに佐倉さんが次の通りおっしゃっている通りです。

考えたり、感じたり、動いたりすることとは別に、独立した「わたし」という主体が有るかどうかはきわめて疑わしく、「わたし」とは、考えたり、感じたり、動いたりすることの総称にすぎない、というのが事実かも知れません。考えもせず、感じもせず、動きもしなくなったとき、「わたし」は死んだと見なされ、「わたし」なるものは消滅してしまうように思われるからです。

蛇足ですが、「わたし」なるものは抽象概念に過ぎません。いわば数字の1とか2と同じです。数字の場合は実体だという錯覚を起こしませんので、心理的な問題は引き起こしません(もっとも、銀行通帳の残高を見て一喜一憂する事はありますが・・・)。


2)以下おっしゃられているのは、感じとしてはその通りですが、同意できません。

(a)

「わたし」とはそのようなものであるに過ぎないとしても、それは無限定に時空 の中に広がっているものではなく、きわめて限定された局部的なものに過ぎないことも明白な事実です。「わたし」は「わたしの」左右の手を自由に挙げたり下げたりすることができますが、同じような自由性をもって「あなたの」手を動かすことは出来ないからです。「わたしの」全経験が、「わたし」とは別に「あなた」があって、「わたし」がきわめて限定的で局部的なものにすぎないことを指し示しています。
思考は手を挙げること下げることをします。思考のとどく範囲は限界があります。手の上げ下げはできても、心臓をコントロールできません。憂うつになったり、腹を立たりをコントロールすることはできません。これは思考の限界です。思考の背後に「わたし」なるものがいて、「わたし」(つまり思考する者)が思考しているというのは仮説です。すると、要点はこうなるはずです。思考する者(わたし)が先か、思考が先か。では思考がなければ思考する者はいるでしょうか?明らかにnoです。このことは何も仏教だ、哲学だなどと他人の言ったことに振り回される必要はありません。論理的にはこれで十分です。

思考する者の不在、それを仮に空、如来、神、無と呼んでるだけの話です。もっといえば、我々のすべったコロンだの日常生活そのものです。さて、思考する者がいないと理屈だけではなく、「なるほど」と(思考が)気づくとどうなるでしょう。気づくまでは、思考の中で(脳味噌の中で)思考する者と思考が分かれていると誤解し、無駄な葛藤を起こしてきました。例えば、不安という思考とそれを排除しようとする思考する者。いわゆる悪い思考(考え)を押さえつけようとする。これは混乱です。そこで絶対なる真理なるものを探し出し、それで混乱を取り除こうとする。それは出来ない話だったのです。さて、その誤解に気づくと脳は活性化し、安定します。おそらくは物理的なネットワークが変化します。(確か、ヘレンケラーは物に言葉があるということが分かったとたんに1ー2週間で性格が全く変化したというような事を読んだ記憶があります)。但し、これらは個々人が検証すべき問題であり、これを超える問題はないと確信します。

(b)

この差別はわたしの思考が勝手に作り上げたものではなく、わたしの思考がどんなに、「わたし」と「あなた」は別々のものではない、と思い込もうとしても、そうさせない厳然たる証拠をわたしの全経験が次々に突き出してくるのです。「あなた」はいつか、思考をやめ、感じることをやめ、うごくことをやめて、死んでいきますが、そういう「あなた」の死を見届けて、「わたし」は、思考し続け、感じ続け、動き続けることができるのです。
思考は、(物理的な分離は当然の事として)まず「わたし」と「あなた」を分けてから、それを統一しようとしますが、それは無理です。思考は区別する事しかできません。時間的には知覚があり、思考がすばやく入ってくるので、意識するとき(つまり思考を働かせる時)には、必ず分別が起きてしまうのです。ですから、知覚してから思考が起きる迄の時間的ギャップを人工的に作り上げ、思考が気づくような状況を作り上げることが方便の効用なのです。

(c)

近代日本の禅系の思想家がよく主張するように、言葉や分別思考が「わたし」と「あなた」をバラバラにしているのではなく、むしろ、どうあがいても「わたし」と「あなた」は別々なものであるという、どうにもならない経験が、人類をして言葉というコミュニケーションのための道具を造り出させたのではないでしょうか。言葉があってはじめて思考が可能ですが、もし、本来「わたし」と「あなた」が別々のものでなかったとしたら、人類の間に言葉が生まれてくる必要もなかったであろうと思われます。

要点は、禅だろうが、有名知識人だろうが、一切棚に上げておいて、思考する者が存在するかどうかが全てです。それがはっきりすれば思考の持ち場、言葉の持ち場が明確になるのではないかと思います。


(1)鈴木大拙の思想と渡辺さんのご意見

もちろん、渡辺さんは、禅とか哲学とか「一切棚の上に上げて」ご自分の経験を語られているのでしょうが、たとえば、鈴木大拙は、

普通の意識の働きというものは、二元的にできている。われわれの意識の自覚ということは、覚するものと覚されるものと対立している。ここに意識というものが実際に行われるのである。しかしこの覚するものと覚されるものが、一つになった世界に入らないと、神秘的体験というものができないのである。そこで、これに追い込む方便として、この二つになっているものを、二つにならないようにする方法を考えなければならぬ。この方法が公案というものである。その公案の初めの作り方は論理の働きが出来ないようになっているのである。(鈴木大拙『禅とはなにか』)
といっています。それは、渡辺さんが、語られているところとほとんど同じものです。したがって、わたしは渡辺さんのご意見を、この思想の系列のもとにある思想であると捉えています。つまり、ご自分の経験を(たぶん無意識的に)この思想で解釈されているのだろうと思います。


(2)事実の探求ではなく、思想の研究

言語や思考が「わたし」と「あなた」を分ける、という考え方には、言語や思考以前には「わたしとあなたは一つ」であった、という前提があります。しかし、そんなことは、わたしたちにとっては、ひとつも明白な事実ではありません。たとえば、テレビの画面に映し出された長野のオリンピック競技をわたしたちが見るように、味噌ラーメンの汁をわたしたちの舌が味わうように、そのように、言語や思考が働き出す以前の状態を経験するわけではないからです。

同じ味噌ラーメンをすすりながら、わたしたちは、その味について、何の困難もなく、いろいろ語り合うことができますが、言語や思考が働き出す以前の状態については、すでに、渡辺さんとわたしのこのやり取りがしめすように、困難を究めています。それは、言語や思考以前には「わたし」と「あなた」は一つであった、という主張が、(ラーメンを食べるというような)経験報告ではなく、神に関する神学上の論議のように、わたしたちの経験のとどかない領域に関する形而上学的な見解にすぎないからだと思います。一方は「神が人間を造った」と主張し、他方は「人間が神を造った」と言い合うような困難が、渡辺さんとわたしとの間には横たわっています。

神学の正体が「神を研究する学問」ではなく「神に関する人間の思想を研究する学問」であるように、それと同じように、言語や思考が「わたし」と「あなた」を分ける、というような、わたしたちの経験のとどかない領域に関する主張の理解は、事実に関する探求ではなく、ある特殊な思想に関する研究とならざるを得ません。ですから、この思想の論理的構造の分析や歴史的背景を知ることが必要となります。


(3)西田哲学と鈴木禅学

さいわいに、この思想は、きわめて一握りの人々によってしか主張されていません。いわゆる京都学派といわれる、臨済系禅の思想家である西田幾太郎や鈴木大拙とその後継者たちです。現代では、上田閑照氏や梶山雄一氏などをあげることができるでしょう。

わたしの理解に依れば、この思想の論理的構造の特徴は、ほぼ次のようなものです。まず、言語や思考が「わたし」と「あなた」を人工的に分けているのだ、という考えの背後には、実は、汎神論的世界観があります。それは、必然的にそうならざるを得ません。あらゆるものはもともと「ひとつ」であったという前提(本然論)がなければ、言語や思考が一つの世界をバラバラにしているという考え方(堕落論)も生まれてこないからです。世界をバラバラにしている罪の元凶である言語や思考を懲らしめること(臨済禅の公案、論理的思考の停止)によって、本然の純粋な世界を復活させるという考え方(救済論)も、ここから出てきます。これがこの思想の基本的な論理構造です。

このような思想ができあがったその歴史的な系譜を、わたしたちはある程度探ることができます。この思想が、禅、とくに臨済宗の禅と深く関わっていることは明らかですが、臨済宗から、この思想が直接出てくるわけではありません。この思想は、西田や鈴木らによる、臨済宗の禅のあるひとつの特殊な解釈として生まれてきたものであって、臨済宗の禅者ならば、だれでもこのような思想を持つようになるというわけではないだろうと思います。

この思想のもう一つの歴史的系譜は、「西洋思想」に対する「東洋思想」を確立しようとした試みにあります。それは、日本国家が、政治的にも経済的にも軍事的にも、国際社会のなかで「一人前」になろうと無理をしていた日露戦争・日中戦争の時代と重なるものです。西田も鈴木も、この努力の中で、「西洋思想=論理的・分析的」「東洋的=直感的・経験的」という図式を考えており、そのために、東洋思想を代表するものとして、臨済禅に深く関わっていったものと思われます。

つまり、彼らの、「論理的・分析的」な西洋思想に対する対抗意識が、極度に非論理的・直感的なものを重視する解釈を臨済禅に対して施す結果とになり、それによってできあがった思想が、西田や鈴木の思想といえるでしょう。

西洋的な考え方のなかには見あたらぬ、しかも東洋人はそれ自身も忘れ果ててしまっている、東洋的な見方をはっきり西洋的なものと区別して、これを自覚的に今日の世界に向かって宣揚したところに、鈴木禅学の世界思想史的功績があります。
(秋月龍みん著『鈴木大拙の言葉と思想』)


(4)わたしに経験がない

西田や鈴木の思想はそれなりに一貫していますが、問題は、この思想を構成している主張がどれをとっても、ひとつも明白な事実ではないということです。つまり、言語や思考が「わたし」と「あなた」を分けたのだ、という主張も、言語や思考以前の純粋な世界は「一つである」という主張も、事実としての客観的な根拠がないのです。また、彼らはそれを「純粋経験」とか「神秘的経験」と呼びますが、わたしは彼らがいうような経験をしたことは一度もありません。したがって、彼らの主張は、わたしにとっては、一つのドグマにすぎません。

しかも、このドグマは、単に客観的な根拠がないだけでなく、おそらく間違っています。先回も指摘したように、思考の存在は言語の存在を前提とし、言語の存在はコミュニケーションの必要性を前提とし、コミュニケーションの必要性は、「わたし」と「あなた」が別々の存在であることを前提としているからです。つまり、言語や思考が「わたし」と「あなた」を別々にしたのではなく、「わたし」と「あなた」が別々の存在である事実が言語と思考を生み出したのだと考えねばならないと思われるからです。


(5)最後に

わたしに経験がないから他人も経験してない、などと断言することは出来ませんが、わたしの生涯のすべての経験は、一貫して、西田・鈴木の(もろもろのものの真実の姿はひとつであるという)主張に反しており、彼らの主張を支持する経験はわたしにはまったくありません。したがって、渡辺さんの主張が、単に彼らの思想に影響されたものではなく、渡辺さんの独立した経験であり、かつ、だれでも知ることの出来る普遍的な事実であることを、何らかの方法で示して下さると、わたしとしても、たいへんうれしいと思います。