梅本幹也 と申します。幸福の科学の信者です。 有意義なエッセイ集だと思いましたので、提言をさせて頂きます。 真理および正しさについての話題があると思いますが、基本原則、心の属性とし ての真理と、具体論、効果論としての真理があると思うのです。 そういう着眼点としてはどういうふうにお考えでしょうか。 例えば、救いということについて、「真実の生き方とは何か」を優先するのか、 「例題と回答」を積み重ねていくのかという点。

仏教とキリスト教では布教の期間の差が歴然としていて、仏教では、生老病死の 四諦の認識からその解決を計る八正道、苦悩としての貪、憤、痴、慢、疑の心の 五毒からの脱却、およびその根拠としての縁起の理法があります。また、その布 教の変遷も、始めは一人の修行者としての立場から悟りたる者としての立場、そ して指導者から救世主的存在へと広がりとともに深さも増していっています。弟 子が理解して布教できるシステムをつくっています。 キリスト教では創造主としての父とその使いとして救世主の子、および補佐役と しての精霊という厳然とした約束事があり、その与えられた環境のなかでいった いどうしたらいいのか、神近き生き方とはどういう生き方なのか、愛を与えると はどういうことなのか、魂としての幸福とは何であるのかを教えています。信仰 に対して一切の妥協を許さない姿勢を示しています。

共通しているのは仏神へ限りなく近づいていこうとするその修行の精神があり、 悟りと救済を説き、自己責任、過去より未来へ連綿と続いていく仏神の存在を教 え、来世への希望を説いている点があるといえます。

客観的、ユートピア論的幸福と、主観的、修行論的幸福、その人の役割によって 伝えるべき内容は異なると思います。 本来その人がもっている役割をきちんと果たしているかが大切であって、他の人 の存在とは仏神の目からみて調和のもとに成り立っている必要があります。

さて、無と空と縁起と悟りですが、 無我とは我のみよかれという心はないということで、慈悲に生きる役割意識のみ あるということ。無とはその役割意識がなくなったとき、実体もない。つまり実 体とは役割意識の表現形態そのものである。 空とは、属性、傾向性、法則としては存在する。しかし、この性質が存在するか らといって固定化された実体があるわけではない。属性、傾向性、法則である が、役割意識として変化成長を伴う。諸法無我である。 縁起とは、その空の性質に従って原因、媒体(縁)、結果が現れることを示す。 ここで初めて実体が仮に現れる。ただし、役割意識という原因を失えば、継続し て実体が存在することはできなくなる。諸行無常である。 総合していうと、仏神がその役割意識(魂)が縁起の理法のもとに発展繁栄させ ている姿ということです。 それを知り、より高次な役割意識を持つことが悟りといえます。 私は以上のように理解しています。

仏神の御心を知り、御心に沿った思いと行いが信仰へと結びつきます。 ゆえに信仰として仏、法、僧の三宝帰依に始まり、修行論へと向かいます。その 役割意識が多種多様であり、仏神の価値基準はひとつではありません。

仏教とキリスト教の比較、仏教の基本認識について持論を展開してきました。佐 倉さんのご意見もお聞きしたいと思います。なお、参考文献として、「悟りの挑 戦(上・下)」幸福の科学出版を用いました。

梅本さんのお便りとわたしの応答のやり取りは、仏教は果たして「永遠の魂」を主張したのか、それとも、そのような主張を否定したのか、という問題を中心として展開することとなりました。梅本さんはこの問題を仏教の本質にかかわる問題であると考えておられ、わたしも同様に、それ自体ひとつの大変有意義なテーマであると思いますので、「仏教における魂と神」として、別にまとめました。どうぞそちらをご覧下さい。