佐倉さんはじめまして。

HP拝見しました。背後にある情報量が膨大であると感じました。あと、細かいところをよくつきつめていますね。すごいとおもいます。

さて、仏教関係で二点ほど質問があります。

一つは、仏教における無常という概念(?)についてです。

無常という観点からみると、存在には、永遠に変わらず存在しているものはなく、常に変化しつづけており、定まった永遠不変のものなどない、ということになるのでしょうか?それとも、変わらないものもあると仏教ではいっているのでしょうか?佐倉さんのHPを見た印象では、前者の、全ての存在は変わるという内容に思われます。しかし、私の考えでは変わらないものもあるように思われます。確かに、身のまわりを見ても変わらないものはみあたりません。しかし、科学法則や(特に)数学の定理などは一般に変わりません。(少なくとも今までは) これは仏教における無常と矛盾していないでしょうか?ありきたりの質問ですが、仏教においては既に回答が出ているのでしょうか?

又、仮に全ての存在は変化する、無常である、としても、では、その無常である、ということそれ自体は変化しないのでしょうか?変化しないのならば、先ほどの数学の定理などと同じく矛盾(自己矛盾)しているのでしょうか?仏教における回答と、佐倉さん自身は無常についてそれが正しいと思っているのかどうかについて回答をいただきたいです。(仏教では、やはり縁起に関係があるのでしょうか?) ちなみに私は、全ては変化する、というのも、変化しない永遠のものがある、というのも世界を説明する二つの異なる方法でありどちらが正しいとはいえないと思います。

二つ目は、佐倉さんが言った<言語があるから思考ができる>という考えについてです。私の考えでは、言語は思考の内容を人に伝えたり,それを保存するためには必要ですが、必ずしも言語がなければ思考ができないというわけではないと思います。確かに、言語によってなされる思考もありますが、そうでないのも多くあると思います。例えば、作曲をしたり、適切な言葉を探したりするときや、好きな食べ物や,やりたいことを思い浮かべるときや、仏教でいう悟りなども言語を使って思考しているとは思えませんし、少なくとも私には自覚はできません。私は犬を飼っているのですが,彼自身は言語を持っていませんが(持っているかもしれませんが普通に考えて)、何か考えていたり、判断している、と思えるような場面も少しはあります。佐倉さんはどう思いますか?

以上が私の質問です。仏教については全く無知な私ですから、何か基本的なところで間違っているかもしれませんが、そのときは指摘してください。

しかし、佐倉さんのHPをみて、今まで仏教というとやたら難しいイメージであったのが変わりました。やはり難しいと一般にあれほど広まるとは思えないですしね。それでもやはり少し難しいとは思いますが。何かわかりやすく説明してある本をお知りでしたら紹介してください。    



(1)無常

無常という観点からみると、存在には、永遠に変わらず存在しているものはなく、常に変化しつづけており、定まった永遠不変のものなどない、ということになるのでしょうか?それとも、変わらないものもあると仏教ではいっているのでしょうか?佐倉さんのHPを見た印象では、前者の、全ての存在は変わるという内容に思われます。しかし、私の考えでは変わらないものもあるように思われます。確かに、身のまわりを見ても変わらないものはみあたりません。しかし、科学法則や(特に)数学の定理などは一般に変わりません。(少なくとも今までは) これは仏教における無常と矛盾していないでしょうか?ありきたりの質問ですが、仏教においては既に回答が出ているのでしょうか?・・・仮に全ての存在は変化する、無常である、としても、では、その無常である、ということそれ自体は変化しないのでしょうか?変化しないのならば、先ほどの数学の定理などと同じく矛盾(自己矛盾)しているのでしょうか?

もし、仏教がそのような問題を取り上げ、一つの確固とした「回答」を出しているとしたら、わたしはそのことについて何も知りません。そこで、わたしの知っている事柄の中から関連しているのではないかと思われるものについてすこし述べてみたいと思います。

無常に関する最も有名な定型句は「諸行無常」、もろもろの行(サンカーラ、形成力、形成されたもの)は常住ではない、という言葉ですが、その無常がどのような状況の中で語られているかといえば、たとえば、つぎのようなものが典型的なものでしょう。

アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、死してはその境界を異にしなければならぬ、と。アーナンダよ、一切は壊れるものであって、ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。

(ディッガ・ニカーヤ 16)

ところで、この「一切」という言葉について、ブッダはあるとき次のように語っています。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

(サンユッタ・ニカーヤ 33)

さらに、ブッダが答えることを拒否したといわれる幾つかの問いの中で、「世界は常住であるか、世界は無常であるか」という問いがあります。

すると、ブッダは「眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用」など、わたしたちが具体的に経験する対象については「壊れるもの」と言っていますが、「世界」という対象に関しては、「常住であるか、無常であるか」という問いには答えることを拒否した、ということになります。これはどのように解釈したらよいのでしょうか。わたしたちの経験の対象となるのは個々の現象であって「世界(という全体)」ではない、したがって、体験する個々の現象についてはすべて「壊れる」と言えるけれど、経験の対象ではない「世界(という全体)」については沈黙した(無記)、ということなのでしょうか。すくなくとも、仏教が「一切は無常である」というときの、その対象は無制約的なものではないようです。

もうひとつ、仏教には、有名なブッダの「筏の教え」というのがあります。ブッダ自身が、自分の教えを「筏」にたとえて、川を渡るのに大切な筏も、川を渡ってしまえば必要ないものとなるのだから、捨てるべきである、と教えたという仏典の記録です。

比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・ 譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。 かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか? そうではありません、師よ。 ・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。

(マッジマ・ニカーヤ 22)

ブッダは自らの教え -- その中には「一切は壊れる」という無常の思想も含まれますが -- を「永遠不変の真理」として主張はしなかった、と思われます。


(2)言葉

私の考えでは、言語は思考の内容を人に伝えたり,それを保存するためには必要ですが、必ずしも言語がなければ思考ができないというわけではないと思います。

もしかしたら、そのほうが正しいのかもしれません。この問題については、わたしにもそれほど確信があるわけではありません。ただ、わたしには、思考と感覚(視覚、触覚、味覚、聴覚)とは、質的に随分異なるもののように思われます。思考は、疑問や肯定や否定や仮定など、言葉を駆使して、自らが同時に「語る者」と「聞く者」のふた役を演じて、自問自答する行為であるように思われるのです。思考という行為は、幼児が、まず親からの語りかけを経験し、そこから語り返すことを覚え、自由に他人と語り合うことを覚えた後にはじめて出きる行為なのではないでしょうか。

生まれつき、他者との関りを遮断された環境でそだてられた例などがあれば、そのことが少しは明らかになるのかもしれませんが、こればかりは意図的に実験するわけにはいきません。幼児心理学や言語学の方面で詳しい方のご意見をお聞きしたいと思っています。

なお、「仏教でいう悟りなども言語を使って思考しているとは思えません」というのは、おそらく、京都学派(西田幾多郎や鈴木大拙やその後継者たち)の「さとり」解釈の影響ではないかと思います。わたしは、ブッダの悟りを思考停止の「無分別の認識」とする解釈には否定的です。ブッダの悟りとは、人間存在を「縁起」と理解した事件のことである、と解釈しています。このことについては、松本史朗著『禅思想の批判的研究』(大蔵出版)などを参照してください。


(3)「わかりやすく説明してある本」

佐倉さんのHPをみて、今まで仏教というとやたら難しいイメージであったのが変わりました。やはり難しいと一般にあれほど広まるとは思えないですしね。それでもやはり少し難しいとは思いますが。何かわかりやすく説明してある本をお知りでしたら紹介してください。

「佐倉さんのHPをみて、今まで仏教というとやたら難しいイメージであったのが変わりました」--- とてもうれしいコメントです。

「わかりやすく説明してある本」ということですが、

中村元・田辺祥二著、『ブッダの人と思想』(NHKブックス)
をお薦めします。初期仏典からのブッダの言葉の引用が豊富で、わずか200ページの中に仏教の中心的思想がほとんどすべて紹介されており、美しい写真もあって、仏教を「わかりやすく説明してある本」としては、もっとも優れた入門書だと思います。