明けましておめでとうございます。

こちらに投稿させて頂くのは初めてではありませんが、今回はHNではなく、 ある先生から頂いた名前で寄稿させて頂きます。 釈迦の信仰に対する考え方について、ある掲示板で僧侶の方と議論致しました。 佐倉さんのご感想をお伺いできれば嬉しいのですが。

Siri Ved Singh

http://www3.plala.or.jp/odin/newpage1.htm



仏教における「信仰」の本質的な問題をついているもので、とても興味深く読ませていただきました。

ブッダの思想における「信仰」について、初期の仏典から読み取れる明らかなことは、

(1)ブッダは超越的な存在(神々)への崇拝や依存(祈りや呪いや捧げ物)を否定した

(2)ブッダの基本的な教え(無常、縁起、無我、四聖諦、八正道、など)に「信仰」など無い

(3)最初期の仏典には明白に「信仰を捨てよ」というブッダの言葉が残されている

ことなどです。要するに、ブッダはわたしたちがいわゆる「宗教」と呼ぶところのものを否定したと言えるでしょう。

しかし、ブッダの死後、彼の思想が大衆のなかに広がるに連れて、後代の仏典の中には次のようなものが見られるようになります。すなわち、

(1)ブッダの超人化・神格化

(2)ブッダやブッダの教えへの信仰

が生まれてきます。いわば、宗教を否定したブッダの教えが宗教化されていくわけです。信仰は通常ある超越的な対象を必要としますが、ブッダの超人化・神格化は仏舎利塔や仏像の建築などをとおして明らかになされていきました。それと同時にブッダへの信仰が生まれたのだと思われます。まさに、
後世に付け加えられた第1章は、 「仏の説いた理法に対する「信仰」を説くようになった。」為に、 「わたしにとっては、信仰が種である」という言葉を表した。
といわれている通りだと思います。それは中村元氏の研究の重要な結論の一つでもありました。ところで、
「わたしにとっては、信仰が種である」という言葉の「信仰」の対象は何かが問題です。
という指摘はとても面白いものです。仏教においては、神々への信仰が否定されているのは明らかですから、仏教における信仰とはブッダ(仏)への信仰と考えねばなりませんが、ここでは、ブッダ自身の信仰を語っているわけですから、その信仰の対象をブッダ(仏)自身とするわけにはいかないでしょう。ブッダを信仰の対象する後代の仏教徒が、彼らの信仰をブッダに語らせたものと考えられます。

わたしは、さらに注目すべきこととして、後期の仏典(「妙法蓮華経」など)や仏教運動(天台宗)にみられる諸仏典の系統付けの運動を挙げたいと思います。仏教は、ご存知のように、たとえばキリスト教と違って、内部批判は盛んでしたが異端狩りなどということをやりませんでした。そこで、さまざまな相矛盾する考えが仏典の中にそのまま残ることになります。そのため、後代の人々は、これらの相互に矛盾する膨大な仏典を秩序づける必要に迫られます。こうして、最後期の仏典は、さまざまな教えに優劣をつけ、たとえば、初期の人々は理解力が劣っていたので、それに合わせて劣った教え(小乗)をブッダは教え、後の人には優れた教え(大乗)をブッダは教えたのだ、という理屈を考え出しました。混乱する仏典の秩序付けや調和化、それが「妙法蓮華経」や天台宗やその他の後期の伝統的仏教がやったことです。

現在、わたしたちは、仏教文献学の研究の結果、膨大な仏典がすべてブッダの教えではなく、さまざまな時代の、さまざまな宗派の、さまざままブッダ解釈を示しているものにすぎないことを知ったために、もうそのような、無理な調和化をすることはなくなったと考えます。仏典は、ある意味では、仏教徒が長い間やってきた相互論争の資料の山でもあります。

キリスト教の聖書に対する態度と異なって、仏教では仏典における思想の歴史的発展や矛盾をそのまま認めてよいのです。仏教の知識学および論理学を大成したディグナーガ(6世紀)やダルマキールティ(7世紀)も、正しい知識の源泉はなにか、という問いに対して、知覚(現量)と推論(比量)だけを認め、インドの他の宗教学派が認めていた、聖典伝承(聖量)を認めませんでした。インドの多くの哲学・宗教学派のなかで、仏教学派だけが、直接の知覚経験と論理的推論だけを知識の根拠とし、自らの聖典(ブッダの教えの伝承)を真理であることの根拠として認めなかったのは、ブッダ自身の教えさえ絶対化してはならないというブッダの「筏の教え」の伝統に基づく、本質的に仏教的な判断でした。

したがって、後代の仏典の中に「信仰」が説かれているからといって、初期の信仰否定の教えと矛盾しないような(?)よく意味の分からない「信仰」定義などする必要はまったくない、率直に、ブッダは信仰を否定したと教えればよい。信仰から仏道に入り、後から信仰を捨てることを教える、などという奇妙なことをする必要はもう無い、とわたしなどは考えます。

わたしは、仏教が現代によみがえるためには、サンガ(僧の集まり=寺)というものが、かつてのブッダとその仲間の集まりのように、祈祷や呪いや儀式や礼拝をすべて捨て去り、もう一度、人間を苦から解放するための学問と思索(瞑想)と論議の場とならねばならないと思います。そうなってこそ、仏教は再び一般人が帰依する価値のある三宝(ブッダ、ブッダの教え、サンガ)となることができるでしょう。

Siri Ved Singhさんのお考えには、そのような方向への確かな胎動がうかがえて、わたしがいままで学び考えてきたことがそれほど的外れでもなかったのだ、とうれしく思われます。