笠原 祥です。ご回答ありがとうございました。

(1)事実問題と実存的要請

これはやはり、体重を体温計で量るような、根本的なミスマッチの過ちであり、はなはだ非論理的・非合理的であると思えます。
これだけ説明させて戴いたのにも関わらず、佐倉様はどうしても私に体重を体温計で量らせたいようですね ^^; 日常生活においては、誰も体重を体温計で量るような愚かなことは行いません。それが誤りであることは、幼稚園児でもわかるからです。

何回もお尋ねしているのですが、お答えいただけないようです。 めげずに、もう一度お尋ねしますが、私の考え方によって、日常生活レベルにおいて、私に具体的にどのような(体重を体温計で量るようなレベルの)問題がおこっているのでしょうか?


(2)人間存在の価値・人間存在の意味

意味付けの主体者である人間が存在するかぎりにおいて、人間存在が無意味になったり有意味になったりすることができます。意味付けの主体者である人間が存在しないところでは、人間存在は無意味になることも有意味になることもできません。
いろいろとご説明戴きましたが、人生に意味が見出せないのですから、私にとっては同じことです(無意味になることも有意味になることもできないのではなく、同じように無意味なのです)。


(3)関係性と個性

なにかずいぶん誤解されていると思います。子供が取り違えられるということは、二人の子供が別々の場所(別々の母親の体内)に居たこと(異なった母子関係を築いていたこと)を前提にしています。また、別々の遺伝子情報が組み込まれているということは、子供を成立させている重要な部分(遺伝子を構成している分子や原子、精子や卵子)が、同じとき同じ場所(生殖器官)になかったこと(始めから異なった親子関係を持っていたこと)を示しています。

何度も繰り返しますが、二つのもの(人間、胎児、遺伝子、精子、卵子、分子、原子、等々)が同時に同じ場所を占めることは不可能です。だから、すべてのものは、他のすべてとは異なった関係を結ばざるを得ません。それが、個性というものです。

了解いたしました。 私の勘違いのようです(個性が誕生してからの人間関係のみで形成されると主張しておられるのかと思ってしまいました)。これでしたら、ごく普通の考え方ですから特にコメントはありません。ただ、私はそれに対してアートマンを個性の主体として付け加えているだけです。

両親の遺伝子情報が子供の性格に深く関わっているという事実は、人間の心というものは、本質的に、その存在の始めから、関係性であることを示していると思います。
最初にあるのは存在であり、関係性ではありません。父母が最初に存在したからこそ、遺伝子情報という媒体を介して子供との間に関係性が生まれるのです。存在のないところに関係性は生じませんから。



(1)事実問題と実存的要請

これだけ説明させて戴いたのにも関わらず、佐倉様はどうしても私に体重を体温計で量らせたいようですね ^^; 日常生活においては、誰も体重を体温計で量るような愚かなことは行いません。それが誤りであることは、幼稚園児でもわかるからです。
どうなのでしょうか。わたしは笠原さんの度重なる説明を理解できなかったのでしょうか。それとも、笠原さんの方がこの問題を回避されてこられてきたのでしょうか。

これまでのやり取りをまとめておきます。

笠原 佐倉
「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えることが「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的であると考えるようになった理由を述べてみたいと思います。 ・・・もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります。結局、最後には死んで何も無くなるのであれば、最初から存在しなかったのと同じです。非常にむなしく、空虚な考え方であり、人によっては退廃的な方向に向かい、自暴自棄になるかもしれません。また、この有限の物質世界が全てであれば、なるべく多くのお金や物を自分の手元に集め、面白おかしく暮らすことが最も価値のある生き方だと言われても否定できません。

(笠原8月6日

根本的な誤謬は、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという実存的要請から、その判断を下しておられるところにあります。それは、明日の天気予報の判断を、客観的な気象条件だけから判断するのではなく、「明日雨が降っては自分の大事な休暇が台無しになってしまうから、明日は晴れでなければならない」という勝手都合で判断を下すようなものです。事実がどうであるかを、むなしく感じるかどうかで判断するのは、体温を測るのに体重計をもってするような根本的な誤謬です。

たとえ、「人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということにな[る]」としても、それで、霊魂やあの世が事実として存在するということにはまったくなりません。事実がどうであるかは、事実がどうであって欲しいかという人間側の勝手な実存的要請とは、まったく無縁だからです。事実判断に必要なのは、人間側の勝手な都合ではなく、客観的な認識手段(観察)です。体温を測るのに体重計が何の役にも立たないように、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという人間側の勝手な実存的要請は何の役にも立ちません。

(佐倉)

私も、形而上学的な事柄は「わからない(証明不可)」という立場であり、事実認識に関する問題として取り扱っているわけではありません。 つまり、私の意見に対して事実として確認できるものがないため、それは誤謬であるおっしゃられても、最初から事実の証明を目指しているわけではありませんので、困ってしまうのです。 ・・・

私は事実認識に関する問題に対して言及しているわけではありません。再三申し上げているとおり、形而上学的問題に対して、事実認識を云々することなど愚の骨頂です。従って、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、判断を下しているのではなく、より善く生きるために、「死して無に帰する」と考えることが合理的か否かという命題に対して、私は合理的でないと考えると述べているにすぎません。

(笠原8月14日

わたしが「誤謬」として指摘したものは、「永遠の魂」とか「輪廻転生」などに関する笠原さんのご主張には、「事実として確認できるものがないため」とか、「事実の証明」になっていない、ということとは違います。それは、笠原さんご自身がなんどもそれらについては「わからない」ことを表明されているからです。むしろ、「在るかどうかわからないけれど、在ると信じる」というのが笠原さんの立場であり、そう信じるのには「合理的」な理由がある、ということを笠原さんはいろいろ述べられているわけです。

わたしが指摘した誤謬とは、「在るか、ないか」という問いに対する笠原さんの(「在る」と信じる)判断と、その判断を下された「合理的」といわれる理由との間にある根本的なミスマッチ(体温を体重計で測る)のことです。前回、指摘しましたように、笠原さんのあげられる「合理的」理由とは、その内実、「そのほうが笠原さんの理想(より良く生きられる、食物連鎖がなくなる、云々)に合致するから」というほどの意味でしかないからです。これでは、そうあって欲しいから、そう信じる、ということ以外のなにものでもありません。

「在るか、ないか」という問いは世界の事実に関する問いです。「在って欲しい、在って欲しくない」というのは人間側の要請(理想、欲求)です。この二つの間には何の関係もありません。ところが、笠原さんは、後者(個人的要請)を理由に、前者(事実)の問題に関して、一つの判断(「在る」と信じる)を下されたのです。「わたしはこういう理想・欲求をもっている、しかし、事実がそうであるかどうかはわからない」という立場(仮定)にとどまらないで、そこから、一歩踏み出して、「わたしはこういう理想・欲求をもっているので、事実はそうであるに違いない、そうとしか思えない」という領域(信仰)にまで行かれているのです。ミスマッチの誤謬はそこにあります。

(佐倉)

先ず最初に、「在るか、ないか」という問いに答えているものではありません。それに対しては何度も申し上げている通り「 わからない(証明不可)」という立場です。 私がわざわざ自説を持ち出したのは、佐倉様から以前「すくなくとも、死後の世界の問題に関して言えば、わたしは、自我の思想(死後におけるの自分の運命がどうなるかを心配する生き方)よりも、縁起の思想(死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方)の方をよりすぐれた思想であると認めるようになったわけです」というお答えを戴き、どうして縁起の思想の方が優れているのかが理解できないため、私が「永遠の魂」を考える「理由(証明ではありません)」を述べれば、それをもとに縁起の思想の優れている理由をご説明戴けるかもしれないと考えたからであり、「在るか、ないか」という問いに答えているつもりはありません。 次に私の欲求は単に「より善く生きたい」というものであり、「在って欲しい、在って欲しくない」という類のものではありません。在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。欲しい、欲しくないなどという感情が、何の役に立つのでしょうか?。 上述の通り、私は「在って欲しい」という個人的要請も持っていなければ、事実問題に関して判断を下しているわけでもありませんので、ミスマッチという表現はあたらないと思っております。

(笠原8月24日

わたしは誤解しているのでしょうか。むしろ、わたしが理解しているように、笠原さんは「霊魂の有無」といった事実問題に関して、「有り」という個人的判断を下しておられるのではないでしょうか。

「死後も生き残る魂なるものがあるのかどうか」という事実に関する問いに対して、「ある」あるいは「ない」という可能性がありますが、笠原さんご自身も認めておられるように、わたしたち人間はこの問題に対してどちらが真実であるかを知るための認識能力を持っていません。

ブッダは、認識の届かない死後の世界のような事柄に関して「ある」とか「ない」とか断定する立場を「愚か」であると批判しました。それに対して、笠原さんは

私は、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、「まったく愚かな教え」であるという意見に対して、異なる立場をとります。(8月4日

「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えること[は]「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的である・・・(8月6日

「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。(8月14日

「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して・・・「死して無に帰する」と考えること[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日

[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。(8月14日

そう思うからそう思っているだけ・・・。(今回)

と述べられてきました。ここで、「考える・・・」とか「仮定する・・・」とか「思う・・・」という、一見中立的な意味にも読み取れる言葉を使用されているために、笠原さんの意味するところが少し見えにくくなっているのですが、すでに明らかになったように、それらは「信じる」という意味です。つまり、この、霊魂の有無というような事実問題に対して、「わからない」と言いながら、実際は、「あるかもわからないし、ないかもわからない」という中立的立場から、一歩踏み出して、一つの選択をする立場です。それは、前回も指摘しましたように、
わからないけど信じる。
という、伝統的な宗教が語ってきた信仰の立場にほかなりません。「死後生き残る魂」があるかないかという事実問題に関して、その答えを知らないにも関わらず、「ない」という答えを否定し、「ある」という答えを肯定しておられるからです。この問題に対して、笠原さんが、一つの答えを選択し、決断を下しておられるのは、あきらかです。

そして、その選択・決断の根拠は、無意識的・盲目的なものではなく、笠原さんが「合理的」と言われるもの、すなわち、人生の意義とか価値とかいう実存的な理由です。

「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定する(信じる)ことにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。(8月14日

「死して無に帰する」と考える(信じる)こと[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日

「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (今回)

このように、笠原さんは、霊魂の有無というような事実問題に対して実存的に答えを出されているのです。もし、ここで、この事実問題に対して、なんらかの証明(認識的判断)を試みておられたのなら、それは、根本的な誤りとははならなかったであろうに、人生の意義とかむなしさとかという実存的な理由で、事実問題に決断を下されているのですから、ミスマッチ(体温を体重計で測る)と言わざるを得ないのです。これは、雨が降っては折角の休み(人生)が無駄(無意味)になるため、客観的な気象条件とは無関係に、自分に都合の良い(人生に対して前向きに取り込むことができる)ように天気予報を報じるのと一つも変わりません。これは、事実の読み違えなどという生易しい認識上のあやまちではなく、根本的なあやまち(笠原さんの言葉で言えば「愚の骨頂」)です。

(佐倉)

誤解されていると思います。 私は、どの宗教団体にも入っておらず、信仰ももっておりません。宗教の最大の過ちは、自分たちの教祖を神格化したり、教義を絶対的な真理と位置づけるところにあります。ですから、ものみの塔や幸福の科学には批判的な立場です。また、その裏返しである共産主義も典型的な宗教のひとつだと思っており、同様に批判的な立場をとります。 私は、佐倉様があまりに断定的な表現をされるので、それは一つの視座であって、それのみを正しいとすることも同じ過ちを犯すことになりますよと、申し上げたいのです。

私は「わからない」ものに対して、絶対にそうだとか、絶対に違うとかという断定することをよしとしません。断定することは無限にある視座をひとつに絞ることであり、教義を絶対的な真理と位置づける宗教と何ら変わりがありません。 繰り返しになりますが、私の欲求は単に「より善く生きたい」というものであり、「在って欲しい、在って欲しくない」という類のものではありません。在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。

これは形而上学の問題であり、事実問題ではありませんから、答えは誰にもわからないのです。わからないものを判断することなど出来ませんが、仮定することは可能です。私にとって仮定とは、可能性が高いということであり、100%そうだと判断しているわけではありません(他の視座を否定するわけではありません)。そして、何故そのように仮定するのかという理由をこれまで述べてきたのであり、その理由もまた正誤の判断は不可能です。 しかし、正誤の判断は不可能でも「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないというのが私の主張です。 私がそのように仮定すること(佐倉様によれば判断を下すこと)により、私自身にどのような問題が生じているのでしょうか?佐倉様から「これは、事実の読み違えなどという生易しい認識上のあやまちではなく、根本的なあやまち(笠原さんの言葉で言えば「愚の骨頂」)です」と批判されなければならないほどの問題とは、具体的に何でしょうか?

逆に、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、「まったく愚かな教え」と断定することこそ、証明不可の形而上学問題に対する何の根拠も無い判断であり、体温を体重計で測ることに他ならない行為ではないでしょうか。

(笠原9月10日

それでは、この問題をすこし分けて、わたしの理解するところを述べてみますので、それぞれの部分において、どこでわたしが笠原さんを誤解しているのか、示していただけたら幸いです。わたしの理解が間違っていましたら訂正いたします。

(ア)まず第一に、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、一方では「どちらかわからない」(証明できない)といわれながら、他方では「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。

「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して・・・「死して無に帰する」と考えること[は]合理的でないと考える・・・。 (8月14日

[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。(8月14日

[人間は死後も生き残る]可能性が高い・・・(今回)

つまり、笠原さんは、「人間は死後も生き残るのか」という問いに対して、個人的には、「人間は死後も生き残る」と思っておられます。(この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)

このように、笠原さんは、一方では、「どちらかわからない」と大々的に表明しておられますが、この「どちらかわからない」という立場と、一見矛盾しないように見える巧妙な言い方(「仮定」)を駆使して、実は、一つの答え(「人間は死後も生き残る」)をちゃんと選択しておられます。この笠原さんの二重の立場はひじょうに興味深く、さらなる解明を必要とします。

「わからないけれど、信じる」という立場は宗教ではめずらしいものではなく、人間には知識だけでなく信仰も大切であるというのが伝統的に宗教の主張です。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人は、この信仰の故に神に認められました。

(新約聖書、ヘブライ人への手紙 11:1)

解し得ざることを信ずる。これを信仰という。・・・解し得ることを信ずるは知識にして信仰にあらず。

(『内村鑑三 文明評論集(三)』15頁)

すなわち、宗教は、信仰そのものを知識とは別の価値として、「信じる」ことの価値を積極的に認めてきました。笠原さんは「信じる」という言葉の代りに「仮定する」という言葉を使われますが、わたしは、笠原さんの立場も、やはり、「わからなくても、信じる」という信仰の立場である、と理解しています。「人間は死後も生き残るのか、生き残らないのか」、どちらかわからない、ということを認めながら、「生き残る」という答えを選択しておられるからです。

仮定と信仰はどちらも、真実かどうかわからないことがらを課題とすることにおいて共通するところがありますが、仮定と信仰は次の点で根本的に異なるものです。すなわち、仮定は推論のためのさまざまな可能性にすぎませんが、信仰はコミットメント(実存的決断、選択、賭け)を伴います。たとえば、無神論者でも神が存在することを仮定します。「もし神がいると(仮定)すると、なぜ神は人間の不幸をほっておくのか理解できない」という具合に。また、有神論者も神が存在しないことを仮定します。「もし神がいないと(仮定)すると、宇宙はどうしてこんなにうまくできているのか説明できない」といった具合に。このように、無神論者が神の存在を仮定したり、有神論者が神の非存在を仮定したりすることが可能なのは、仮定というものにはコミットメント(実存的決断、選択、賭け)が伴わないからです。「仮定」とは、読んで字のごとく、仮に想定してみるだけのこと、だからです。

それでは、笠原さんの立場はどうなのでしょうか。笠原さんの立場はコミットメント(実存的決断、選択、賭け)を伴うものなのでしょうか。この答えは明らかでしょう。繰り返し、繰り返し、笠原さんは、「より良い人生を生きるため」と言っておられるからです。「人間は死後も生き残るのか、生き残らないのか」という問いに対して、より良い人生を生きることができるような一つの答え、すなわち「人間は死後も生き残る」という答えを、笠原さんは選択されておられるからです。だから、笠原さんの言う「仮定」とは、その内実、信仰であると解釈せざるを得ません。

伝統的宗教の立場と笠原さんの立場の違いは、信仰に対する評価でしょう。伝統的宗教は信仰を高く評価してきました。ところが、笠原さんはどうやら信仰を低く評価されておられるようです。そのため、

私にとって仮定とは、可能性が高いということ[です]。
というような文章が返ってきます。こんな文章を読みますと、どんなデータを根拠に、どんな確率計算で、「人間は死後も生き残る」可能性が高いと判断されたのか聞きたくもなりますが、笠原さんは、言葉の普通の意味とは違う意味で言葉を使用しておられるので、これは、要するに、
本当のことはまったくわからないけど、それにもかかわらず、わたしは「人間は死後も生き残る」と信じる。100パーセントの確信はないけれど。
ということだろうと勝手に想像しなければなりません。明確に言ってしまえば、これが笠原さんの立場なのではないでしょうか。(それとも、わたしは誤解しているのでしょうか。)



(イ)次に、笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。

「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (前回

「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来る・・・。(今回)

私は人生の意味を問うことによって「自我(霊魂)の思想」に思いを馳せた・・・。(今回)

「自我(霊魂)の思想」によって導かれるのは、・・・「自分を高めようとする生き方」です。(今回)

つまり、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るので、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えを、事実はわからないと認めつつ、選択されているということでしょう。(どうでしょうか。この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)



(ウ)ところで、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることができるようにといった理由で、「明日の休日は晴天である」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。(これについて笠原さんはどうおもわれますか。)わたしが根本的な過ちを犯していると思うのは、たとえば、

在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。
と、笠原さんも言われるように、事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、落ち込みたくないとか、今日を前向きに生きたいというような理由で、「明日は晴天になる」と予報しているからです。

もし、誤りが、気象データの読み違いから生じたものなら、それはおなじ過ちではあっても、「根本的な」過ちとは言えないでしょうが、「明日は晴天になる」という予報が、個人の実存的要請(そう考えれば今日を前向きに生きることができる、というような理由)からおこなわれたのなら、まさに、体重を量るのに体温計をもってするような、根本的な取り違えの過ちだと言わねばならないでしょう。



(エ)同じように、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択するのは、大きな過ちと思われます。事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択しているからです。

もし、誤りが、たとえば死後の世界に関するデータ(そんなものがあればの話ですが)の読み違いから生じたものなら、それはおなじ過ちではあっても、「根本的な」過ちとは言えないでしょうが、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えが、個人の実存的要請(そう考えれば人生を前向きに生きることができる、というような理由)から出されているとしたら、それは、まさに、体重を量るのに体温計をもってするような、根本的な取り違えの過ちだと言わねばならないでしょう。



以上、いままでも述べてきたことを、今回はいくつかに分けて順番に、わたしの理解するところを述べました。どの点においてわたしが誤解をしているのかを指摘していただいて、もし誤解が明らかになれば、わたしも自分の誤解を正したいと思います。

(補足)なお、以上のことに関して、一つだけ補足してみたいと思います。もし、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、「明日は晴天であって欲しい」と強く願ったり、「明日を晴天にしてください」と祈願するだけなら、それはほほえましい人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「わたしの人生が無駄になってよいはずはない、だから、明日は晴天になるはずである」、というふうに言い張るとき、つまり、個人の実存的要請を理由に事実問題の選択を行うとき、この根本的な過ちが生まれるのだとも言えるでしょう。

同様に、もし人間が死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きることができないので、「人間は死後も生き残る存在であって欲しい」という願いをもつだけなら、それは納得できる人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「人間は死後も生き残ると考えなければ人生を前向きに生きることができない。だから、人間は死後も生き残るに違いない、あるいは、その可能性が高い」、というふうに言い張るとき、つまり、個人の実存的要請を理由に事実問題の選択を行うとき、この根本的な過ちが生まれるのだとも言えるでしょう。

(佐倉)

(ア)まず第一に、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、一方では「どちらかわからない」(証明できない)といわれながら、他方では「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。

本当のことはまったくわからないけど、それにもかかわらず、わたしは「人間は死後も生き残る」と信じる。100パーセントの確信はないけれど。

ということだろうと勝手に想像しなければなりません。明確に言ってしまえば、これが笠原さんの立場なのではないでしょうか。(それとも、わたしは誤解しているのでしょうか。)

はじめに、私は信仰者ではありません。信じるという言葉は望むという言葉と同じくらい嫌いです。 人間死して無に帰してしまえば、人生の意味が無くなると思うから、「人間は死後も存続する」可能性が高いと思うのであり、そう信じなければ人生をより善く(良く)生きていけないというものではありません。つまり、私にとって強迫観念的に信じること等必要ないのです。毎日を生きていく上でいちいちそんな面倒くさいことは考えておりません。

(イ)次に、笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。

つまり、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るので、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えを、事実はわからないと認めつつ、選択されているということでしょう。(どうでしょうか。この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)

認めるも認めないもありません。事実はわからないのです。 「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。従って、消去法的に「人間は死後も存続する」と思っておりますが、それに固執しているわけではありませんし、「死して無に帰す」ということを完全否定しているわけではありません。つまり、視座を一つに絞り込んではいないということです(だから可能性が高いという表現をしているのです)。今後「死して無に帰すとしても人生に意味がある」ことを合理的に説明してくれる人が現れ、それに納得すれば私はいつでも「人間は死後も存続する」という考えを捨てます。

(ウ)ところで、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることができるようにといった理由で、「明日の休日は晴天である」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。(これについて笠原さんはどうおもわれますか。)わたしが根本的な過ちを犯していると思うのは、たとえば、

在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。

と、笠原さんも言われるように、事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、落ち込みたくないとか、今日を前向きに生きたいというような理由で、「明日は晴天になる」と予報しているからです。

ここが、最大の勘違いです。 私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません。だからこそ、「在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです」という表現をしているのです。自分の力でどうしようもないことに対して「こうあってほしい」と望んだところで、一体それが何になるというのでしょう。望んでも何も解決しません。

私にとって望むことは無意味であり、それよりも自分の頭で納得出来るまで考えることに重きを置きますが、もっと大切なのは具体的に日々をどう生きるかです。 より善く(良く)生きたいというのは、私の心の深奥から湧き上がってくる思いであり、 人間は、今という一瞬を生きることしか出来ませんから、「人間は死後も存続する」か否かにかかわらず、全力を尽くすというのが私のスタンスです。何を考え、何を思おうが、具体的な行動レベルに落とせば、選択の幅は殆ど無いのです。つまり、「人間は死後も存続する」と思おうが、「死して無に帰す」と思おうが、より善く(良く)生きるための具体的方法に違いが出てくるとは思えません。


(エ)同じように、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択するのは、大きな過ちと思われます。事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択しているからです。
人間は死後も生き残るという答えを選択すれば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るというほど、人生は甘いものではないでしょう。最も大切なのは、如何に考えるかではなく、如何に生きるかです。これも(ウ)と重複しますので割愛します。

それで、具体的(日常生活レベル)に私にどのような問題がおこっているのでしょうか?

(笠原10月3日

少なくとも、わたしの次の解釈に関しては、(否定しておられないので)、わたしの理解は外れていないようです。

(ア)「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。つまり、笠原さんは、「人間は死後も生き残るのか」という問いに対して、個人的には、「人間は死後も生き残る」と思っておられます。

次の部分は、今回も、「「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。従って、消去法的に「人間は死後も存続する」と思っております」と繰り返しておられますので、わたしの笠原さん理解はそれほど外れていないようです。すなわち、

(イ1)笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。
しかし、今回は、「消去法的に」とか、「人間は死後も生き残るという答えを選択すれば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るというほど、人生は甘いものではない」とも言われていますので、少し、言い換えねばならないようです。「「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (8月24日」と言われていることと、あわせると、次のようです。
(イ2)笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る(可能性が高い)」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思わねば(つまり「人間は死んで無と帰す」と思えば)、「人生に対して前向きに取り組むことが出来ることができない」、というものです。

次の例え話は、笠原さんのことについてではないのですが、(例え話そのものは否定しておられないので)、このような理由で天気予報することは「根本的な過ち」であることについては、笠原さんは私と同意しておられのだと考えます。

(ウ)雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることできるようにといった(心の深奥から湧き上がってくる思いを)理由に、「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。・・・事実は個人の実存的要請(心の深奥から湧き上がってくる思い)などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、個人の実存的要請(心の深奥から湧き上がってくる思い)を理由に、「明日は晴天になる(可能性が高い)」と予報しているからです。
笠原さんが
ここが、最大の勘違いです。私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません。
と言われるのも、笠原さんの場合はこの例とは違う、ということを言わんとされたのであって、このような理由で天気予報することは「根本的な過ち」である、というわたしの意見について反対されているのではないのでしょう。

ところで、「最大の勘違い」の理由として、「私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません」と言われているということは、この例え話における「明日の休日は晴天である」という予報を、「明日は晴天であって欲しい」と解釈されたことを意味しています。このことは、笠原さんが「信じる」とか「希望」というような言葉が嫌いなことや、「自分の力でどうしようもないことに対して「こうあってほしい」と望んだところで、一体それが何になるというのでしょう。望んでも何も解決しません」、といったご発言などとも一貫しています。

しかし、この例え話の「明日の休日は晴天である」という予報は、必ずしも、

「明日の休日は晴天であって欲しい」と望んでいる
という願望である必要はありません。この天気予報者は、「明日雨になると考えると、今日をより善く(良く)生きようという気力が湧いてこない」、という理由で、
「明日の休日は晴天である」と思っている
あるいは、その可能性が高いと思っているのかもしれません。では、この天気予報者は、「明日の休日は晴天であって欲しい」と望むかわりに、「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と思うことによって、「根本的な過ち」を免れることになるのでしょうか。免れることはできません。なぜなら、かれの根本的な過まちは、「思う」かわりに「願っている」ところにあるのでなく、明日の天気がどうなるかは、「今日をより善く(良く)生きたい、今日を前向きに生きたい」というような個人的欲求には依存していないにもかかわらず、そのような個人的欲求を理由に、明日の天気がどうなるかという客観的事実の問題に対して一つの選択をしている(「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と思ってしまう)ところにあるからです。

前回も指摘しましたように、個人的な欲求から、単に、明日の晴天を願うだけなら「大きな過ち」とは言えないでしょう。むしろ、個人的な欲求から明日晴天になる(可能性が高い)と思ってしまうところに「大きな過ち」あるいは愚かさがあると言えるでしょう。

まったく同じ理由で、

(エ) もし人間が死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きることができないので、「人間は死後も生き残る存在であって欲しい」という願いをもつだけなら、それは納得できる人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「人間は死後も生き残ると考えなければ人生を前向きに生きることができない。だから、人間は死後も生き残るはずだ、あるいは、その可能性が高い」、というふうに思い込んでしまうとき、この根本的な過ちが生まれるのだと言えるでしょう。世界がどのようになっているか(明日の天気、死後の私、等々)という問題に対して、個人的欲求(今日を前向きに生きたい、人生を前向きに生きたい、等々)を理由に一つの答えを選択されておられる(明日晴れになる、死後生き残る、と思い込んでおられる)からです。
これはやはり、体重を体温計で量るような、根本的なミスマッチの過ちであり、はなはだ非論理的・非合理的であると思えます。

(佐倉)


わたしは、事実問題と実存的要請は別々の次元のことがら(ミスマッチ)であって、実存的要請から事実問題への論理的な道筋はないという批判を繰り返し述べてきました。わたしとしては、「死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きていけない」という考え(前提)から、笠原さんは、どのようにして「だから、霊魂がある(可能性は高い)」という考え(結論)になったのか、その過程を明確にしていただくだけでよいのです。わたしはその二つの間にうめることのできないギャップ(ミスマッチ)を見いだしているからです。

ところが笠原さんはその過程を明確にされたことは一度もありませんでした。「死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きていけない」から「霊魂がある可能性は高い」と繰り返されるだけでした。


何回もお尋ねしているのですが、お答えいただけないようです。 めげずに、もう一度お尋ねしますが、 私の考え方によって、日常生活レベルにおいて、私に具体的にどのような(体重を体温計で量るようなレベルの)問題がおこっているのでしょうか?
先の問題に答えていただいて、わたしの理解(次元が違う・ミスマッチ・論理的飛躍)が間違っているのかどうかが、はっきりしなければ、このご質問にわたしは答えることはできません。なぜなら、もし、笠原さんがおっしゃるように、わたしの笠原さんの考え方に関する理解が見当外れだとすると、笠原さんの考え方が日常生活レベルにおいてどのような問題を起こすかなどという、次の段階の質問(笠原さんの考え方を理解した上で初めて答えることのできる質問)に、わたしが意見を述べることなどできないからです。


(2)人間存在の価値・人間存在の意味

いろいろとご説明戴きましたが、人生に意味が見出せないのですから、私にとっては同じことです(無意味になることも有意味になることもできないのではなく、同じように無意味なのです)。
全てが無くなった時点において8月14日)」、誰が人生に意味を見いださないのですか。誰にとって人生が無意味なのですか?


(3)関係性と存在

最初にあるのは存在であり、関係性ではありません。父母が最初に存在したからこそ、遺伝子情報という媒体を介して子供との間に関係性が生まれるのです。存在のないところに関係性は生じませんから。
もちろん存在のないところに関係性はありませんが、「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解ではないでしょうか。むしろ、すべての存在(すくなくともわたしたちの知っているすべての存在)は始めから関係性の中にあるのではありませんか。

子供の最初の形態を形作ったのは精子と卵子の特殊な関係であり、その精子と卵子はそれぞれもともと父母の体の中にあって、その体の一部として、父母との(部分と全体という)関係を持っていたものです。また、父母の体の一部である精子や卵子を構成する分子のそれぞれは、父母の食べた物質から直接あるいは間接的に作り出されたものでしょう。

そして、ご存知のように、分子とは原子と原子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、分子がそれ自体で存在しているわけではありません。その原子も原子核と電子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、原子がそれ自体で存在しているわけではありません。また、原子核は素粒子の関係であり、素粒子はクオークの関係であり・・・・という具合で、すくなくともわたしたちの知っているすべての「存在」は、よくみると、すべて関係のことです。

父と母との関係、精子と卵子の関係、体とその構成要素との関係、食べる生物と食べられる物質との関係、物質と物質との関係、等々、一人の人間の存在は、このような複雑で無数の関係に依存して、始めて「生じる」ものです。「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解だと思います。