笠原 祥です。ご回答ありがとうございました。

(1)事実問題と実存的要請

(ア)まず第一に、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、一方では「どちらかわからない」(証明できない)といわれながら、他方では「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。

本当のことはまったくわからないけど、それにもかかわらず、わたしは「人間は死後も生き残る」と信じる。100パーセントの確信はないけれど。

ということだろうと勝手に想像しなければなりません。明確に言ってしまえば、これが笠原さんの立場なのではないでしょうか。(それとも、わたしは誤解しているのでしょうか。)

はじめに、私は信仰者ではありません。信じるという言葉は望むという言葉と同じくらい嫌いです。 人間死して無に帰してしまえば、人生の意味が無くなると思うから、「人間は死後も存続する」可能性が高いと思うのであり、そう信じなければ人生をより善く(良く)生きていけないというものではありません。つまり、私にとって強迫観念的に信じること等必要ないのです。毎日を生きていく上でいちいちそんな面倒くさいことは考えておりません。

(イ)次に、笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。

つまり、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るので、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、「人間は死後も生き残る」という答えを、事実はわからないと認めつつ、選択されているということでしょう。(どうでしょうか。この部分でわたしは笠原さんを誤解しているのでしょうか。)

認めるも認めないもありません。事実はわからないのです。 「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。従って、消去法的に「人間は死後も存続する」と思っておりますが、それに固執しているわけではありませんし、「死して無に帰す」ということを完全否定しているわけではありません。つまり、視座を一つに絞り込んではいないということです(だから可能性が高いという表現をしているのです)。今後「死して無に帰すとしても人生に意味がある」ことを合理的に説明してくれる人が現れ、それに納得すれば私はいつでも「人間は死後も存続する」という考えを捨てます。

(ウ)ところで、雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることができるようにといった理由で、「明日の休日は晴天である」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。(これについて笠原さんはどうおもわれますか。)わたしが根本的な過ちを犯していると思うのは、たとえば、

在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです。

と、笠原さんも言われるように、事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、落ち込みたくないとか、今日を前向きに生きたいというような理由で、「明日は晴天になる」と予報しているからです。

ここが、最大の勘違いです。 私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません。だからこそ、「在って欲しいと思っても、無いものは無いし、在って欲しくないと思っても、在るものは在るのです」という表現をしているのです。自分の力でどうしようもないことに対して「こうあってほしい」と望んだところで、一体それが何になるというのでしょう。望んでも何も解決しません。

私にとって望むことは無意味であり、それよりも自分の頭で納得出来るまで考えることに重きを置きますが、もっと大切なのは具体的に日々をどう生きるかです。 より善く(良く)生きたいというのは、私の心の深奥から湧き上がってくる思いであり、 人間は、今という一瞬を生きることしか出来ませんから、「人間は死後も存続する」か否かにかかわらず、全力を尽くすというのが私のスタンスです。何を考え、何を思おうが、具体的な行動レベルに落とせば、選択の幅は殆ど無いのです。つまり、「人間は死後も存続する」と思おうが、「死して無に帰す」と思おうが、より善く(良く)生きるための具体的方法に違いが出てくるとは思えません。


(エ)同じように、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択するのは、大きな過ちと思われます。事実は個人の実存的要請などに依存していないにもかかわらず、「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、人間は死後も生き残ると思えば、人生に対して前向きに取り組むことが出来る、という理由で、「人間は死後も生き残る」という答えを選択しているからです。
人間は死後も生き残るという答えを選択すれば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るというほど、人生は甘いものではないでしょう。最も大切なのは、如何に考えるかではなく、如何に生きるかです。これも(ウ)と重複しますので割愛します。

それで、具体的(日常生活レベル)に私にどのような問題がおこっているのでしょうか?



(2)価値の関係性と価値の歴史性

したがって、誰もいなくなれば、「ぬいぐるみ」や「人生」の価値が無くなること(誰かがその価値がゼロであると評価をすること)はありえず、そのときの価値は云々すること事態が無意味になると言わねばならないでしょう。これは、「思考停止」ではなく、価値評価者が存在せず、よって、価値評価が不可能となれば、ものや人生の価値を云々するための価値文が成立しない(意味をなさない、ナンセンス)、という明々白々な論理的必然です。
いつのまにか価値論になってしまいましたが、私の最初の投稿は、 「もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります」 というものでした。まさに佐倉さんも認めておられるように、人生の価値を云々すること事態が無意味(意味をなさない、ナンセンス)なものになってしまうのです。



(3)その他

「同じような」(相似)ではありません。「同じ時に同じ場所」(同一)です。「同じ時に同じ場所を占めて同じ関係性を有すれば、同じ心(同じ個性)になる」でしょう。もし、二つの人物やものが、完全に、同時に同じ場所を占め続けることができるとしたら、わたしたちは、それらを二つのものとして区別することができず、同一人物、同一個性、同一物として取り扱う以外にないからです。
下記のような仮定を考えてみます。

例えば、ある夫婦に子供が産まれ、ケース1ではそのまま普通に育つとします。ところが、ケース2では生まれた翌日に子供が取り違えられ、本人も両親も全く気づかずに育てられたとします。この場合、佐倉様の理論だとケース1の実子とケース2の他人の子供は全く同じ個性になってしまいます。何故なら、両親の遺伝子情報が個性を形成するためのパラメータに入ってないからです。

もちろん、放電の原理によって雷という現象が説明できても、「だからといって、雲の上の雷様がいないことは証明できない、雷様は人間の目には見えないのだ」、などと頑張ることもできます。しかし、放電の原理の発見によって、雲の上の住人によって雷現象を説明する必要がなくなるように、仏教の人間分析や現代の精神分析からみれば、人間の中に内在すると空想されている住人(霊魂)でもって、人間の心を説明する必要はまったくなくなるわけです。そして、そのことによって、あるかどうかさっぱりわからないあやしげなものの存在を前提にしてものごとを考えるという愚かなことをする必要がなくなります。
愚かなことをしている自覚は全くありませんが、仮にもしそうだとしたら具体的(日常生活レベル)に私にどのような問題がおこっているのでしょうか? それよりも、両親の遺伝子情報を個性(性格)を形成するためのパラメータに入れない佐倉様の心の説明の方が、よほど怪しげであり、奇異に感じますが?



(4)個人的な感想ですが・・・

永遠に存続すると仮定すれば、永遠に成長できる喜びがあり、死は単なる通過点にすぎないのです。今という一点は、その成長曲線の一点であり、その曲線の微分値(傾き)が問題となります。今をより善く(良く)生きることが右肩上がりの傾きを保つことであり、一度右肩下がりの傾きをもってしまうと、もとのレベルに戻すことさえたいへんなエネルギーと時間が必要になります。

これは、ずいぶん、さみしく(他者の欠落)、みすぼらしく(おっそろしく観念的)、しんどく(余裕の欠如)、おもしろみもなく(冒険心や遊び心の欠如)、はなはだ心もとない(無知なる前提)、人生観のように見えます。

佐倉様もせっかちですね。 今回はグラフで説明しようとしたために、抽象的で無機質な表現になってしまいましたが、これを私の人生観の全てだとは思わないで下さい。私の人生観のうち、行動レベルの話しにはふれておりませんし、思考レベルの話しも「死後の世界観」にまつわるものに限定しております。 他者の存在が登場してこないのは、ただふれていないだけで他者をないがしろにしているのでも、他者との関係性を軽視しているのでもありません。それらが重要なことは小学生でもわかります。 人間は一人で存在しているわけではありませんから、今をより善く(良く)生きるとか、永遠に成長できる喜びは、他者との関わり合いを通して達成されていくものであり、ひとりで禅定していても得られるものではないでしょう。また、現実的であること、適当な緊張と弛緩(余裕)のあること、楽しく(時には厳しく)あること、そんなことは当たりまえのことです。
なぜ霊魂主義の人生観というものはこんなものになってしまうのでしょうか。想像してみるに、人生の意味や価値を論じるなかで、他者の存在が登場してこないのは、他に依存しないで永遠に自立自存する霊魂を自分の本質と考えるからでしょう。
霊魂が他に依存しないで永遠に自立自存する等と誰が言ったのでしょうか?存在していること自体が他に依存していることであり、永遠に存在するとしても、他との関係が無くなることはありえないと私は思います。

佐倉様は、霊魂という言葉を使う人はすべて同じような価値観をもっていると思われているようですが、視座は無限にあるのです。以前も書いたような気がしますが、自分の枠の中に押し込めようとするところに無理があると思います。



(1)笠原さんのご主張(「霊魂主義は合理的」)を理解するために

「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えることが「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的である・・・8月6日)」という笠原さんのご主張の、どこがどのように合理的なのか理解しようとしているのですが、どうやら、わたしの理解はそれほど的外れでもないようです。

少なくとも、わたしの次の解釈に関しては、(否定しておられないので)、わたしの理解は外れていないようです。

(ア)「人間は死後も生き残るのか」という問題に対して、笠原さんは、「どちらかわからない」という立場に留まっていないで、そこから一歩踏み出して、この問題に一つの答えを選択しておられます。つまり、笠原さんは、「人間は死後も生き残るのか」という問いに対して、個人的には、「人間は死後も生き残る」と思っておられます。

次の部分は、今回も、「「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。従って、消去法的に「人間は死後も存続する」と思っております」と繰り返しておられますので、わたしの笠原さん理解はそれほど外れていないようです。すなわち、

(イ1)笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思うことによって「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」、というものです。
しかし、今回は、「消去法的に」とか、「人間は死後も生き残るという答えを選択すれば、人生に対して前向きに取り組むことが出来るというほど、人生は甘いものではない」とも言われていますので、少し、言い換えねばならないようです。「「死して無に帰す」という考え方は、私にとっては「人生に意味は無い」という結論をもたらしました。人生に意味が無ければ、より善く(良く)生きようという気力が湧いてこないのです。 (8月24日」と言われていることと、あわせると、次のようです。
(イ2)笠原さんが、一つの答えを選択し、「人間は死後も生き残る(可能性が高い)」、と思っておられるのは、盲目的なものではなく、ちゃんとした理由があり、その理由は、そう思わねば(つまり「人間は死んで無と帰す」と思えば)、「人生に対して前向きに取り組むことが出来ることができない」、というものです。

次の例え話は、笠原さんのことについてではないのですが、(例え話そのものは否定しておられないので)、このような理由で天気予報することは「根本的な過ち」であることについては、笠原さんは私と同意しておられのだと考えます。

(ウ)雨が降っては折角の休暇が無駄になるため、客観的な気象データ(気圧配置、風向き、風速、等々)とは無関係に、たとえば、今日現在の気持ちが落ち込まないようにとか、今日を前向きに生きることできるようにといった(心の深奥から湧き上がってくる思いを)理由に、「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と予報するのは、根本的な過ちを犯しているとわたしには思われます。・・・事実は個人の実存的要請(心の深奥から湧き上がってくる思い)などに依存していないにもかかわらず、明日の休日が晴天になるかどうかという問題に対して、個人の実存的要請(心の深奥から湧き上がってくる思い)を理由に、「明日は晴天になる(可能性が高い)」と予報しているからです。
笠原さんが
ここが、最大の勘違いです。私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません。
と言われるのも、笠原さんの場合はこの例とは違う、ということを言わんとされたのであって、このような理由で天気予報することは「根本的な過ち」である、というわたしの意見について反対されているのではないのでしょう。

ところで、「最大の勘違い」の理由として、「私は「人間は死後も存続する」と思っておりますが、そう在って欲しいと望んでいるのではありません」と言われているということは、この例え話における「明日の休日は晴天である」という予報を、「明日は晴天であって欲しい」と解釈されたことを意味しています。このことは、笠原さんが「信じる」とか「希望」というような言葉が嫌いなことや、「自分の力でどうしようもないことに対して「こうあってほしい」と望んだところで、一体それが何になるというのでしょう。望んでも何も解決しません」、といったご発言などとも一貫しています。

しかし、この例え話の「明日の休日は晴天である」という予報は、必ずしも、

「明日の休日は晴天であって欲しい」と望んでいる
という願望である必要はありません。この天気予報者は、「明日雨になると考えると、今日をより善く(良く)生きようという気力が湧いてこない」、という理由で、
「明日の休日は晴天である」と思っている
あるいは、その可能性が高いと思っているのかもしれません。では、この天気予報者は、「明日の休日は晴天であって欲しい」と望むかわりに、「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と思うことによって、「根本的な過ち」を免れることになるのでしょうか。免れることはできません。なぜなら、かれの根本的な過まちは、「思う」かわりに「願っている」ところにあるのでなく、明日の天気がどうなるかは、「今日をより善く(良く)生きたい、今日を前向きに生きたい」というような個人的欲求には依存していないにもかかわらず、そのような個人的欲求を理由に、明日の天気がどうなるかという客観的事実の問題に対して一つの選択をしている(「明日の休日は晴天である(可能性が高い)」と思ってしまう)ところにあるからです。

前回も指摘しましたように、個人的な欲求から、単に、明日の晴天を願うだけなら「大きな過ち」とは言えないでしょう。むしろ、個人的な欲求から明日晴天になる(可能性が高い)と思ってしまうところに「大きな過ち」あるいは愚かさがあると言えるでしょう。

まったく同じ理由で、

(エ) もし人間が死後生き残らないとしたら、人生を前向きに生きることができないので、「人間は死後も生き残る存在であって欲しい」という願いをもつだけなら、それは納得できる人間の自然の態度であって、それに何かの誤謬があるなどとは言えないでしょう。それを、「人間は死後も生き残ると考えなければ人生を前向きに生きることができない。だから、人間は死後も生き残るはずだ、あるいは、その可能性が高い」、というふうに思い込んでしまうとき、この根本的な過ちが生まれるのだと言えるでしょう。世界がどのようになっているか(明日の天気、死後の私、等々)という問題に対して、個人的欲求(今日を前向きに生きたい、人生を前向きに生きたい、等々)を理由に一つの答えを選択されておられる(明日晴れになる、死後生き残る、と思い込んでおられる)からです。
これはやはり、体重を体温計で量るような、根本的なミスマッチの過ちであり、はなはだ非論理的・非合理的であると思えます。



(2)人間存在の価値・人間存在の意味

いつのまにか価値論になってしまいましたが、私の最初の投稿は、「もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります」というものでした。まさに佐倉さんも認めておられるように、人生の価値を云々すること事態が無意味(意味をなさない、ナンセンス)なものになってしまうのです。

同じことです。価値も意味も、誰かにとっての価値や意味ですから、価値の主体者や意味づけの主体者が存在しなければ、ぬいぐるみや人生の価値が無くなったり、意味がなくなったりすることは不可能です。価値の主体者や意味づけの主体者が存在しないところで、いったい誰が、ぬいぐるみや人生の価値を「ゼロである」と評価したり、その意味を「無意味である」と意味付けするのでしょうか。価値評価者や意味付け者が存在せず、よって、価値評価や意味付けが不可能となれば、ものや人生の価値や意味が無と帰すのではなく、ものや人生の価値や意味を云々することが無意味となるのです。そのとき、価値文や意味文が成立しなくなるからです。つまり、「人間が死して無と帰するとすれば、人生が無意味となる」などと思ったり、語ったりすることがナンセンス(文になってない)のです。

意味付けの主体者である人間が存在するかぎりにおいて、人間存在が無意味になったり有意味になったりすることができます。意味付けの主体者である人間が存在しないところでは、人間存在は無意味になることも有意味になることもできません。



(3)関係性と個性

例えば、ある夫婦に子供が産まれ、ケース1ではそのまま普通に育つとします。ところが、ケース2では生まれた翌日に子供が取り違えられ、本人も両親も全く気づかずに育てられたとします。この場合、佐倉様の理論だとケース1の実子とケース2の他人の子供は全く同じ個性になってしまいます。何故なら、両親の遺伝子情報が個性を形成するためのパラメータに入ってないからです。

なにかずいぶん誤解されていると思います。子供が取り違えられるということは、二人の子供が別々の場所(別々の母親の体内)に居たこと(異なった母子関係を築いていたこと)を前提にしています。また、別々の遺伝子情報が組み込まれているということは、子供を成立させている重要な部分(遺伝子を構成している分子や原子、精子や卵子)が、同じとき同じ場所(生殖器官)になかったこと(始めから異なった親子関係を持っていたこと)を示しています。

何度も繰り返しますが、二つのもの(人間、胎児、遺伝子、精子、卵子、分子、原子、等々)が同時に同じ場所を占めることは不可能です。だから、すべてのものは、他のすべてとは異なった関係を結ばざるを得ません。それが、個性というものです。

両親の遺伝子情報を個性(性格)を形成するためのパラメータに入れない佐倉様の心の説明の方が、よほど怪しげであり、奇異に感じますが?

笠原さんもせっかちですね。これを私の心の説明の全てだとは思わないで下さい。(^^)

遺伝子の事実も、人間(の心)を成立させているものが、本質的に関係性(この場合、両親との関係)であること、また、関係性を取り除いてしまえば何も残らないことを示しているさらなる事例と言えるでしょう。