佐倉さんのお考えと目的とされていることがよくわかりました。

現代の「学者」たるものにとっては、おそらくとてもはずかしくて出来ないような作業です。聖書には間違いがある、というような学術的論文を書いたら、学会で笑われてしまうでしょう。学者という立場ならとても恥ずかしくて出来ない低俗な「聖書のあら探し」を、マジでやっているところが、この「聖書の間違い」シリーズの存在価値といえるかもしれません。
「低俗な」というのはご謙遜だと思いますが,決して低俗ではないと思います。統一協会などから家族を脱退させたいという人たちに対して,支援団体が実際にこのような方法で協力し,成功しているようです。「真理の主張が知識ではなく権威を根拠になされている」のなら,その権威の自己矛盾をつくのは最も有効な方法でしょう。

ほんとうは世の「学者」たちは,学術論文を学会で発表するだけでなく,こういうことでもっと世の中に貢献するべきです。「学者」たちがやらないのなら自分がやろう,という心意気の佐倉さんには,頭が下がります。

しかし,それならばなおさら「福音書」こそは最もよい材料の宝庫だと思うのですが,それをあまり取り上げていらっしゃらないのは,やはり「学者」たちから「笑われる」のを恐れていらっしゃるからでしょうか。でも,堂々と「学者たちが認めていること」として,むしろ利用してしまえばよいのにと思います。

自分ではやらないのに,勝手なことを言ってごめんなさい。

佐倉さんのご健闘をお祈りします。

渡辺比登志


問題は、学者もそれに依存するようになれば権威となってしまう恐れがあることです。そのために、わたしは神学書を読むことにあまり積極的でないのかもしれません。それで、たとえば、自分の見解を支持してくれるような学説を探しまわったりするようなふるまいを意識的に避けているのです。それに、神学書の数は膨大なものであって、それに頭をつっこむと、きりがなく、聖書そのものを読む時間がなくなってしまいそうです。わたしは、ずっとむかしに、聖書に関する書ではなく、できるだけ聖書そのもの(あるいは仏教に関する書ではなく仏典[お経]そのもの)を読もう、というような決心をしたのです。(「作者より木村直之さんへ」を参照してください。)

まあ、そんなふうにいままで思ってきたのですが、最近では再び、もう少し神学書を読んでみようかな、という気もわいています。ひとりよがりに陥らないためです。おっしゃられるとおり、もっと積極的に

「学者たちが認めていること」として,むしろ利用してしまえばよい
のかもしれません。

どうするか、まだ自分でもよく分かりませんが、「聖書を学ぶには聖書そのものを読むのが一番」というわたしの基本的な考えは変わりそうもありませんので、やはり、いままでどおり、たまに覗いてみるだけ、ということになるかもしれません。