マルコ伝のなかの旧約聖書の引用について「マルコはサムエル記に出てくる祭司の名前を取り違えている」という佐倉様の「聖書の間違い」にかんする一連の議論とそれに対して、鈴木様が反論を寄せられた箇所、拝読しました。お二人が、様々な資料を駆使されて議論されたところ、非常に興味深く、多くのことを学ばせていただきました。その中で、とくに新約聖書の中の旧約の引用の仕方について

新約聖書の背景には当時の旧約聖書(タナック)の理解があります。新約聖書は日常の場を起点とし、旧約聖書のいくつかのバージョンを許容しています。当時にはアビアタルとアヒメレクについて区別していなかった可能性が無いと言えません。その場合は、むしろ当時の会話が正確に再現されていることになります。
という鈴木様のご意見に非常に共鳴するところがあり、拙いものですが、私なりのコメントさせていただきます。

旧約聖書にはいくつかのバージョンが許容されていたという鈴木様のご指摘は、新約聖書の中の旧約の引用を理解する上で、非常に大切な点だと思いました。

特に、新約聖書の中で引用されている旧約聖書は、初代教会のキリスト者によって(旧約)聖書がどのように読まれ、解釈されたかを告げる貴重な資料だと思いますが、それをただしく知るためには、ユダヤ教の聖典に伝承されたヘブライ語テキストだけでなく、いわゆる70人訳のギリシャ語聖書との対照が必要と思っています。

私は、聖書学者でも司祭でもなんでもない、ただの一人のキリスト者に過ぎませんので、厳密な文献学的考証は出来ませんが、ユダヤ教において、一冊の本としての(旧約)聖書の範囲と本文の確定は(ヘブライ語は子音テキストだけですから、母音の付けかたの伝承も含めて)キリスト教の成立以後であったこと、また、ヘブライ語の現存最古の写本よりも、70人訳ギリシャ語聖書の写本の方がずっと古い時代に遡ると聞いています。

だとすれば、初代教会のキリスト者が理解していた旧約のテキストが、現在私たちが親しんでいる旧約聖書、ヘブライ語の原典から翻訳したテキストとは、微妙な点で食い違いを見せることは、むしろ当然のことではないでしょうか。たとえば、佐倉様が問題としている箇所以外にも、ユダヤ人には良く知られていたと思われるダビデ王に関する伝承をパウロは

あなたは言葉を述べるとき正しいとされ、裁きを受けるとき勝利を得られる
(ロマ書3-4)
として引用しています。これは70人訳ギリシャ語聖書からの引用で、ヘブライ語聖書では
あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません
(詩篇51-6)
となっています。私は、今、どちらも新共同訳から引用しましたが、70人訳聖書のテキストを知らない人、あるいは、旧約といえばユダヤ教の聖典のテキストのみが絶対的な権威があると思っている人は、これをもってパウロが旧約詩篇を「誤読」 ないし、「誤って引用した」と考えてしまうのではないでしょうか。

しかしながら、ロマ書は、主として異邦人キリスト者にむけて書かれていたこと、そして、そのようなキリスト者にとって、(旧約)聖書とは、70人訳に代表されるギリシャ語訳聖書であったことを考えれば、パウロは当時の聴衆たちが理解していたとおりの聖書の言葉を引用したと見るのが自然でしょう。

新約聖書の時代の旧約聖書のテキストの読み方は、後世とは違って一意的に確定したものではなく、様々な釈義の仕方と結びついた複数の伝承が併存しており、最初期のキリスト者は、そこから彼らの新しい信仰に合致する旧約聖書の解釈伝承を主体的に選び取り、新約のテキストに織り込んだようです。

さきほどのパウロの引用している詩編 51-4 も、私は、ヘブライ語聖書のテキストよりも70人ギリシャ語訳の方が、ずっと内容的な拡がりがあると思います。

ホポース・アン・ディカイオーセース・エン・トイス・ロゴイス・スウカイ・ニケーセース・エン・トー・クリネスサイ・セ
を、私は、自分の祈りの中で、
御身は御言葉のうちに義とせられ、裁かれるそのときに世に勝たれ給ふ
とイエスご自身と結びつけて読んでいます。あたかも、パウロ自身が、常に絶対的な正しさを示すユダヤ教の神のイメージだけでなく、そこに同時に、人と共に裁きを受け、その苦しみの中で勝利を得られたイエスに、暗黙のうちに言及しているように感じます。

残念ながら70人訳聖書は日本語に訳されていませんし、一般の信徒にとって縁の薄いもののようです。

しかしながら、カトリック教会の典礼で読まれる詩篇のテキストは、長い間、基本的には70人訳に従っていました。私の持っているヴルガタ聖書では、旧約聖書学の成果を踏まえてヘブライ語から直接訳したラテン語新訳とともに伝統的な翻訳(70人訳からのラテン語訳)を並記しています。

テキストが二つあるのは、混乱を招くという見方もあるかも知れませんが、わたしはどちらも大切なテキストとして読んでいます。旧約聖書が書かれたそのときに持っていたもとの意味と共に、新約聖書の時代にキリスト者が、そこに見いだした新しい意味づけ、彼らの未来を照らし出した新しい読み方も大切だと思います。

新約聖書に関わりの深い旧約聖書のテキスト伝承に関しては、初代教会の人々が従った解釈伝承を、ユダヤ教の内に保存されたヘブライ語の聖書の読み方と共に重んじる姿勢が必要なのではないでしょうか。以上、新約聖書の中の旧約引用に関して、佐倉様と鈴木様の御論考に触発され、私が考えたことを纏めてみました。