ホームページ拝見いたしました。まだ全部ではありませんが とても興味深い内容でした。

実は僕もクリスチャンなんです。でもファンダメンタリストではありません。 進化論と創世記については僕も悩みました。 しかしその2つを矛盾なく結び付けようとする動きがあると知り 安心した事があります。

一口にクリスチャンと言ってもファンダメンタリストから リベラリストまで様々で、正確に分類なんてできないでしょう。 僕の教派でもいろいろな考えを持った人がいます。

主の豊かな御祝福をお祈りいたします。


進化論は生物学に属しますが、聖書の創世記の創造物語は神と人間の関係についての神話です。この二つはまったく別の次元に属するもので、比較に適さないと思います。進化論は生物学の研究の中から生まれ発展させられてきたものであり、すべての科学がそうであるように、反証可能な仮説と検証可能な実験から成り立つものですが、この聖書の創造物語は、「神」という実験の対象にも発見の範囲にも入らない、人間の知識の限界を超える存在を、単なる個人的な信仰の要請から、想定しなければならない主張であるために、いつまでもたっても科学とはなり得ないものです。一方は科学であり、他方は神話です。

わたしは、聖書はできるだけ素直に読むべきだと思っています。各時代の科学の主張や自分の好みにあわせて、聖書をゴムひものように勝手な方向に拡大解釈することは、知的に不正直な態度だとわたしには思われるからです。二千数百年まえの人々が進化論の主張を知っていたわけではないのですから、聖書の創世記の創造物語を、現代の生物学の主張に合わせるように解釈し直すような作業は、「真実を知りたい」という素朴な知的欲求から生まれたものではなく、わたしたちの知的良心に背くものだと思います。

聖書の創世記の創造物語は、二千数百年前の、ある一群の人々の考えを伝えているにすぎません。昔の人々の考え方が、現代の生物学者たちの考え方と矛盾していても、どこにも不都合はありません。むしろ、そのほうが当然であると言うべきでしょう。奇妙なのは、むしろ、その昔の人々の言い伝えを絶対化して現代生物学を否定したり、現代生物学に合わせて昔の人々の言い伝えをねじ曲げたりするところにあると思います。そして、このような無理が生じるのは、聖書というものを特別視・神聖視しているからです。罪つくりの原因は聖書を神聖視することにあると言えるでしょう。