聖書を理解するために

宗教改革以後、プロテスタントは全ての根拠を聖書に求めようとしてきた。しかし、いつしか神を信仰するのではなく、聖書の十全性を信仰するようになってしまった人たちがいる。

逐語霊感説の根拠として彼らが主張するのは
「もし、聖書に間違いがあるのなら、それを人間が判断することになる。」
「どのような基準によって真偽を見極めるのか?」

それは誰にも分からないし、証明も出来ない。ただ、その人の信じることに基づくものでしか有り得ない。しかし、聖書の字面を見る限り、矛盾しているところを指摘することはできる。客観的に(といっても自分の常識がその人の客観性になる場合が多い。なぜならば、採用した解釈に主観が入っていることを否定できないからだ。)できる作業はこれぐらいでは無かろうか?それを佐倉さんは実行しているにすぎない。その点で佐倉さんの作業は評価できる。逐語霊感説を取る人はこれに対し、説明を重ねるが多少無理(このように考えれば矛盾しないという主張)をして解釈しているところも見受けられる。

聖書を通して神がどんな方であるかを知るのであって聖書そのものが神である訳ではない。

逐語霊感説は論理的には簡明であるが、その正当性を示すために他の事柄を曲解せざるを得ない場合が多々ある。佐倉さんの指摘してきたこともこの点ではなかろうか。

どんなに科学が発展して奇跡などの実現可能性が証明されたとしてもその時代のその人物が本当に実行したかどうかは誰も証明することはできない。現代における犯罪でさえ、物的証拠はあっても本人が犯罪を犯したかどうかは間接的にしか把握できず、実際のところは誰にも分からないことも多々ある。

このように考えると、聖書を読んでみて、その記述が神の性質を現すものである かを 判断するのは本人の信仰、佐倉さんの言葉を借りれば「思い込み」によらざるを得ない。

そのように信じられる人は信じることができるし、信じられない人は他人がどのように説明しようと信じられるものではない。

人は経験によって物事を把握しようとする。聖書の中の記事は普通の人が経験しない事柄も多く語られているのであるからあくまでも自分の経験を基盤として物事を把握しようと固く決めている人には経験の延長線上にない部分が理解される、又は受け入れられるはずがないのである。

新しい知識を得る時、果たしてその知識が本当であるかどうかをどの程度、考えたことがあるのか?学校で習ったことをこの聖書に対して考えるようにその真偽を考えたことがあるのか?これは聖書がそれだけ考える価値のあるもだという証明かもしれない。

聖書を理解するには、まず信仰ありきである。その信仰が神から与えられたとするならば、「聖霊様の助けを借りながら」とはその一表現と言えよう。少なくとも神の性質が語られているかもしれないという期待を持つべきである。そうでなければ馬鹿馬鹿しくて読むことができないであろう。聖書を受け入れるかどうかは読み終わった後にでも考えれば良いのである。

その方針をもとに、奇跡などの実現可能性を証明したり、矛盾を指摘したるするのであれば意義がある。

でなければ前述のように、たとえ実現可能性が証明されたとしても、その時代のその人が実際に行ったかどうかを信じることはできないのである。

確かに矛盾が多すぎて信じるに値しない書物であると判断する人もいるだろう。それは読む人の自由である。しかし、同一人物によって書かれた書物ではなく、人間の手によって記されたものであるから、矛盾の多くはやむを得ないものだと思う。実際は分からない。私はそれらの矛盾を考慮したとしても聖書が神の性質について語られていることを信じているのである。

聖書が神の霊感によって書かれたかどうかは、聖書にそう書いてあるからではなく、その内容から読者が感じ取るものである。


「理解をする」ということは「知る」ということであり、それは「信じる」ということとは根本的に異なっています。信じることは「そうであってほしい」と欲するだけで成立し得ますが、知ることは欲するだけでは成立せず、目で見たり手で触れたりする経験や論理的作業を必要とします。また、知ることは「そうであって欲しくない」と思っても否応なしに知らされることがありますが、信じることは「そうであって欲しくない」と強く思い込んでいる限り、事実がどうであれ、成立します。

「聖書には間違いがあるが、それでも正しい」というような奇妙な強弁が生じたりするのは、このような信仰の性質のゆえではないでしょうか。信仰とは、必ずしも喜ばしいとは限らない真実を直視することより、救われたい欲求ばかりを先行させることにすぎないのではないでしょうか。