始めまして丹羽と申します。

貴殿のホームぺ時を拝見しました(一部ですが)。 その中で、「佐倉哲エッセイ集」中の「キリスト教・聖書に関する来訪者の声」 で、貴殿の聖書を学ぶことの目的が『聖書を信じることが目的ではなく、 聖書を知ることが目的だからです。』と述べられておりますが、これに関して 私の感想を記させていただきます。

「知る」とはこの場合「理解する」という意味かとも思いますが、

『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために 有益です。(Uテモテ 3:16)』 『なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、 聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 (Uペテロ 1:21)』 とあるように、聖書とは物理的に書いたのは普通の人間ですが、書かせたのは ”神”であると記されています。すなわち、人間が神の言われることを口述筆記 したような書物と考えられるかと思います。

またこの聖書の神は、『わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、 全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。 (出エジプト 6:3)』とあるように、"全能"の神であると記されています。

”全能”の神が”書かれた”書物、すなわち”聖書”を真に”理解”するためには、 読む人間が”神”と同レベルの能力を有しない限り無理だと思うのですが。 例えば、数学、物理、化学等の論文が日本語で記述されていたとします。しかし、 その論文を日本語が理解できる人間が読んだとしても、「読める」けれでもそれなりの 素養が無ければ「理解」することは不可能なのと同じではないでしょうか? その論文を真に理解するためには、論文を記した人間と同レベルの能力を有さなければ 理解することはできないと考えます。このことから、人間の力で”聖書を知る”ことは 不可能ではないでしょうか?「全能」の「神」が書かれた書物を人間の力で「知ろう」と することは、人間の傲慢ではないでしょうか?

人間の力で完全には理解することの不可能な書物”聖書”を真に知るためには、浜田さんが 書いているように『聖霊様の助けを求めながら、「どうぞ今、わたしにお語りください」 と読むべきです。』という態度が必要なのではないでしょうか? 聖霊様は私たちの”助け主”であると聖書に記されています。 『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたに お与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 (ヨハネ 14:16)』

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネ 3:16)』 とあるように、せっかく聖書を研究されるのなら人間にとって不可能な聖書を「知る」ことを 目的とするのではなく、「信じる」ことを目的にされてはいかがでしょうか。


とても重要なことを指摘されました。おそらく、ここで語られた「信仰」と「聖書」に関する考え方こそが多くのクリスチャンの意見を代表するものではないかと思います。

しかし、このような考え方は次のようなさまざまな問題を含んでいます。

(1)「神によって書かれた」と書いたのは人間

(新約)聖書に、聖書は「神によって書かれた」、と書いてあるから、聖書が神によって書かれたものであると判断しておられるようですが、「神によって書かれた」と書かれているということだけでは、聖書が神によって書かれたものであることの保証にはなりません。そう書いた人物が(旧約)聖書は「神によって書かれた」と思い込んでいたにすぎません。

(2)聖書信仰の根拠

しかし、実際は、聖書にそれが神によって書かれていると書かれていることを根拠にそう信じるようになったのではなくて、それ以前に聖書に対する信仰があったはずです。そうでなければ、イスラム教の『コーラン』も、モルモン教の『モルモン書』も、統一教会の『原理講論』も、およそ、神によって書かれた(神の啓示である)とその中に書かれている書物はすべて、神の言葉であると信じなければならないはずだからです。そうではなく、聖書だけに特別の信仰心を持つのは、聖書にそう書かれているからではなく、その前に、そう書かれていることを特別視するための聖書信仰が前提としてあるのでなければなりません。つまり、クリスチャンの両親に育てられたとか、クリスチャンの知人に教えられたとか、キリスト教関連の本を読んだとか、そういうものから「聖書だけに対する信仰」を受け継いだ事実が先にあったはずです。

聖書信仰とは、まず、それ(聖書信仰)を教えてくれた人々(牧師とか両親とか知人とか本の著者)の影響によって、心の中に生まれるものです。そうして、聖書信仰がいったん成立すると、聖書を根拠にした信仰生活をするようになるので、様々な行動が聖書的根拠を必要とします。自分の持つ聖書信仰さえも聖書的根拠が必要であると感じます。その必要性に応え、聖書信仰を聖書的に根拠付けるものとして、二次的に生まれるのが、「聖書自体が神によって書かれていると書いているのだから、それは神によって書かれている」、という、いわば、第二の聖書信仰なのです。

この第二の聖書信仰は、論理的に見れば、(ニワトリと卵とどちらが先かというような)悪循環に陥っているわけで、はたからみれば、全く説得力に欠けるのですが、本人にとって、この論理的欠陥が何の苦にもならないのは、かれの、もともとの聖書信仰が、実は、まったく別の根拠のうえに成立しているからでしょう。

(3)聖霊の援助

このように、聖書信仰が先にあるから、「聖書は神によって書かれた」と書かれていることも、真理として信じられるわけです。そして、その最初の聖書信仰は、同じような信仰を先に持っていた人々(牧師とか両親とか知人とか本の著者)からの影響によるものです。同様に、彼らは、彼らより先に同じような信仰を先に持っていた人々からの影響によるものです。こうして、人から人へ伝えられたもの -- 人間の伝統 -- への信仰こそが、聖書信仰の根拠だと言えます。しかし、このように伝統をさかのぼって行くと、なかには、自分自身が神から言葉を受けたと自己主張する人たちがでてきます。かれらこそ「預言者」(神の言葉を預かっている者)と呼ばれる者たちです。聖書の物語にはそういう預言者たちがたくさん出てきます。

わたしは、常づね、いかにして彼らは、神が直接かれらに語りかけた、と主張することが出来たのか、ということにたいへん興味を持っていたのですが、さいわいに、Uchidaさんからのたいへん貴重なお便りによって、人間というものはわりと簡単に「神が自分に語っているのだ」と思い込むことが出来るんだな、と納得することができました。聖書の中の預言者というのも、内容や程度の差こそあれ、おそらく、あんなふうに思いこんでしまっていたのだろうと思います。したがって、聖書の中の人物が「わたしに神がこう語った、云々」と自信満々に語っていても、特別なことがなにか起こったのだろうかなどと不思議がる必要はまったくありません。神が自分に語っていると思い込むことは、ひとによっては、実に簡単なことなのです。

同じようなことは、聖霊の援助によって聖書を「理解する」ことができるようになった、というような主張にも見られます。このような主張も本人がそう思いこんでいるだけで、客観的に聖霊の援助があったことを示すものは、まったくなにもありません。しかも、わたしの長年の経験によりますと、彼らは自分たちとは異なった聖書理解を持つ者たちに対しては、「聖霊が働いてない」とか、ときには、「悪霊によるもの」などと思い込んでしまう傾向があるようです。(たとえば、いまでも、まざまざと思い出しますが、かつてわたしがクリスチャンになったばかりのころ、札幌のあるクリスチャンの方がわたしのそばにきて、わたしの耳元で、わたしに対して「サタン!」と言い放って立ち去られたことがあります。わたしの聖書やキリスト教に関する理解が彼のそれと異なっていたからです。)

また、もし「聖霊様」など存在せず、聖書は神によって書かれたのではない、ということが事実であるとしたら、聖霊の助けによって理解しようとする努力は、どのようにしてその事実をわたしたちに知らせてくれるのでしょうか。そのような方法は、わたしたちを真理へ解放するものではなく、固説(ドグマ)のなかに一生わたしたちを閉じこめてしまうものであるように思われます。

(4)傲慢な態度

いったい、「自分の聖書理解は聖霊様の援助による」と考えるのと、「自分の聖書理解は自分の努力による」と考えるのと、どちらが本当に傲慢な態度なのでしょうか。前者は、聖霊(つまり神)による聖書理解ですから、(いかなる矛盾を見せつけられても)間違っていることを認めるわけにはいきません。したがって、しばしば自分の聖書理解を(聖霊の名によって)絶対化する傾向にあります。後者は、はじめから、不完全な人間の聖書理解に過ぎないことを認めていますから、間違いを認め、聖書理解の訂正を行う用意があります。前者は固説に執着し、後者は自説を修正発展させることが出来ます。

(5)結論

このように、丹羽さんのお勧めには、たくさんの問題がありますので、今のところ、受け入れるわけにはまいりません。わたしには、むしろ、神は信仰の対象かも知れないが、聖書は理解の対象である、と思われます。聖書は神に関する古代の人々の信仰や解釈の記録であり、それを神聖化する人々の主張を吟味し検討することは、神を冒涜することではなく、神以外のものを神として崇めない、聖書本来のメッセージに従うものである、と思われます。