近代および現代の日本人の大多数がキリスト教を受け入れないのは、様々な理由があると思いますが、ここで、わたしが指摘しているのは、「イエスを受け入れる」かどうかについてではなく、「イエスを神としてあがめる」かどうかについてです。イエスを「神が使わした救い主」として受け入れることと、イエスを「神自身」として受け入れることとは別のことだからです。わたしが指摘したのは、いったんクリスチャンになれば、日本人ならば、「イエスは神である」と言われても、おそらくさほどの抵抗は感じないであろう、ということです。
確かに、イエスを神として捉えるように子供たちに教えている教会もあります。 こどものさんびかに「イエスさまがいちばん」というのがあります。
どんなにかなしいときでも、どんなにくるしいときでも
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん
なあぜ だってイエスさまは、かみさまだもの だってイエスさまは、かみさまだもの
しかし、これはクリスマス(12月25日)をイエスの「誕生を祝う日」ではなく「たんじょうび」とこどもに教えるのと同じことではないでしょうか?

宗教を一般教育と同じ手法で取扱ってよいものか、という問題はありますが工学の世界でも、大学生までは単純に過去の経験式を公式として覚えて利用し、大学院生以上はその式の妥当性を考慮しながら使用するように、段階を経て教えられていくことがあります。(確かに、初期教育以上先に進まないクリスチャンも多くいるとは思いますが・・・彼らのために佐倉さんに忠告をする人たちもこの欄で見かけますね。)

神はイエスの生きざまを通して神の性質を彼らに伝えた。イエスを受け入れる人々は、あくまでも神に従う彼の生きざまを通して神の性質を知った。そして、その性質をして人間である彼に内在する神性をも認めたのではないでしょうか?イエスの内に神の性質は認めてもイエスを神としてあがめていないからこそ、三位一体という論理的に矛盾に満ちた不思議な説が展開されたのでしょう。(この辺りは個人の信仰によって相違があると思います)


キリスト教は、イエスを救い主と認めても、神そのものとして認めないものは異端者として追放しました。ローマ皇帝コンスタンチヌスは西暦333年に、そのような異端者の書物はすべてやきすてること、またそれを隠して所持していることが発覚したら「ただちに死刑にする」と勅令を出しています。それは大問題だったわけです。しかし、日本のキリスト教史において、「イエスは神であるかどうか」を神学的大問題にした事件があったでしょうか。むしろ、そのような問題はすでに解決されたものとして西欧型キリスト教をそのまま安易に受け入れたか、そのようなことが問題であることさえも知らないか、そのどちらかではないでしょうか。日本では、「イエスという人間は神である」といわれたときでも、それを問題と感じる人は比較的少ないであろう、と指摘したわけです。
歴史は見方により、様々な説が展開されるのですが、コンスタンチンはローマの統一支配を維持するためにキリスト教を利用したと言う説があります。彼にとってはイエスが神であろうとなかろうと関係なかったのではないでしょうか?ニカイア会議で出た結論に基づいて、コンスタンチンが権力を行使して国内のクリスチャンの思想統一をすすめたにすぎないという見方もあります。国家権力を背後に得た教会は次第に傲慢になり、本質を忘れて堕落していったのです。戦国・江戸時代のキリスト教弾圧や中国の文化大革命時に反革命分子と見られた人々が次々と投獄されていったのと同じように政治的背景に基づく事件だったのではないでしょうか。日本ではキリスト教を国教としたことがなく、僅か人口の1%に過ぎないクリスチャンのなかで「イエスが神であるかどうか」の激論がされても世間を騒がす事件には発展しなかったといえるのではないでしょうか?

最後に、佐倉さんの「イエスを受け入れる」というのは、どういう意味合いなのでしょうか?また、佐倉さん自身は、そのようにイエスを受け入れているのでしょうか?でなければ、どのように受け入れているのでしょうか?


(1)イエスを神としてあがめない三位一体論

Hirao さんが

イエスの内に神の性質は認めてもイエスを神としてあがめていないからこそ、三位一体という論理的に矛盾に満ちた不思議な説が展開されたのでしょう。
と言われるように、三位一体とは、そのような意味であり、それを表現するのに四苦八苦して作り出したのが「三位一体」という概念であるなら、三位一体がとてもわかりやすくなります。しかし、これは伝統的クリスチャンの間では「問題」をおこしそうな解釈であるようにも思われます。はたして、「イエスを神としてあがめていない」三位一体論は、歴史的に「正統」と認められる三位一体の解釈の範囲内にあったのでしょうか。とても興味深い問題です。ぜひ、もっと読者の方(とくに三位一体を信じておられる方)の意見を聞きたいと思います。

わたし自身は、三位一体を信じている教会に属していたときでさえも、ひそかに、イエスは神のロゴス(言葉、理想)の体現(受肉)者であるが、神自身ではない、と考えていました。そのため、自分を三位一体論者と見なすことは一度もありませんでした。


(2)日本におけるキリスト論・論争

Hirao さんの

僅か人口の1%に過ぎないクリスチャンのなかで「イエスが神であるかどうか」の激論がされても世間を騒がす事件には発展しなかったといえるのではないでしょうか?
というご意見はまったく正しいと思います。ただ、わたしはその日本のクリスチャンの神学史のなかでさえ、この問題に関する論争が十分なされなかったのではないかということです。問題を提起した人がなかったわけではありません。たとえば、小田切信男氏は、『キリスト論・ドイツの旅』のなかで、
イエスは神の子であって神ではない。神は死ぬわけがない。だからイエスが神だとすれば、彼の十字架の死と贖罪とは芝居になってしまう。
というふうに、まことにストレートに問題提起していますが、このような意見を、伝統的三位一体ドグマの杓子定規で「異端」として無視したりせず、まともに受けとめて反論したクリスチャンがどれほどあったでしょうか。わたしの知る限り、わずかに、八木誠一氏が、「小田切の主張は全く正しい点を含んでいる」としながら、ロゴスとイエスと復活のキリストの三つが「連続的にとらえられている点があるので、せっかくの正しい主張が十分にいかされていない」と批判しているだけです(『キリスト教は信じうるか』199頁)。しかし、もしかしたら、わたしの知見が限られているために、神学者同士の間で、あるいは、クリスチャン同士の間で、熱き論議が交わされているのを、わたしが知らないだけなのかもしれませんが…。


(3)「イエスを受け入れる」とは

佐倉さんの「イエスを受け入れる」というのは、どういう意味合いなのでしょうか?また、佐倉さん自身は、そのようにイエスを受け入れているのでしょうか?でなければ、どのように受け入れているのでしょうか?
新約聖書で「イエスを受け入れる」ことの意味は一義的には決められないと思いますが、もっとも顕著な立場は、とくにパウロの書簡に見られる神学で、イエスはその死によって人間と神との和解をもたらしたのであり、そのことを信じる信仰によって人は救われる、というものだと思います。このようなメッセージのなかに、三位一体を信じなければならないという要求を、わたしは見いだすことはできません。

わたし自身の神とイエスに関する現在の考え方は「作者からDavid Ahnさんへ」に少しばかり述べています。