1997年8月11日 「狸 さんより」の問いについて、私の理解とお答えを書きましたのでお送りします。

(1)

「Ελωι ελωι λεμα σαβαχθανι」 昔から疑問に思っていたのですが、もしイエスが 神であるのならどうしてこのような言葉がでたのでしょうか。 (狸さん)
これは絶望の叫びではありません。イエスが叫んでいるのは「ダビデの賛歌」という詩編22編の冒頭です。
詩編22:1
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。...
詩編22編はメシヤの預言とされていました。4福音書の受難のキリストは、
詩編22編に書かれている預言の成就として描かれています。

[1]

詩編 22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、

マタイ27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって

マルコ15:29-30 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。...十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

ルカ23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

[2]

詩編 22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

マタイ27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

[3]

詩編 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引き にします。

マルコ15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何 を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

ヨハネ19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物にな るか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下 着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

ルカ 23:34 ...彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

[4]

受難以外での引用としては詩編22:22が、ヘブル書で引用されています。

詩編 22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

ヘブル2:11-12 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

(ヘブル書でも「わたし」はキリストとされています。「教会」は旧約聖書の「会衆」の訳語であるエクレシアという語です。)

詩編22編の終結部を見ると、これは約束の成就の詩であることが分かりま す。

22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる 人々の前で私の誓いを果たします。
22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しまし ょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、 国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
22:28 まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御 前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

「わたし」すなわちキリストの苦難は約束の完成で終わり、「主のなされた義」が国と時代を越えて宣べ伝えられると読み取れます。

イエスは詩編22編冒頭により、自分の身に起こっていることを叫んでいるのです。もちろん、これを以て全てを言い尽くしていると言うつもりはありませんが、これが「イエスが 神であるのならどうして」に対するお答えです。

(2)

まったく、その通りです。福音書でさえ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)というような言葉をイエスの言葉として残しているように、イエスを神であるとする考えは、聖書だけからは、とてもでてこないだろう、とわたしも思います。とくに、創造者と被造物を厳格に区別する本来の聖書の伝統(旧約聖書)から見れば、イエスを「神人混合体」とする思想は明らかに異教であり、神でないものを神とする偶像崇拝にさえなるだろうと思われます。メシヤとは「油を注がれた者」、神によって(イスラエルの民の)王として任命され、イスラエルを救い守る使命を与えられた者のことを意味するのであって、「神人混合体」を意味するメシヤ思想は本来の聖書の伝統には見えません。(佐倉 哲)

「神人混合体」という概念は新約聖書にも伝統的キリスト教にもありません。「十字架のあがないと日本人」の「神としてのキリスト」について別途お送りしましたので、“イエスは神が人となった”ということがどのように新約聖書に書かれているかはそちらを見てください。旧約聖書と新約聖書の関係について、後日あらためて本文の問題点をご指摘いたします。


「神人混合体」という概念は新約聖書にも伝統的キリスト教にもありません。
「神人二性」ということばを使う日本の神学者はいます。「神人混合体」は、「(ひとりの人でありながら)真の神、かつ真の人」というキリスト解釈の表現を、わたし流に言い換えたものです。変なたとえかもしれませんが、「援助交際」などといわれているものを、「ようするに売春だろ」、と言ってしまうようなものです。