初めまして....これは佐倉さんにというより,佐倉さんに批判的な方にみてい ただければと思います.

 私はいわゆるクリスチャンと言われるものですが, 佐倉さんの関心点に概ね (すべてみているわけでもないですから)同調しています.私の知る限りほとん どのクリスチャンは聖書は矛盾しないと考え、難解な箇所については解釈を避け たり、またとても論理的ではないこじつけの解釈を試みようとしています.

 聖書(聖なる書という表現も問題ですが)の各文書は,そもそも書かれた時代 もまた書かれた目的も、はたまた誰に向けて書かれたのかも全く違うのですから ,そこに一致点を見いだそうとすることこそ無駄な努力なのだ思っています.むし ろ聖書の神は、そういった違いを許し,読むものに多様な発想をさせようとして いるのではとさえ思うのです.

 周知のごとく、福音書に限って言えば、マルコは主に口伝の資料を用いていま す.マタイとルカはマルコを下敷きに、いわゆるQ資料と又独自の資料を用いて います. ヨハネにいたっては共観なんて言えないような感じさえする文書です. マタイは、ユダヤ人キリスト者を想定して書いていますし、ルカにいたっては. ローマの高官すなわち権力者にすりよる格好で書いています. マルコはそれと は反対に、世から見捨てられた人々の立場から書いています.そんなで、一致な どするはずがありません.

 聖書の記述はいずれにしても、イエス後の教会の産物です.それぞれの立場す なわち信仰、教理,教会組織等を擁護するために、イエスの言葉に付け足しや解 釈を加えていることは明らかです.(そのことは悪いことばかりではないのです が)今そこいらのことを聖書学が明らかにしつつあります.そして矛盾多き聖書 の文書から、元のイエスにたどり着くべく研究が進んでいます.その研究には佐 倉のような発想が必要なのです. 今世の神学者たちはこの佐倉さんの(意図と は違うかも知れませんが)発題に真摯に応えるべきではないでしょうか. 長々 とすみません又思うことあれば発信させて頂きます                           


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