われわれのかたちに、われわれにかたどりとありますが、われわれとは誰のこと だとお思いですか?



ご指摘の、「われわれにかたどり」というのは、創世記の一章にでてきます。

創世記1:26-27
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
聖書の宗教は一神教であると通常信じられていますから、いったいこの「われわれ」とは誰のことなのか、という疑問が生じるわけです。

しかし、聖書を読んでみると、聖書の宗教が単純な「一神教」ではないことはすぐわかります。なぜなら聖書には、神は、神ひとりではなく、神と一緒にいる、沢山の他の「神々」についてしばしば言及しているからです。たとえば、

詩編 82:1
神は神聖な会議の中に立ち
神々の間で裁きをおこなわれる。

列王記上 22:19
だが、ミカは続けた。「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主(ヤーヴェ)が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。……」

などが代表的なものでしょう。つまり、正確にいえば、聖書の宗教は、純粋な一神教ではなく、ヤーヴェ神を最高神とする多神教だと言えるでしょう。聖書の一神教的性格を強調したい後世の神学は、他の「神々」や「天の万軍」を、神に創造された「御使い、天使」にすぎないと理屈を付けざるを得ませんが、聖書そのものにはそのような、御使い創造の記録はまったくありません。むしろ、聖書の著者たちは、この「神々」たちを、始めからヤーヴェ神とともにいるものとして、描いています。

たとえば、創世記二章によると、人間は、食べることを禁じられていた、エデンの園の中央にあった二つの木(「善悪を知る木」と「命の木」)のうち、ひとつから実を食べてしまいますが、そのため、園から追い出されます。

創世記 2:22
主なる(ヤーヴェ)神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
それで、人は、エデンから追い出されてしまいます。この失楽園の物語は、人間は神々とおなじように知恵を持つが、神々と違って永遠に生きることができない、という神話的説明なのですが、このことから、神々とは、人間のように知恵をもつが、人間と違って永遠に生きる者たちであると、この物語りの作者が考えていたことがわかります。このように、この物語の作者が、神々は「永遠に生きる者」たちである考えていたとすると、彼が、神々を創造されたものとして描かなかった事実もうなずけます。彼にとって、神々とは「ヤーヴェ神と共に始めからそこにある者」だったのでしょう。

一部のクリスチャンは、天地創造物語における「われわれ」とは三位一体の神(父ヤーヴェ、子イエス、聖霊)であると、解釈していますが、まったくのナンセンスです。三位一体思想は、イエス死後数世紀もたってからカトリック教父たちによって造り上げられたカトリック教理のひとつにすぎないのであって、それを旧約聖書の著者たちの思想にあてはめるのは、時代錯誤以外の何ものでもありません。

わたしは、すでに、パレスチナ地域における古代イスラエル民族が、二つの古代王国文明であるメソポタミアとエジプトのあいだに挟まれて、それらの強国に影響され、翻弄されつづけてきた弱小民族であった歴史的事実が、彼らの神観念を造り上げた、と指摘し、神とはメソポタミアやエジプトの王をまねた「(古代イスラエル人のための)王国の王」であるという仮説を提供しました(作者より木村直之さんへ)が、上記に引用した、「神の会議」とか「天の万軍」などという、詩編や列王記の記録を見ると、ますます、この仮説が正しいと思われてきます。つまり、歴史的にいえば、創世記の「われわれ」という、天にいて人類を支配する神々の観念は、古代王国の支配者たちのイメージから造られたものだと、考えられます。