はじめまして!竹下 力と申します。

ホームページの「聖書の間違い」というエッセイを読みました。よく研究されていて、すごく頭のいい方だと思いました。(私の頭が悪いのか...!!)及ばずながら、私なりの感想、考えを書きたいと思います。

まず、自己紹介になりますが、私は、保守的な福音派のクリスチャンです。ですから、佐倉さんとは全く正反対の立場をとっているということになります。来訪者の声もみましたが、やっぱりというか、案の定というか、反発の声が上がっているようで… まぁ、私も同じクリスチャンですから、そう言いたくなる気持ちも分かるのですが、はじめから喧嘩腰だったり、佐倉さんの意見を全く聞き入れなかったりで、もし気を悪くなさっていたらゴメンナサイ。同じ立場に立つ者として代わりに謝罪します。

さて、本題に移ります。

私は、先にも述べたとおり、福音派のクリスチャンですから、聖書は、誤りない神の言葉として信じています。ですが、佐倉さんもご指摘の通り、聖書にこう書いてあるから、絶対間違いない!という考え方は、賛成できません。なぜなら、人間には、必ず、どこかに間違いがあり、限界があるものだからです。たとい、聖書に全く誤りがなかったとしても、受け手である人間には、間違いなど五万とあって当然です。ですから、いかなる聖書解釈においても、神学でも、そこにTheを付けて、絶対視してはならないはずです。もし絶対に正しい、誤りがない方がいるとするなら、それが「神」だとおもいます。ですから、これから述べる私自身の考えも、あくまで私個人のものであって、絶対に正しいとも思わないし、必ず間違いがあるはずなのです。福音派の神学や、教理から外れる部分もあると思います。ですから、佐倉さんの考えを否定するつもり見なければ、私の考えを押し付けるつもりもありません。ただ、佐倉さんの文章を読んで、私の意見も聞いてもらいたくなったというのが本音でしょう。そんなわがままを、どうぞお許しください。

「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」 テモテ2 3:15,16

聖書が神の霊感によって書かれたという科学的な証明なんてできません。聖書を根拠とするしかないのです。今まで、クリスチャンがすぐにそう答えることを疑問に思っていたらしいのですが、ご理解のほどを…。ただ、それだけです。多分。

確かに、聖書の中には、矛盾に感じるところ、おかしなところがあるような気がします。わたしは、それを人間の眼と、神様の眼との視点のちがいだと理解しています。人間の目には、不思議なこと、絶対にありえないこともあります。あって当然です。天地創造の一連の話なんかでも、確かに科学的に判明されているところと違っているところがあると思います。ただ、私は、人知をはるかに越えて、ぶっちぎっているところにいるのが「神」だと思うのです。まあ、人間の浅知恵で見きられるような神なら、私は信じません。恐らく、それは神ではないでしょう。

ついでながら、天地創造に関して言えば、今、私たち人間がいて、インターネット上でメールのやり取りなんてしちゃうような高度な文明を築くに至るのに、たまたま、ビッバーンが起きて、この宇宙が形成されていく中で、たまたま地球のように生物が発生するのにちょうどいい環境ができて、そこにアメーバーかなんかが誕生して、そこから、いろんな生物に進化していって、そういった偶然に偶然を重ねてその中のヒトだけが突発的に他の生物をはるかにしのぐ知恵をつけて、現在にいたるって方が信じられないのです。これは、聖書に出てくるどんな話よりも、とてつもない奇跡だとは思いませんか?そこにやっぱり、創造主なる意志を持った存在、「神」が浮かび上がってくるのです。

その神様が語られた言葉、それが聖書です。もちろんこれには「信仰」ということが絡んでしまうので、佐倉さんの問う疑問なり、アンチテーゼにお応えしうるものではないでしょうが、この世界のメーカー側から見た世界がつづられているのです。時間の概念は、あくまで人間の主観です。太陽の動き、ものとものの動きの相対性の中で生み出された、人間の目で見た世界です。この違いがあるのではないだろうかと考えています。

論証にも何にもなっていませんが…創造主である神様が、何かを語りかけている、人間に何かを伝えようとしている、それが聖書であると思います。たとい人間の目から見て、科学的、歴史的に矛盾があったとしても、少なくとも神様はこう語っている、では、その意味は何なのか、この聖書を通して、神様がいったい何を語ろうとしているのか、何を伝えようとしているのか、それを見ていくのが聖書研究であるし、神学の役割であると思うのです。そういう意味で、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」ということだと、私は思います。

ただ残念なことに、過去のキリスト教の歴史において、自分たちの解釈を絶対視して、分裂分派をおこし、見なくてもいい血を流し続けてきました。魔女狩りも、ユダヤ人に対する迫害も、ここに根本的な原因があると思います。自分たちの神学を絶対視して、自分たちこそ神に従っている、忠実な僕である、間違いはない、なんていうのは、思いあがりもはなはだしいものです。それは、絶対者なる「神」の名を借りて、自分たちの義、正当性を認めさせようとする、きわめて愚かなことだと思います。これは、聖書から外れています。私たち自身も、うっかりするとこの危険性に陥る可能性のある、同じ人間であることを認めて、同じ失敗を二度と繰り返さないようにすると同時に、過去のキリスト教の過ちに対して、クリスチャンの一人として深くお詫びしたいと思います。

まだまだ伝えたいことがあるのですが、あまり長くなっても申し訳ないと思うので、また次の機会にします。これからも、ぜひこのページを続けてください。もし、かなうのであれば、本来聖書が語ろうとしている内容についても見ていってほしいです。

佐倉さんの今後の研究に、創造主なる神様の豊かな祝福と、実りある恵みがあふれますように、心よりお祈り申し上げます。

「ビッグパーン」理論は、不完全なわたしたち人間の目には矛盾に見えるかもしれませんが、事実の側から見た世界がつづられている真理なのです。また、「魔女狩り」や「ユダヤ人に対する迫害」などが「聖書から外れて」いるように思えるのも、わたしたち不完全な人間の目にそのような矛盾に見えるだけで、事実の側から見たら、聖書の教えと完全に一致しているのです。そして、聖書が神の言葉のように感じられるのも、「人間の浅知恵」がもたらした、おろかな判断で、事実の側から見ると、聖書などというものは、人間が勝手に造り上げたものにすぎず、まったく無益なものなのです。このように、「人間の視点」と「事実の視点」は違うのですから、人間の目にはいかに科学に矛盾があるようにように見えたり、聖書が神の言葉のように思えたりしても、それはあくまでも不完全な人間の視点から見たものにすぎないのですから、人知を超えた「事実そのもの」が語ろうとしている内容についても見ていってほしいと思います……

信仰とは便利なものですね。自分に都合の悪いすべての矛盾を無視し(つまり、いかなる自己吟味もす ることなく)、自分は不完全だと言いながら、なおも、人知を超えた「向こう側から見た」絶対的視点 に、いとも簡単におのれを置き、自分好みの思想だけをこっそり持ち込み、そこから発信することがで きるのですから。

ご意見、大変ありがとうございました。



再び竹下 力 さんより

ご回答ありがとうございました。今日読ませていただきました。 なかなか、厳しい……(^^;

確かに、信仰があるのとないのとでは、聖書に対するスタンスが、本 質的に違っているので、佐倉さんからすると、お話しにならないのかも しれません。でも、信じちゃってるしなあ・・・

人知を超えた「事実そのもの」が語ろうとしている内容についても見ていってほしいと思います
「事実そのもの」について、自分でもちょっと調べてみようと思います。 そうは言っても、佐倉さんほどには、調べられないと思うのですが……。 いい本があったら、教えてください。

またメールを送って見たいと思います。 まずは取り急ぎ、ご回答のお礼まで。感謝します。


再び作者より竹下 力さんへ

「事実そのもの」について、自分でもちょっと調べてみようと思います。 そうは言っても、佐倉さんほどには、調べられないと思うのですが……。 いい本があったら、教えてください。
これは、もちろん、信仰によるのです(^^)。調べても無駄です。竹下さんが調べて発見するであろうすべての間違いは、ただ「間違っているように」人間の眼に見えるだけなのですから。

ちょっと意地悪な返事で、ごめんなさい。立場を逆にすることによって、聖書を絶対化する立場がどのように僕の目に見えるかを理解していただきたかったのです。

ご感想ありがとうございました。また、是非、お便り下さい。