とても興味深いホームページをありがとうございます。

私自身、かつてキリスト教(ファンダメンタリズムの傾向を強く持つ、保守的プ ロテスタント)を信じたことがあり、そこから、血みどろの思いで抜け出した経 験を持つものです。 私も、かつて、ここにメールを寄せられているクリスチャンの方たちと同じよう に、熱心な(それゆえに排他的な)信仰を持つまじめなクリスチャンでした。しか し、今では、キリスト教を信じ、キリスト教に同一化していた、かつての経験を とても未熟な、誤った生き方であったと恥ずかしく思い出しています。 キリスト教を信じている方たちは(かつての自分も含めて)<自分たちの生き方、 考え方を至上のものとし、絶対化し、自分たちと同じ、考え方、生き方を持たな い周りの人々を、滅びの中にある哀れむべき罪人などと決めつけて、自分たちの 信仰を押しつけようとします。私は、十字軍遠征や魔女裁判、異端審問などの過 去のキリスト教の愚行は、現代のキリスト教においても少しも克服されていない と思います。ここでのクリスチャンの方たちの批判の文章を読むとき、そこに流 れているのは、いわゆる「正統的信仰」を告白しない人々を火あぶりにするよ う、かつてのキリスト教徒を駆り立てたのと同じ精神であると思われてなりませ ん。

私は、クリスチャンたちをそのようにしてしまうのは、キリスト教があれか、こ れかという二元対立の問いを設定して、その問題設定から、人が終始抜け出せな いようにしてしまっていることではないかと思います。キリスト教の宣教もこの 手法をとっていると思います。元々あれもこれもないところに生きている日常人 に、あれかこれかの問いを突きつけます。つまり、信仰か、不信仰か。救いか、 滅びか。天国か、地獄か。といったような二者択一を突きつけます。そして、そ のような善悪のはっきりした対立をたててから、そのどちらかを選びとるように 促します。当然、よい方をとらずにおれないようにできています。そしてよい方 を選びとることによって、自分たちは救われた、信仰を持った。しかし、周りの 世界は、それに対して、罪や暗黒に支配されていると決めつけるようになりま す。そうして、自分たちをどこまでも絶対化して、周りの人たちの生き方、考え 方を否定する、という結果になります。

佐倉さんはウォーレスのことを、昨日まで鉛筆を売っていたセールスマンが、ボ ールペンを売るようになったにすぎないとかかれていましたが、鋭い指摘だと思 います。あれかこれかというキリスト教の問題設定の中から終始抜け出してはい ないのです。あれかこれかの論理の中に生き続けているクリスチャンの方の目に は、あれか、これかの埒外に立って、キリスト教を肯定も否定もせずに生きてい る人すらも、キリスト教の敵であるかのように見えるのではないでしょうか。ク リスチャンの方の批判を読むとそのように思えてなりません。 日本人は、昔から、あれでもなければこれでもない、あるいは、あれでもあり、 これでもあるような、二元化を越えたところに、地に足をつけて、日常を生きて きた、深い知恵を持っていると思います。それなのに、クリスチャンの方たちは わざわざもったいないことだと思います。

といいいつつ、私もキリスト教に対して、批判がましく書いてしまいました。私 自身、キリスト教によっておわされた、二者択一の論理、二元的な問題接待を抜 けきっていないのでしょう。自分のいたらなさを思います。 乱文をお許しください。

まさにご指摘の通りで、「救いかそれとも滅びか」と迫る聖書の教えには自由選択の余地がありません。言葉では「選択はあなたの自由です」と言われても、片方の道は「死」「永遠の滅び」「地獄」「悪」の道であって、実質的には一方を選ぶことを強制されているのです。しかも、それが「神の言葉」として、一切の批判を受け入れぬ高みに置かれるとき、事態はなおさらそうです。それゆえ、聖書とは、それをまじめに読む者に「信じるか死か」と迫る一つの「逆踏み絵」であるとも言えます。かつて、キリシタンたちは「棄教か、さもなくば拷問と死」の選択を迫られましたが、聖書を読む者も、「信じるか」さもなくば「火と硫黄の池になげこまれる」(ヨハネの黙示録20:10)か、という選択を迫られているからです。だからこそ「血みどろの思いで抜け出した」といわれる言葉に重みがあります。

心の底から納得しているわけでもないときにも、信じなければならない --- そういうふうに自己を追い込む一つの強制的装置のようなものが聖書の思想の構造にあります。そこに数多くのクリスチャンの葛藤もあるわけです。

己の信ぜざるものに奉仕する。これが罪悪の母胎である。内面の離反と、外的な支持と、この二重性が人間には最も深い傷をあたえるようである…。はじめは信じ愛し、やがて内心離反しても、なお信じ愛しているかのように振る舞うか、はじめから半信半疑でありながら、しかも信愛しているかのような擬態をつづけて行くか、いずれにしても、己の信ぜざるものに奉仕するという行為は常住些細事においてもあり得る。僕にはこれが人生の最も辛辣な悲劇のように思われる。 (亀井勝一郎『わが精神の遍歴』)
「己の信ぜざるものに奉仕する」という悲劇からの解放を困難にしているひとつが、人間にはとうてい証明も反証明も不可能な、キリスト教の「審判」の思想でしょう。いかに多くの「愛」を語り、また「赦し」を語っても、究極的にはキリスト教の思想の根本には「審判」の思想があります。それが、拷問と死刑を前にして、心ならずも「踏み絵」を踏んでしまった「転びキリシタン」たちのように、本当は心から信じていないのに、審判を避けてこの身を助けるための、都合のよい信仰的模範解答を用意する習慣を、わたしたちに身につけさせるのです。